78.婚約者の弱みを知りたい!
ヘルマプロディートスのチェレステさんの訪問から数日。マキシ帳簿なるものが気になった私は、最近エリツィン伯爵家へ出入りが増えたヴィクトルの生家、シーリン商会のエルモライさんを捕まえてみた。
「お義兄様、ちょっとお伺いしてもよろしいですか」
「はい。いかがなさいましたか」
ヴィクトルと同じアッシュグレーの髪色をした男性に話しかければ、彼は私の求めに応じてくれた。この人がヴィクトルの実兄エルモライさん。ヴィクトルは髪を束ねているだけだけど、エルモライさんは猫っ毛を隠すためにお団子にして髪をきっちり固めている。
「マキシ帳簿って知っていますか? この間ちょっと聞きかじったんですけど」
「ああ、はい。知っていますよ。ここらの商人なら、だいたい使ってるんじゃないですかね」
「今、時間あります? どんな帳簿か教えてほしくて」
普通の帳簿だったらそんなに気にはならないけれど、転生者の人が商人たちに革命を起こしたという帳簿だもの。ちょっとどころか、だいぶ気になる。
「フェリシア様に、ですか? お嬢様が気にするようなものではないと思うんですがね」
とはいえ、エルモライさんの言う通り、普通の伯爵令嬢が気にするようなものではないのはその通り。
でもその問いかけに対し、転生者云々は置いておいて、私は立派な言い訳を言えるのです。
「ヴィクトル様と結婚したら、領地経営は私が継ごうと思っていますから。お金に詳しい方の帳簿って勉強になるのではと思って」
「ははぁ。勉強熱心ですね。うちの見習いたちに聞かせてやりたいものです」
エルモライさんは深く頷くと、懐からメモとペンをさっと取り出した。行動が早い。
「立ち話もなんですから、よろしければ客室にどうぞ」
「あぁ、はい。お気遣いありがとうございます。……僕の悪い癖ですね」
迅速、正確、誠実がモットーのシーリン商会らしくて良いと思います。商人はそうして信頼と信用を得ていくものでしょうから。
あははと笑うエルモライさんを連れて客室へ。ソファーに座ったエルモライさんは改めて、自分のメモに何事かを書き込んだ。
「帳簿を直接見せるわけにもいかないので……例としてこちらをどうぞ」
エルモライさんが見せてくれたメモを見る。
ふむ、ふむ……ふむぅ……?
「あの、ごめんなさい、見方を教えてもらっても……?」
「あぁ、そうですね、分かりにくですよね」
ちんぷんかんぷんな私に、エルモライさんは快活に笑って帳簿の読み方を教えてくれる。
「マキシ帳簿は二つの帳簿に分けて管理するんで、慣れないうちは難しいんですよね。普通の帳簿だと、こっちの形式で見慣れているのではないですかね」
エルモライさんはサラサラとメモにペンを走らせて、もう一つの帳簿見本を書いてくれる。ああ、うん。これは分かる。イチゴを一個買ったら、支出は銅一枚。それらがずらっと何行にもわたり、最後に合計金額を出すだけ。単純明快。
「マキシ帳簿を使った場合、このイチゴを〝果物〟の項目として他の果物と一緒にまとめて計上します。その代わりに、マキシ帳簿にはイチゴ一個で銅一枚の価値があり、それを銅一枚で売り上げた、という書き方をします。マキシ帳簿は明細の役割を担わせるのです」
説明を聞きながら、ふと思い出す。
なんだか、この説明、既視感が……?
エルモライさんの説明を聞きながら、既視感の正体を思い出そうとする。いつ……いつだ……これは……マキシさんが広めた帳簿……転生者……転生?
あ、と思い出す。
複数の帳簿を使うこれは――簿記のやつだ!
ようやく思い出した。これはあれだ。前世、新卒入社して新人研修で各部署を巡っていた時。経理部の人に「うちの部署に入ったら、簿記の資格をとって貰うからね〜」と言われながらさわりだけ教えて貰ったやつだ。なんて言ったっけ。複式簿記?
結局、私は経理部でもなければ、簿記の資格をとったわけでもないので、記憶の彼方においやっていた。でも会社にタクシー代を払い戻してもらうために提出していた精算書には、経理部の仕分けを簡単にするために、勘定項目をきちんと書くようにって研修の時に口を酸っぱくして言われた記憶。
その記憶を思い出しながら見てみると、このマキシ帳簿というものは複式簿記に非常によく似ている……かもしれない。うろ覚えだから、違っていても私には分からないけれど。
「なんとなく、正確性という意味ではすごく良いものに思いますね。……煩雑すぎて、私には難しい気もします」
「慣れですよ、慣れ。まー、フェリシア様が分からなかったら、ヴィクトル様に任せれば良いと思います。あいつもこういうのは得意ですからね」
屈託なく笑うエルモライさんにつられて、私も笑ってしまった。たしかにヴィクトルはこういうのが得意だわ。うちの部署の予算管理が徹底されているのも、商家の基礎知識のあるヴィクトルだからこそ、かもしれないわね。
それにエルモライさんと話をしていて思うのは、エルモライさんとヴィクトルの距離感は離れすぎず近すぎずということ。エルモライさんは貴族の養子になったヴィクトルに対して敬語を使うし、敬称もつけるけれど、家族の気安さは残したまま。潔癖な身分主義者からしたら許せないことだろうけれど、私はその距離感がヴィクトルという人を作ってきたんだって思えるから、好ましく思うの。
「ヴィクトル様は本当にすごいです。一人で何でもできて……完璧すぎて、苦手なことってないのかな、って思います」
「苦手なことですか……」
エルモライさんが腕を組んで考える。
「……ぱっと思いつかないです?」
「ですね……あいつ、昔から隠しごとが上手でしたからねー」
隠しごとが上手?
