05.剣戟
その日の夕方、乾いていたジャージのズボンとTシャツを回収して、ズボンの方だけ履いた。ニルさんの毛皮はとても暖かいので、寒いということはなかったけど、ちょっと布団が恋しい。
時間はたっぷりあったので、今後どうするかも含めて改めて話し合った。場所的には、この辺はやっぱり日本あたりらしい。位置座標があまり変わらないのであれば、ざっくりとした地形はわかる。わかるといっても、どっちが海とかそれくらいだけど。もっと真面目に地理の勉強をしていればよかった。
この地の歪みというのは、かなり深刻なのだそうだ。
本来、魔獣はこちらの階層にはあらわれないし、逆に聖獣は反対側の階層にはあらわれない。それは世界の仕組み、なるべくしてなっているものなのだという。ちなみにこちら側が「イルフィリア」、ど真ん中の私が生まれ育った階層が「ビルレスト」、反対側は「ネグロフィリア」というのだとか。カタカナには弱いのでなかなか覚えるのが大変かもしれない。
その、「決して反対側には現れないはずの生き物」が、この階層では出るようになっているらしい。このままこの状況が進めば、階層が「閉じて」しまう可能性があるのだという。階層が閉じると、全ての階層に影響が及び、天変地異を巻き起こす。そして、バランスが保てなくなって、逆側のネグロフィリアのどこかの階層が「潰れる」らしい。
この、魔獣が出てしまっている原因は不明なのだそうだ。まずはその原因を究明せねばならない。そしてそれを断つのが、ニルさんに課せられた命なのだという。その為には情報が必要で、これはこの地の人々に聞くしかない。地道な聞き込み調査というやつだ。
――管理者を見つけられれば、話は早いのだが。
「管理者?」
――階層ごとにな、〈管理者〉というものがいるのだ。我々が随分前に作り出した存在だが。人間は代替わりが激しい。あまりに時間が経ち過ぎたのもあるが、本来こちらからは干渉しないのもあって、今ではどこにいるのか不明だ。
ニルさんは、とても長生きなのかもしれない。力が強い、階層のてっぺんで生まれた生き物。聖獣とか魔獣とか言ってたけど、神獣に近いんじゃないだろうか。
――この地全土を把握している管理者ならば、正確に状況が分かっているはずだ。おそらくはな。
ニルさんは目を細めて空を見上げた。
――本来管理者が乱れを正すものなのだが、ここまで大きな変容では我々が介入せざるを得ない。かつてないほどの激しい乱れだ。既に他の階層にも、僅かではあるが影響が出ている。
早急に手を打たねば取り返しのつかぬことになる。ニルさんはそう言って、こちらに鋭いまなざしを向けた。
そんな話をしていたら、すっかり暗くなっていた。
身体の方は、今日1日でだいぶ回復してきて、動けるようにはなってきた。まだ力はあまり入らないが、少し前の動けなさっぷりからしたら上々の回復である。
夜だから火でも起こして暖を取ったほうがいい気がする。しかし火の起こし方とかよくわからないし(マッチとかライターとか以外だと、木の棒を木の板とかに当てて摩擦熱で火を起こす原始的な方法しか知らないが、力が出ない今の私では無理そうだ)、ビジュアル的に炎のブレスとか吐けそうなニルさんには憮然とした顔で「出来るわけがないだろう」と言われた。とても意外である。
この地には、聖術というものがあるのだそうだ。
魔法みたいなもので、根源的な血の力をベースに、術式を組み上げて行使するのだとか。イルフィリアなら聖術、ネグロフィリアなら魔術となる。ビルレストには存在しない。
この術というものは、どうやらその人の血が持つ特性に若干左右されるらしいが、基本的な術式は誰でも行使できるのだという。つまり、術式さえ理解していれば魔法みたいに火が起こせる。しかし、もともとの特性が「干渉を拒む」ビルレスト出身の私は使えないし、術式の知識がないニルさんも使えない。どん詰まりである。
火はないけど、ニルさんの身体はあったかいし、暗くなったら眠って明るくなったら起きる生活にすれば、そこまで支障はないだろう。すごく文明からは遠ざかってる気はしないでもない。だが割と、そういうのは…緊張感が無いと言われそうだけど新鮮で、意外とニルさんの身体にもたれて寝るのは心地が良かった。
◇ ◇ ◇
「ふぐ」
身体が地面に落ちた衝撃で目が覚めた。
唸り声をあげながら、訳もわからず周囲を見回す。どうやら、もたれていたニルさんが動いたらしい。恨めしさを込めてニルさんを見上げると、ぶわりと毛を逆立てて身構えているのが見えた。
「どうしたの」
――声を出さずに話せ。何かの気配がする。
(こう?)
