62.妖精の庭、懺悔は密やかに。【後】
私の求める答えは見つけられなかったけれど、お父様の優しさを滲ませたエメラルドの瞳はまっすぐに私を見返してきて、何事かを伝えようとする強い煌めきが宿っていた。
「ちょっと考えてみてご覧、この1件でライラはお母様を心の底から失望しきってしまったのかい? もう顔も見たくない、親子の縁を切りたいと思う程に憎みきってしまったかなぁ~??」
「そんな事っ!? 思いませんっ…思えません、そんな事!!」
いくらなんでも、この程度でそこまでの極論に至るほど性格破綻者ではないはずだ。
情緒に難ありとは思うけれども…、そこまで捻じ曲がったつむじも臍も、持った覚えはない。
「そうだろうともぉ~、そう考えると違うだろう~~? 本当の憎しみっていうのはねぇ、何もかもを灼く程に熱いんだ。 感情も、思考も、理性すら焼切られて…正常で居られない。 ドロドロとした煮え滾る灼熱が赤黒く蜷局を巻いてこの身に巣食う、その熱が焼き付けてくる…一生消えない憎悪をねぇ。 そんな感情を、アヴィに抱いたかい?? 違うだろう、ライラからはそんな異常な熱を感じない、アヴィに対するどんな悪感情も一切感じられないともぉ!!」
ーーいやに実感の籠もった言い方じゃないかしら…? 私に向けている視線の先に、誰を見ていらっしゃるの?? 駄々漏れな殺意が籠もりすぎてて、怖すぎなのですけれど??!ーー
反射的に身を震わせつつも、お父様の言葉に素直に頷けない、納得しきれなくて、何故かムキになってしまい時たまつっかえながらも言い募る。
「そ!? そこまで滾る感情は持ってないのは確かです! でも、私は…確かに!! お母様を悪しざまに、一方的に…、自分勝手に詰る、これは悪感情でしょう!? 悪感情でないなら、他に何だと言えるでしょう?!!」
「そうだねぇ~、ライラがアヴィに抱いた感情、それはズバリ…『甘え』かなぁ?」
「……え?」
今までに聞いたことのない単語を言われた気分になる、自分には理解できない言語でもたらされた未知の言葉かと思った。
『甘え』なんて…そんな感情、私が抱けているのだろうか?
「ある種の甘えから発生した拗ねを、ライラは深刻に受け止めすぎただけ、と言えば良いのかなぁ? ライラは凄く精神が大人びているよねぇ、でも自分の感情の変遷には疎い感じで、まるで感情の成長を待たないで精神だけが一気に大人になってしまったみたいなちぐはぐさだよねぇ~?」
目を細めて寄越された視線はこちらの反応を窺うようで、思わずギクリと身体が強張りそうになるのをなんとか堪える。
「あれだろう~、『自分の母親が世界で1番』というのが世間一般の健やかな環境で育った子供が持つ正常な深層意識なのだろうよぉ~、私にはとんと理解できないものだがねぇ~~?? その深層意識を、ライラも上手く受け止めきれていないんじゃぁないかなぁ~、だから余計に恥じ入ってしまったんだと思うよぉ、こんな子供じみた理由でってねぇ~~?!」
前半部分は誰かから聞きかじった知識のように、眉間に深い皺を刻み顔を渋面に歪めながら理解に苦しむように唸ってぼやく。
後半は少し表情の渋さを緩めてにっと片方の口角を引き上げて少し戯けて見せながら問いかけてきた。
「ライラはただ、拗ねてしまったんだよぉ! “大好きなお母様”の欠点を教えられて、それも本人の口からでなく赤の他人から言われたっていう事にもねぇ!! だからってその事を口にした相手に言えなかったんだろう~? 『お母様を悪く言わないで』ってねぇ~?? それで外に出せなかった鬱憤がライラの中で時間とともにどんどんと膨らんでいって、且つ一向に消化も解消もされていかなかった。 だからアヴィに会った時に顔を見られなかった、それはアヴィに八つ当たりしたくなかったからだろう! 靄ついた心のまま心にもない酷い言葉をぶつけてしまいそうだと思ったから、ライラは無意識に抑止をかけてアヴィを避けることにした、違うかなぁ~?」
「……拗ね、た…? 私が…、拗ねた?」