ヴィクトルの子ども時代に、ちょっと興味が惹かれる。
「ヴィクトル様、何を隠していたんですか?」
「それはもう色々と。そもそもヴィクトル様がここまで外国語が上手だったなんて、家族全員知りませんでしたよ」
それは意外。商家だったし、これまで家の方針で言語を学ばれていたとばかり。前に聞いたときも「実家が商家だから」と言っていたし。それが実際は、家族に隠れて勉強していたってことかしら。
「ある日、ガムラン語を話せるうちの従業員が休んだ時に、ガムラン商人の対応ができず困ったことがあったんですよね。だけどヴィクトル様がさらっと対応して。うちの家族、大騒ぎでしたよ。いつの間に勉強したんだって」
前言撤回。家族に隠れてガムラン語を勉強したんですか!? あの癖のあるガムラン語を!? 言語的に近いクロワゼット語とかではなく、ガムラン語!?
「ヴィクトル様、独学でガムラン語を……?」
「従業員からも教わってはいたみたいですがね。でも十の歳には、うちに出入りする外国の商人たちの言語は覚えてましたね。うちの両親もひっくり返りましたよ」
エルモライさんやご両親も、取引のある国の商人たちとは簡単な挨拶くらいなら話せるらしいけれど、商談も絡むこみいった話は専門の担当者に任せるらしい。そこは商会も外交官と似たような仕組みになっているのね。
「いつだったか、どこぞの国の外交官が視察の一環でうちの商会に来たんです。その時に対応したのがヴィクトル様でね。視察に付き添っていたミシリエ子爵にお会いしたんですよね」
そうしてヴィクトルはミシリエ子爵にその才能を買われ、外交官に抜擢されることとなった、と。
これまでざっくりとしか知らなかったヴィクトルの外交官になった経緯を知れて、ちょっぴり嬉しい。でも、話しが反れてしまっていますね?
「ヴィクトル様は子どもの頃から優秀だったんですね。……非の打ち所、なさすぎでは?」
「自分もそう思います。あいつの苦手なことかー……」
苦笑したエルモライさん。ヴィクトルが隠しごとが上手いっていうのは本当なのかもしれない。私なんて隠しごとが下手で、いつもヴィクトルに呆れられているのに。
身内からも出ないヴィクトルの弱み。
一度気になってしまったら、ますます気になってしまう……!
そんなことを思いながら一人で悶々としていると、不意にエルモライさんが何かを思い出したかのように「あっ」と声をあげた。
「一回だけ、ヴィクトル様の弱みを見たことがあります」
「えっ! 本当ですかっ」
あるんですか、あるんですか! ヴィクトルの弱み!
わくわくしてきた私とは裏腹に、エルモライさんはちょっとばつの悪い顔になって。
「でも、ちょっと……フェリシア様にお話するにはちょっと酷な話かもですね」
「私に? それはどういう?」
「あいつの、元婚約者の話ですから」
ヴィクトルの元婚約者。
そういえば、ヴィクトルも婚約していた時期があったって聞いた気が。
「それがヴィクトル様の弱み、ですか?」
「弱みというか……婚約破棄が決まった時、ちょっと荒れたんですよね。子爵家の養子になったくせに、うちに泊まりこみで酒盛り。貴族社会の愚痴をどっさり携えて……って、おっと、すみません。口が滑りました」
エルモライさんが口をつぐむ。私はふるふると首をふった。
「気にしませんよ。貴族社会なんて面倒な慣習ばかりで愚痴いっぱいですから」
「あはは! さすがフェリシア様!」
声を上げて笑うエルモライさんに、私は首を傾げる。さすが、と言われることかしら。むしろ貴族としてはあり得ないほうだと、自分ですら思うのに。
「私、貴族としては駄目な部類だと思うんですけど……? ヴィクトル様にも迷惑をかけてばっかりですし」
「あいつにはそれくらいで良いと思いますよ。頼られているほうがずっと安心するはずですから」
「そうですかねぇ」
「そうですって」
実のお兄様がそう言うのならそうかもしれない。でもやっぱり、甘えてばかりでもいられないし……ほどほどに、これからもほどほもに、ヴィクトルを頼りたいなとは思います。
それからエルモライさんは、さすがに話しこんでしまったと言って帰っていった。色々な話を聞けてそれなりに満足したけれど、エルモライさんが帰ったあとにふと思い返して。
(ヴィクトル様、婚約破棄した時に荒れたんだ……)
前にふわっとヴィクトルから聞いた婚約の話。円満な婚約破棄だったと聞いていたけど……ヴィクトル自身は心の整理がつかないくらいには、婚約者さんに気持ちを寄せていたのかも。
そう思うと、胸の奥がちょっとだけもやっとしてしまう。
ヴィクトルの元婚約者。
どんな人だったんだろう。
【ヴィクトルの出張日誌2】
ウッタルガンの港に到着した。いよいよ玄蒼国に向けて出港する。ガムラン連合王国の一つであるクンダン王国、ウガール王国の港を経由して、さらにその先にある小大陸オストロルーチの国々の港に停泊する予定だ。
本日の夕食:マクノカーヤム。以前、フェリシアがカーヤムのスパイスにはまっていた頃を思い出す。フェリシアがたまにくれるタンドリースパイスのサンドイッチはなかなか僕好みの味つけだ。あの味を思いながら食べたマクノカーヤム。同じ鶏肉をメインにしたスパイス料理だと聞いていたけれど、全然違った。ヤギの乳を混ぜたまろやかな味わいで、フェリシアはきっとこっちの味付けのほうが好みかもしれない。