――それでいい。少し移動するぞ。背中に乗れるか。
(うん…たぶん)
ぎしぎし痛む身体を起こして、少し屈んでいるニルさんの背中に乗ってしがみつく。
ニルさんは、肉食動物が獲物を狩る時のように、音もなく静かに移動しだした。
私の耳にもそれが聞こえるようになってきたのは数分後。
きん、きん、と金属がぶつかり合う音がする。ビリビリとした緊張感に、ニルさんの毛を思わず握りしめた。どんどん音が大きくなっていく。それと一緒に、微かに叫ぶような声と、ざりざりと何かが地面と擦れる音が聞こえてきた。
ごくっと生唾を飲み込む。月明かりで僅かに照らされた、少し開けた場所で、2人の人間が剣を交えていた。空気を裂く鋭い剣戟の音が飛び交う。どちらも何事か声を上げていたが、その意味は分からなかった。
片方から発せられるものはとても怒気を孕んでいて、もう片方から発せられるものは冷たいもの。怒気を孕んだ声をあげる剣士は、少しふらついているように見える。息もかなり荒い。手負いのようだ。
2人の剣を振るう姿は、まるで踊っているよう。どちらかが突き出した剣をもう片方の剣が弾き、踏み込んで斬りかかる。身体を翻してまた剣を繰り出す。息もつかせぬ攻防だった。
だが、数秒後、冷たい声を発していた方の方の剣が、もう片方の人の剣を弾いて、よろめいた瞬間、胸元を深く貫いた。声が出そうになるのを、口元を押さえて必死に止める。苦しげなうめき声をあげる相手の耳元で、勝利した剣士は何事か囁くと、剣を身体からずるりと抜いた。ぐ、と声を出して、刺された剣士が地面にうつ伏せに倒れこむ。
それをちらりと見やって、もう1人の剣士はぞんざいに剣を布切れで拭うと、腰の鞘に収めて去っていった。
どれくらいの時間が経っただろう。
人が殺されるところなど、初めて見た。こういうのは、テレビの向こうの世界だった。戦争があって、たくさん人が死んで、そういうのは全部遠い世界で、そういう死とは無縁の世界で生きていた。この数日で嗅ぎ慣れてしまった、むせかえるような血の匂いが漂う。
衝撃で身動きが取れず、呆然と背中にしがみついていたが、はっとして力の入らない腕でぐいぐいニルさんの首元の毛を引っ張る。助けなくちゃ、と思った。ニルさんは迷っているようだったが、ゆっくり倒れている剣士のほうに近づいていく。
途中で、ニルさんがふと横を向いた。さっきは気づかなかったが、そこには大きな獣の亡骸が横たわっていた。真っ黒な毛並みの、どこか禍々しい気配を持つ獣。ニルさんは少しだけ憐れみを含んだ眼差しを向ける。感情が乱れたのか、ニルさんの感じたのであろう悲哀のようなものが心に流れ込んできて、辛くなった。もしかしたら、これがネグロフィリアの魔獣なのかもしれない。
ニルさんは倒れている剣士の近くまで来て、剣士をじっと見つめた。どくどくと地面に血が広がっていく。
恐怖を押し殺してニルさんの背中から降りて、剣士の傷を覗き込む。胸元の甲冑に開いた穴から、酷く出血していた。よくよく見ると、獣の爪につけられたような3本等間隔に伸びた傷が、腕や脚にあることに気付く。甲冑で覆われた口元に手をやると、微かに息をしているようだった。
まだ、生きている。
「たすけ、られる?」