またも今までに聞いたことのない単語を言われた気分になる、言われた言葉が上手く飲み込めない、頭が『?』で埋め尽くされて解析処理が進んでいかない。
予想外すぎる指摘をされた私は目を白黒させて混乱状態、ふら~っと2、3歩後ろによろけてしまいながら心の中を浚ってみる。
『甘え』も『拗ねる』も、初お目見えな単語、私とは縁遠いものであるはずだった。
前世ではそんな感情、抱く機会はもちろん皆無だった。
わたしの両親に対するどんな憧憬も希望も尽く踏みにじられて潰えるのみだったから、抱けるはずもなかった感情だったからだ。
ここでやっと気付く、今の私と前世のわたしは=ではないということ、その事実に愕然としたのはほんの一瞬だった。
衝撃は直ぐに立ち消え、新たな疑問とその答えのような何かをすぐさま呼び込んだ。
ーー今世の私は…ずっと、前世の記憶を思い出してからも自分のことを私と呼んでいる。 前世のわたしの一人称はずっとわたしだった、こんなお嬢様丸出しの一人称なんて、口にした機会は高校受験の面接くらいのものではなかろうか?ーー
私はずっと私だった。
いろんなことに気を取られて、自分が何者であるのかを深く考える機会がなかったのもある。
今こうやって思考している私は前世の記憶にあるわたしに取って代わられたわけではない、今世で確立していた私という人格に前世のわたしの記憶が乗っかってその一部が溶け込んだだけ。
性質や趣味、思考は侵蝕され塗り替えられた部分が著しいけれど、人格は侵されていない、今生で実際に生きているのは私であって、決して前世のわたしではないのだから。
感情の起伏が乏しかった前世のわたし、でも今世の私は常に落ち着きなくはっちゃけた思考を平気でしてしまえるくらいには陽気さも暢気さも備わっている。
お父様が言ったように、『世間一般の健やかな環境で育った子供』らしく喜怒哀楽が容易に晒せる。
これが今の私、どんな記憶に侵蝕されようと、埋没させられようと、もう二度と揺るがない確固たる人格。
誰にも今の私を消し去ることはできない、無かったことになんてならない。
私は私、ライリエル・デ・フォコンペレーラなのだ。
そのことがストンと胸に落ちてきた。
心が落ち着いてこの事実が私の中に定着したら、先程のお父様の言葉までもがストンと腑に落ちた。
ーー私は、お母様に常日頃から『甘え』ていて、尚且つ見かけだけで判断して作り上げた理想のお母様像を壊されて『拗ね』てしまった。 でもそんな子供じみた感情のまま、周りにも、お母様にも言葉を発せなかった、発したら駄目だと思った。 だって私は16歳まで生きた前世のわたしの感覚に精神が感応して引き上げられてしまったから。 幼女のままの感情の発露、でもその精神は16歳の少女であったから羞恥が勝ってあんな態度を引き起こすに至った、と。 纏めると、こんな感じかしら? 随分と客観的に自分を省みられたわね、葛藤していたのか嘘みたいにあっさりスッキリしてしまえたわ…!!ーー
「そ……う、みたい、です…? 私は…『拗ね』てしまって、だからお母様にあんな態度を…!? でも、あんな酷い態度をとった私を……、天使みたいに優しいお母様であっても、もう…、赦してくださらないのでは…?!」
自問自答を終え、お父様が導いてくださったからこそ辿り着いた答えを口に出して肯定してから、目の前に横たわったままの変わらぬ現実に直面して、赤味の戻った顔色を再び蒼くする。
「あっはっはっは、それこそ杞憂というものだよぉ~?! そんな簡単に私たち親子の、家族の絆は壊れたりなんてしないともぉ~~!! まず間違いなくアヴィはこんなことくらいでライラを嫌ったりしない、怒ったりもしないともぉ~、断言できるさぁ~~っ!!」
悲壮感を多分に漂わせて抱える不安を吐き出した私に、お父様は陽気さを全面に押し出し軽く笑い飛ばしてくださった。
でも抱える不安はそれだけではない、自分の経験不足を心の中で大いに嘆き、恥入りながらも尋ねずには居られない事柄、それはーー。
「そうでしょうか…、でも、私……。 どうやって、謝ったら良いのか…? 経験が無くて、全部詳らかに順を追って話したほうが良いのでしょうか?! それとも要点だけを掻い摘んで謝罪するほうが、良いでしょうか??!」
