04.整理
目が覚めてみても、状況は全く変わっていない。
清々しいくらい澄んだ空気を吸い込む。私が好きな、嗅ぎ慣れた朝の澄んだ空気。ここでも、その空気は変わらなかった。肺にそれを深くまで流し込むと、胸にずきっと痛みが走る。
やっぱり、悲しいくらい現実味を帯びた痛みだった。
こんなに長く続く夢は流石に無いだろう。
つまるところ、私はよくわからない事故に巻き込まれて、この…別階層とかいうところに迷い込んでしまったということだろう。かなり信じがたいが、きっとこれは現実だ。
気持ちの整理はまだついていない。ショック状態からは抜け出しただけで、胸の中につっかえた棘のようなモノが、ちくちく心をつついているような感覚があった。
獣のことは責めてもしょうがないし、責めるのはちょっと違うと思った。おそらく獣にとっても予想外のことだっただろうから。
力の入らない腕をどうにか動かして、膝を抱えて座り込む。皮膚のひきつれるような感じがした。
横ではぐうぐうと獣が爆睡している。意外と図太いらしい。考えてみると、私を治療して、それからはずっと付き添ってくれていた。面倒見がいい性格なのかもしれない。
獣が話していた内容を再度考える。
獣は縦の概念と横の概念の話をしていた。横の軸が土地、縦の軸が階層として存在しているのならば、この階層でも土地のつくりはあまり変わらないのではないだろうか。同じ地球の形で、1日は24時間、1年は365日、そしてもしかしたらここは、日本にあたる土地なのかもしれない。もし私が真っ直ぐ落ちたのであればだが。正直見たことのない植物だらけだし、あまり自信はない。
それに、…もしかしたら、人間もいるのではないだろうか。同じように進化の過程をたどっているならありうる話だ。だが、果たしてそうだろうか。周囲を見渡しても動物の気配は全くなく、風で草木が揺れる音がするだけだった。
悩んでいてもしょうがない。
まずは動けるようになろう。正直喉が渇いているし、おなかも少しすいている。「事故」が起きてから自分がどれくらい意識を失っていたのかわからないが、記憶がある限りでは2日は確実に固形物を口に入れていないと思う。
考えているともっとおなかがすいてきた。森の中、川が近くにあるし、魚を取って食べるか、木の実や野草を取って食べるか…だろうか。このへんの知識は全くないので、後で獣に何とかお願いしてみよう。
その辺に転がっていた丈夫そうな木の棒を杖代わりにして立ち上がる。昨日よりは痛みは引いているように思う。まだ痛いけど、練習すれば何とか歩くことはできそうだった。
とりあえず身体をすっきりさせたい。大自然の中全裸で動き回るのは流石にちょっと嫌だったので、ジャージの上だけ脱いで先に洗うことにした。先に洗って干しておけば、ズボンとTシャツを洗って干している間羽織っていられるし。
痛む身体をどうにか動かし、どうにかこうにか上着を引っぺがす。もともと前は開けていたので、比較的脱ぎやすかった。血をたくさん吸っていたのだろう、固まった血液の粉末がバラバラ地面に落ちた。…自分でも引いた。
露わになった腕にも、びっしり傷跡が走っている。内側の痛みでまだよく認識できないが、そっちの痛みが引いてきたら、傷跡で皮膚が引きつって痛くなり出すかもしれない。どう見てもかなり深い傷だったろうに、これを治癒させるとは、獣の血はボンドでも混じってるんだろうか。
水場のほうに移動して、比較的下流側でジャージを水につけてこする。水がみるみるうちに濁っていって、大自然ごめんなさいという気持ちになった。あまり力は籠められなかったが、根気強くこすっていくと、若干のざらつきは残るものの、元の柔らかい生地に戻っていった。前を開けていたのが幸いしたのか、こうして見ると思ったほどズタボロではないように見える。所々裂けてはいるが、着れないレベルではないだろう。できるだけ強く絞って、木の枝に袖を通して干した。天気がいいし、通気性がいい素材なので、すぐ乾いてくれるだろう。
まだ爆睡していた獣を揺り起こして、ずっと気になっていたことを聞くことにした。
「ねえ、あなた名前はなんていうの?」
まだ眠そうな獣は、まだ半分くらいしか開いてない目をこちらに向けて答えた。
――グレイプニル。
「グレイプニルさんっていうの」
なんかちょっと呼びにくい。発音が耳慣れない感じだ。
「プーさんでいい?」
物凄い目で睨まれた。さっきまであんな眠そうだったのに。
「だってなんか呼びにくいもん…」
――もう少しましな呼び方があるだろう…。
「うーん。グレイさんっていうよりニルさんって感じ。ニルさんでもいい?」
じっと見下ろすと、嫌そうな顔ではあったが、しぶしぶ了承してくれた。
「私はね、崎坂優。さきさか、すぐる。優でいいよ。」
ちょっとだけ笑って見せたが、返事はなかった。
「ニルさん、昨日の話の続き、少しいい?」
――構わん。
「なんで、私生きてるの?」
半袖になって、傷跡が露わになった腕を見やる。指でなぞると、肘のあたりでぐるりと一周しているものがある。まるで、
…一度、腕が切り離されたようだった。
僅かに込み上げてきた吐き気をぐっと抑え込んで、身体を起こしておすわりをしている獣――グレイプニルと目を合わせる。
――お前は一度、死んでいる。わかってはいると思うが、あの出血量では助からんだろう。
「うん…まあ、そうだよね」
――意外と冷静だな。
「これだけボロボロだったら、生きてるほうがおかしい、とは思った」
ニルさんはちょっと複雑そうな顔になった。とても表情豊かだと思う。
――…傷跡である程度理解しているとは思うが、酷い有様だった。昨夜も言ったが、私の血を身体に流して、バラバラになっていた臓器や骨を繋いだ。元来、そういう力の強い血なのでな。第1階層…いつまでもこの言い方をするのは問題か、『イルフィガンド』というのだが、そこで作られた私の血はかなり強い。そして、「繋ぐ」ことに特化した血液なのだ。
「ア〇ンアルファが輸血された感じ?」
――ア〇ンアルファ?