掠れた声が漏れる。
「私を、助けたときみたいに」
隣で黙って剣士を見下ろしていた獣を見上げる。ニルさんは険しい顔をしていた。
――難しい。強力なネグロフィリアの血が混じった剣で斬られたようだ。私の血では助けられない。
「どうにもならないの…?」
剣士の体から、どんどん生気が失われていく。死が身近にあることがとても怖かった。
――だが、あるいはお前の血を使えば…。
「私の血を使えば助けられるの?」
――一度お前の血を流して中和する。お前の心臓が止まっていた間は血の効力が失われたことを考えると、身体から離れれば…効力が失われると思う。
「私の身体に傷をつけて、触れたまま直に流せばいいの?」
――ああ、そうだ。触れていなければ効力はなくなる…と思う。流しすぎると死ぬぞ。中和した後に私の血を流して治癒する。だが、これは私の「予想」であって確実な話ではない。成功する確証はない。それでもやるか。
「…やる」
冷や汗でじっとりと手がぬるつく。ニルさんは静かな眼差しをこちらに向けて、目を細めた。
――…私は、反対だが。
「お願い、ニルさん」
ニルさんは嘆息して、頷いた。
目の前の人間が死んでしまうのが怖い。助けてあげたいと思う。
そして、それと同じくらい、自分は今、心のどこかで「この場に居る意味」を求めているのにも気づいていた。
このままでは直接血を流し込めないので、横たわる剣士の甲冑を脱がす。見た目は西洋甲冑のようだった。出血量がすさまじいので、早く対処しないとまずい。必死に身体をまさぐると、脇側に留め具があるのを見つけた。固かったが、思い切り力を籠めるとバチンと音がして外れる。時間も無いので力任せに傷口のあたりから上衣を割くと、貫かれた傷が露わになった。
「ひどい…」
ネグロフィリアの血が混じった、というのはこういうことなのだろうか。
どくどくと血を吹き出す傷口の周囲は、黒い「なにか」に浸食されていた。木の根のように広がり、剣士の体を蝕んでいる。生理的な嫌悪感が沸き上がり、嘔吐いてしまう。浅い呼吸を繰り返して、落ち着かせようとする。ぞわりと這い上がるような悪寒に鳥肌が立った。
「…血を直接、ここに流すのね」
あふれる唾液を何度も嚥下して、ニルさんを振り返る。そうだ、と頷きが返ってきた。
剣士の腰に刺さっていた短剣を抜く。ここから先は自分の覚悟との戦いだった。月光を浴びてキラキラ光る刀身を左手で握りしめて、歯を食いしばる。一息に剣を引き抜くと、鋭い痛みが走り、血が溢れ出した。泣きそうになりながら、剣士の傷口に自分の傷跡を押し当てる。
とたん、剣士が跳ね起きて、この世のものと思えぬほどの絶叫を上げる。その身体を、ニルさんが押さえつけた。
思わず手を放して放心状態になっている私に、ニルさんが鋭く声をかける。
――早くしないと死ぬ。さっさとやれ。
「でも、いまの」
――いいからやれ!
その声に、身体がびくりと跳ねる。ニルさんの目は厳しく私を見据えていた。やると言ったのは私だ。責任持って最後までやれと言われている気がして、唾を飲み込む。
獣の脚の下でもがき、悲痛な声を上げる剣士に、訳も分からずぼろぼろ涙を流しながら傷を押し当てた。