「ライラ、深刻に考え過ぎだと私がさっき言っただろう~? 身構えなくて良いさぁ、難しく考える事もしなくて良いともぉ~!! 自然にその時思ったまま、言葉は飾りさぁ、大事なのは心、誠意が籠もっていれば謝罪は自ずと伝わるものだからねぇ~?」
私が落ち着くように、できる限り静かに諭して下さるお父様の言葉が胸にささる。
でもどうしたって不安になってしまう、だって前世のわたしはずっとまともに謝罪もさせてもらえなかったからわからないのだ。
「でも、支離滅裂になってしまったら…? イライラ、しませんか…?? その…、理解し辛いと思ったら、聞きたくなくなりませんか、私、不安になり過ぎているとは思うのですが、……怖くて。」
言葉に出すと一層、恐怖が増してしまった。
嫌われたくない、その気持ちが臆病にする。
言葉を自然に紡ぎ出すことに抵抗を覚えさせる。
ーー言葉を尽くして伝えようとしても、途中で遮られたり、『もういい、聞きたくない!』と言われてしまったら? 『嫌いだ』と言葉にされなくても、私への態度で、目線で、そうだと示されたら……怖い。ーー
嫌悪を煽るような言動は控えたい、相手に配慮して、顔色を窺って、空地を読んで、時と場合を見誤らずに正しい言葉を選び取らなければ……前世のように、なる……だろうか?
視線が下がり再び俯いてしまいそうになる、その途中で段々と暗くなる考えが、静止した。
いたずらに怯えて震えるだけだった心が気付く、前世の両親と今世の両親とでは大きな隔たりが有ることに。
私はいつも前世の両親ばかりを基準にして考えすぎていた、最悪しか想定しておらず、今世の両親を蔑ろにしていたも同然だったと此処で初めて思い至った。
ーー何で未だに私は前世の両親に縛られ続けているんだろう…? もう二度とあの頃に、あの世界に帰ることなんてないのに、気にし続けなければいけないんだろう?? 私は何を引き摺り続けているんだろうか、いつまでも、こんなのおかしい、間違ってる。ーー
俯きそうだった顔を正面に向けて戻し、下げた視線を上げて、今目の前に居る今世の父親、お父様をまじまじと見る。
合わせた視線は外されない、見返される視線の中に一切拒絶は見受けられない。
何処までも深く澄んだエメラルドの瞳には、限りない愛情しか宿っていないから。
だから自然と安心して、緊張しきっていた心が緩んで、涙がポロポロと零れた。
「ライラ、少しでも伝わったかい? 私の不器用な意志の伝え方では上手く伝えきれないだろうとは思うが、私はねぇ、本当に心からライラを愛しているよぉ~、私の娘として生まれてくれたことを心の底から、……うん、とても嬉しく思っている。 それはお腹を痛めて産んだアヴィなら、尚更だろう!! 何も不安に思うことなんてない、私たちはライラのどんな言葉だって必ず聞きたいと思う。 理路整然となんてしていなくたって構わないさぁ!! ライラの言葉だから聞きたいんだ、怖がらずに何でも話してくれて構わない。 偽ることも、取り繕う必要すらないとも。 伝えたい時に、伝えたい言葉で教えて欲しい。 私たちはライラが話してくれるまでいつまでも待っているからねぇ~!!」
物理的に開いていた距離を縮めて、お父様が私の目の前まで歩み寄って再び視線を合わせるため片膝をついて下さる。
お父様が話して下さっている間も、流れ続ける涙を何度も何度でも、零れる側から優しくすくい取って下さる温かい指先。
惜しみなく与えられる言葉と分け与えられるぬくもりに余計泣けてしまって、にわか雨程度だった降涙量がゲリラ豪雨級に急成長するのにさほど時間はかからなかった。
再びのお膝抱っこ、私の中では今度の方がより恥ずかしさが際立っている。
だって恥も外聞もなく号泣してしまった後なのだ、ぽんぽこぽんに泣き腫らした瞼をニコニコしながら治癒して下さったのは勿論、今現在もご機嫌で膝抱っこをして下さっているお父様だ。
瞼の腫れは綺麗に治り、泣きすぎてガンガンと打ち鳴らされているように痛んでいた頭も落ち着いてきた。