茶化してみると、胡乱な顔をされた。すみません…。
「じゃあその、強い血が流れてて、私の身体は治癒されてるって感じなの?」
――少し違う。お前の…お前たち『ビルレスト』の生き物の血は特殊だ。一貫して「干渉を拒む」のだ。概念で言うならゼロに近い。何を掛け合わせてもゼロになる。
「じゃあ、今私の中に流れているのは、私の血で書き換えられた、ニルさんの血ってこと?」
――そういうことだ。心臓が止まっている間は私の血液で肉体を繋ぎ留められていたのだが、心臓が動いて血が流れだすと、治癒が止まってしまった。臓器や骨はしっかり繋げてあるから、まあ、生命活動に支障はないだろうが…。
「流石にこの跡は自然治癒では治らない気がする」
苦笑すると、獣はまた申し訳なさそうな顔になる。そんな顔をしなくても、私の血が勝手にやったことなんだから、しょうがないだろうに。
「一応、…ありがとう。私、ニルさんがいなかったから死んだままだった」
家に帰る方法はわからないし、ボロボロだし、痛いし辛いし、泣き言しか出てこないけど、生きてさえいれば、いつかは帰れるかもしれないんだ。
――…。
だから、その時になったら、ちゃんと帰れることが分かったら、今度は心から、ありがとうって言おうと思った。
◇ ◇ ◇
覗かないでよね!とオスだかメスかわからない獣に前置きをして、岩陰で服を着たまま水に入る。あまりの冷たさにひえ~!とさけびながら、ざぶざぶしゃがみ込んで肩まで浸かった。Tシャツはべっとり肌に張り付いて固くなっており、脱げたものではなかったので、苦肉の策である。
身体をもぞもぞ動かして、少しずつ布をほぐしていく。どんどん濁っていく水を見て、また心の中で大自然に謝罪した。ショック死だったのか失血死だったのかわからないが、個人的には前者だと思う。落ちた瞬間すぐに意識を失ったので。そして、この出血量を賄うだけの血液を、あの獣は提供してくれたということだろう。
柔らかくなった服を脱いで、覚悟を決めて身体を見下ろす。
「うわあ…」
思わず掠れた声が漏れる。もうなんていうか、歴戦の勇者のようである。
身体中に走る無数の傷跡は、一つ一つが大きく、長い。触ってみても引きつるような感覚があるだけで、塞がっているのがとても不思議だった。胸部から腹部にかけて、服がスッパリ切れていたので、おそらく「そうなんだろう」とは思っていたが、案の定一番大きな傷がそこに横たわっていた。肩口からわき腹にかけて、大きな傷跡が走っている。お嫁にいけない。
頭のほうは幸い無傷だったようで、ショートにしていた髪を洗っても、特に引きつるような感覚はなかった。というか短くしててよかった、長かったらもっと悲惨だったかもしれない。
下半身も似たような有様でびっしり傷に覆われている。これから先夏場であろうと長袖長ズボンで生活しようと心に決めた。
身体から引きはがしたボロ雑巾のようになってしまったTシャツで、肌をごしごし擦る。真っ白だったTシャツは血の色が抜けきらず、赤茶けた色になってしまった。開き直ってタオル代わりにしてやる。
早々に水浴びは終わらせて、固めに絞ったTシャツで身体を拭き、渇いていたジャージに袖を通す。何とか無事だったジッパーを上にあげると、比較的ましな出で立ちになったような気がした。ついでにまだ洗っていなかったジャージのズボンを洗って、Tシャツと一緒に木の枝に干しておいた。
お腹が空いているのを察してくれたのか、ニルさんが木の実とか果実とか持ってきてくれたので、一緒にほおばってのんびりする。
「ニルさんには何かやることとかあるの?」
――ああ、ある。この地の歪みを正さなければならないと言っただろう。
「ふうん。それって、私も一緒に行っていいの?」
――お前が望むなら。
「ひとりはやだな。多分きっとすぐ野垂れ死んじゃうから」
――ならば、よかろう。
「…ねえ、ここって、人はいるの?」
――いるぞ。
まだ見ぬ人類に心を躍らせる。この地で生活していれば、そのうち出会える日が来るのだろうか。
そう、なんとなく夢想していたのだが、出会いは思っていたよりも早く訪れる。