「そうそう、余談だがねぇ~~? 俄には信じ難いとは思うが私はねぇ、今でこそ自然にアヴィへの溢れる愛を言葉にできるようになったが、若い頃はそうはいかなくってねぇ~? 恋愛ごとには縁も所縁もなくてからっきし、驚くほど口下手だったんだよぉ~、今の私しか見ていないライラたちには到底想像もつかないかも知れないがねぇ~~??」
唐突な語りだしに面食らいながら、その内容にもっと面食らう。
「ええっと、はい、想像できません……え、それは本当に、お父様のお話ですか?」
お父様の言葉を借りて素直に聞き返してしまったくらいだ。
率直過ぎる切り返しにも気分を害した様子は全くなく、同じ調子での語りは続いた。
「あっはっはっはっは! 私にだって不得手なことくらいあるさぁ、人間だからねぇ~? アヴィに出逢うまでは女性に好意を抱ける要素が見出だせなくてねぇ~、高位貴族の嫡男だったから擦り寄ってくる女性は後を絶たなかったがぁ、良い意味で記憶に残るような人物は皆無だった。 後継者を~、なんて口煩く宣うような、強要するような輩はその頃の私の周りには居なかったからねぇ~! 自由気儘、独りで生きて独りで死ぬ、それでも構わないと思っていたんだよぉ~、本当にねぇ。」
そう言ったお父様の声に揺らぎはなく、過去本当にそう思っていたことが理解できた。
しかし次なる言葉からは少し様子が変わる、今までと同じ朗らかな調子、でもその中に隠しきれない愛しさがだだ漏れだしたからだ。
「でも日頃の無理が祟ってあわや行き倒れってときに出逢ったんだよねぇ~、本当に偶然その場に出くわしたアヴィに救けられたんだぁ、死にかけだった身体と、殆んど死んでいた心をねぇ…。 文字通りアヴィが私を救い上げて、生き長らえさせてくれたんだよぉ!! そして今こうやって、家族になって共にいられる幸福は当たり前じゃない、とても特別な事だということも、アヴィが解らせてくれた…だから言葉を惜しむことはもう二度としない、どんなに不格好だって伝えたいんだ!! 惜しむくらいなら後悔するほど言葉を尽くしたいんだよ、私はねぇ!!!」
ーーなぁ~~んだ、安定の惚気話だったのかぁ、一安心♡ どんなとんでもな新事実が発表されてしまうのかって身構えてしまったけれど、そんな必要なかったわねぇ~♪ もうどんな惚気話だって笑顔で聞き流せるんだから、見てくださいな、この見事なアルカイックスマイルを!!ーー
何故今こんなにもお父様はお母様への愛を語り聞かせてくださるのか。
ーーこれも私がお母様に本音を話しやすくするための布石なのだろうか、否、それはなさそう。 だってお父様のこの表情、惚気けたいだけっぽいもの。 娘にまで惚気けられるなんて、お父様ってホントにブレないわねぇ~…。 お母様が羨ましい、かも…?ーー
むくむくと湧き上がってきたある感情に突き動かされて、滑らかに言葉が紡ぎ出される。
「お父様はこの世界で唯一を誓える相手に、愛を捧げられる相手に出逢えたんですね。 人生を変えるような運命的な出逢いを果たせた、一生に一度あるかどうかな奇跡を体験なさったのですね。 だからお母様への想いを隠さずに堂々と伝えようと、なされるのですね…!」
私もそんなふうになりたい、いつかは誰かの心を救えるような優しい存在になりたい。
そこまでは無理だったとしても、言葉で、態度で、誰かにホッと安らぎを与えられるくらいには、なっていたい。
ーーだから私も、言葉を惜しむのはもうやめる。 言わない後悔より、言って後悔しよう! TPOに相応しい言葉を伝えられるように、今から練習していこう!! 悪役令嬢だからって、引け目に感じず出来ることからやってみよう、だって私はまだたったの3歳なのだもの!!!ーー
お父様の膝の上で少しだけ前方へと身動いで、背後のお父様の顔が振り仰いで見えやすいようにする。
じーっと見つめて、私の視線に気付いて見返してくださるのを待ってから思ったことを素直に言葉にする。
「ありがとうございます、お父様! 教えて下さって…本当に、隠しだてなく語り聞かせてくださって!! 凄いです、本当に、お父様の愛情は本物だって思います、お母様に対しても、お兄様たちや……私に、対しても…!! お父様の愛情は偽物なんかじゃありません!! 誰にも負けない、お父様だけの、私たちを幸福にして下さるに足る以上の愛情をちゃんと下さってます!! 流石『鷹』の意を持つ公爵家の当主に相応しい愛情深さ、ですね!!!」
お父様が感じている不安を少しでも軽くすることができたなら、そう思って言葉を尽くす。
私の想いは、お父様にちゃんと届いただろうか?
「ははは、ライラぁ~、君って子は…本当に……! ありがとう、ライラ。 ライラは本当に、優しくて聡い、どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘だよぉ!!」
その答えは一目瞭然。
照れたようにはにかんで、戯けた口調は控えめに感謝の言葉を告げられる。
その表情は泣き笑いのようにも見えて、口髭など問題でもなく童顔さが際立って、少年のように幼い顔つきに見えてしまい酷く心が擽られた。
だからだろうか、余計な言葉が飛び出してしまったのは。
「…恋、というか、誰かに好意を持つこと自体に全然、想像も夢や希望も持つことなんてできませんでした、今までは…。 でも、お父様のお話を聞いて、考えが変わりました! 私、理想の旦那さんが決まりました!!」
もじもじしながら俯き加減に話だし、次第に興が乗って、最後は身を乗りださんばかりに勢い込んで、体の両横で握り拳をつくりつつ力一杯に力んだせいかお腹に力が入りすぎてちょっと叫んでしまった。
「んん?! それは興味深いねぇ~? それはどんな人物なのか、聞いてもいいかなぁ?? できれば是非聞かせてほしいものだねぇ~、今後の迅速且つ適切な対応のためにも♡」
ーーあらら? 最後の方、エリファスお兄様と笑った顔がそっくり同じ♡ 内包した黒さが滲んで見えてくる感じがすんごくデジャヴだわ、流石親子!!ーー
イイ笑顔で問われた言葉、そこには隠しきれない真っ黒な感情が溢れるほど込められていた。
でも何をそんなにピリついているのかがとんとわからない、今のどこにピリつく要素があっただろうか。
ーー3歳幼女には、原因を理解するのはちょっと難しいわね!ーー
なんかこれ以上考え込んだら藪蛇な気配がぷんぷんするので、幼さを理由に突き詰めるのを拒否する。
「私、大きくなったら…。 …、……っお父様のお嫁さんになりたいです!!」
「ん、んん~~っ?! 私みたいな、じゃぁ…、なくてかい~~?」
鳩が豆鉄砲、な意表を突かれまくったお顔をなさっているお父様が呆然と、今自分が聞いた言葉を信じきれていないように聞き返してくる。
「はいっ! お父様が良いんですっ!! 私もお母様と一緒に、お父様のお嫁さんになります!!!」
ーーいきなり、言動が幼くなりすぎてしまったかしら? こんな発想、今どきの3歳児は既に抱かない感情だった?! ヤヴァイッ!! 早くも自信喪失、言って後悔する状況に陥ってしまった、自ら掘り下げた穴によって!!!ーー
見事な自作自演に頭を抱えそうになる。
そんな心の葛藤をふっ飛ばしたのは、段々と膨れ上がった感情を爆発させたようなお父様の呵いだった。
「ははっ、ふ、ははっ、あっはっはっはっは!! そうかぁ、それは……嬉しいなぁ、あぁ、うん…とっても嬉しいよぉ~~!! でもライラの願いを叶えたいのは山々だがぁ、問題が1つどころじゃないなぁ~、山積みだよぉ~~?! 1番の難関は、どうやってアヴィに許可を得るかだねぇ!? いやはやぁ、難易度が高すぎて頭が痛くなってしまうなぁ~~、ははははっ!!!」
真剣に、かと思えばやはり冗談めかしたように、笑ったり悩んで唸ったり、忙しなくコロコロと表情を変えて私の言葉に喜色満面で乗っかって下さる。
子供の戯言、幼稚で実現不可能だとわかりきった言葉を喜びとともに受け入れて下さった。
それがこんなにも嬉しい、面映い感情を呼び起こすものなのだと、初めて知った。
遠い昔に打ち捨てられた心が今、救い上げられ、優しく慰撫された。
あれはいつのことだったろうか?
わたしがまだ小学校に上がる前、幼稚園の先生に『今日は父の日です、お家に帰ってから今日つくったプレセントと一緒にお父さんに好きの気持ちを伝えてみてね~!』と言われていた。
だから仕事から帰ってきた父を玄関で出迎えて、舌っ足らずながらも精一杯気持ちを込めて紡ぎあげた言葉と手描きの父の似顔絵のプレゼントを差し出した、ドキドキと胸が高鳴っていたように思う、どんなに喜んでくれるかとこの時は純粋に期待していた。
それを聞いた父は実に不愉快そうに顔を歪めてイライラと吐き捨てるように限りない拒絶の言葉を寄越してきた。
『こっちは疲れて帰って来たってのに、下らない! 馬鹿げたこと言いやがって…!! あぁ、イライラするっ、二度とこんな巫山戯たことするなっ、もうこれ以上その口を開くんじゃないぞ!!!』
受け取られなかった言葉はプレゼントとともにごみ屑のように打ち捨てられた。
勿論、この前にあった母の日も同じだった。
心を込めて精一杯、今描ける最高の出来の母の似顔絵はビリビリと破り捨てられ、一緒に贈った言葉と共にゴミ箱へと送られてしまった。
母だけでなく父でさえも、わたしを嫌っていると知ったのは…理解したのはこの出来事が決定打となったのだと思う。
この出来事がわたしの中にあった両親への捨てきれない淡い期待、それをわたしに抱かせた愛情を求める心に蜘蛛の巣状に伸びる細やかな無数の罅が大きな音を立てて刻み込まれた。
この身に起こる良い事は悪い事が起こる前触れ、悪い事はより悪い事が起こるきっかけに…。
起こるべくして起こった転機、この時からゆっくりと坂を転がり落ち始めたのだと思う。
深淵の見えない坂の終わりを目指して、徐々に徐々にその速度を増して転がり落ちていった。
前世のわたしの周りにはいつだってわたしの言葉に真剣に耳を傾けて受け止めてくれる、受け入れてくれる人なんて居なかった。
初めて受け取ってもらえた、言葉に込められた気持ちごと、丸ごと全部をありのまま。
そして喜んでもらえたことがこんなにも胸を熱くする。
誰かに受け入れてもらえることが、この心を肯定してもらえたことが、こんなにも嬉しいことだなんて知らなかった。
この時の私は浮かれきっていた。
お母様に対する心の靄付きが何なのか、その感情が前世のわたしが家族からもたらされてきた感情とは違うのだと知れて、納得できて嬉しかったのだ。
だから先程、自分が死にたくなるほどの後悔と羞恥を胸に抱き、黒歴史を作成する種を植え付けたことには一切気が付かなかった。
この不用意な発言が最悪のタイミング、最悪のシチュエーションで回収される立派なフラグを樹立してしまっていたことに気づくのは、思春期真っ只中の今から数年後におとずれる、今はまだ未来の話。




