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【書籍化決定】転生令嬢は旅する編纂者  作者: 采火
第三部

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77.ヘルマプロディートス・マキシ

〝Μέχρι να διαβάσεις αυτό το γράμμα, πιθανότατα δεν θα βρίσκομαι πια σε αυτόν τον κόσμο.〟


 これは何の文字。読めない。どんなにがんばっても読めない。かろうじてアルファベットじゃないことだけ分かる。そんな、アルファベットだったラウレンツ言語が可愛いと思える日が来るなんて。


「どうでしょうか……?」


 チェレステさんにお伺いを立てられるけど、私は諦めて首を振った。


「残念ながら。神子の持つ言語は色々とあるのですが……私には読めない種類のようです」

「そうでしたか。オリュンポスの神々の話を知っているエリツィン伯爵令嬢ならあるいは、と思ったのですが」


 笑みを浮かべながらも、残念そうな雰囲気は隠せない。期待させてしまった分、チェレステさんに申し訳ない気持ちになる。


 そんな中、チェレステさんの言葉が引っかかった。

 そういえば、マキシさんの遺した問いかけはオリュンポスの神についてだった。ビーチェさんが名付けたヴィーナスという店名も、オリュンポスの神でいえばアプロディーテに相当する。


 もう一回、読めない手紙の文字を見た。


β(ベータ)δ(デルタ)Θ(シータ)がある……」


 目の錯覚かもしれないけど、独特なこの記号。そしてオリュンポスの神が示すもの。


(マキシさんという人は、ギリシャの人だったのかもしれない)


 オリュンポスの神といえばギリシャ神話。

 そしてこのβやδの記号も、ギリシャ語の文字だったはず。


 そこでふと、思うことができて。


「チェレステさん、一つ質問をよろしいですか」

「はい、なんなりと」

「マキシさんとビーチェさんは、この文字を使ってやり取りをされていましたか」

「そうですね……たしか、ビーチェから送られた手紙だと思われるものが残っております。内容は、分からないのですが」


 チェレステさんの答えで、脳裏に描いたパズルのピースがぴたりとはまる。


 ビーチェさんが名付けた〝ヴィーナス〟はギリシャ神話ではアプロディーテ。〝ヴィーナス〟と呼ぶのはローマ神話だったはず。


 でも、ギリシャもローマも、地理的にはものすごく近い。


「なにか……お分かりで?」

「……いいえ。もう一通の手紙も、読ませていただきますね」


 考えても、私にはギリシャ語が読めないから推測することしかできない。それなら読めないものにこだわるより、読めるものに手を伸ばしたほうが良いものね。


「こちらの手紙はクロワゼット語で書かれています。もしよろしければ、読み上げましょうか」

「お気遣いありがとう。でも、私も外交官ですから」


 クロワゼット語なんて朝飯前です。

 チェレステさんからもう一通の手紙を受け取った。先ほどの手紙とは違って、こちらは封が切られている。


「封が切られているのは、どうして?」

「その手紙は元々、後継者だった二代目オーナーに向けて書かれていたものなのです。二代目が、歴代のオーナーも読むように伝えてきました。私も読ませていただいて……もしヘルマプロディートスとヴィーナスの意味に気づく人が現れたら、その人にも読ませるべきだと、常々思っていたのです」


 だからクロワゼット語で書かれているのね。

 私はそっと手紙を広げる。この手紙もまた、長く継がれてきて写されてきたものなのかもしれない。ゆっくりと、手紙の言葉に目を通した。


 手紙の内容はチェレステさんの言う通り、大部分は自分の後継者に対してその心構えを説くようなものだった。世界は女性がいるから成り立っている。男性だけでは新しい命は育めない。だからこそ、女性のために、女性が自由に羽ばたけるように、その手助けのできるような店を作るように。そう、マキシさんは言葉を遺していた。


 そして、その手紙の最後に。


〝一途に愛を伝えてくれた貴女に、想いを返してあげられなくてごめんなさい。私との子を望んでくれたのに、私は貴女の想いに応えられなかった。自分の性を受け入れられなかった私は、きっと貴女と子を成せない。抱かれないことの悲しさを知る私だからこそ、貴女に同じ思いをさせたくなかった。その代わりにどうか、私が残せる唯一であるこのヘルマプロディートスを、私と貴女の子として育ててください。〟


 そう綴られた手紙が、急に重たく感じられた。マキシさんの想いがずしりと重力を伴って私の手に伝わってくる。


 最後に綴られた、マキシさんの想い。

 これは。


「あの……マキシさんは、男性の方、ですよね」

「そうですよ」

「この、最後の……自分の性を受け入れられない、とは、どう意味でしょうか」


 私がクロワゼット語の翻訳を間違えたのだろうかと思うくらいに、違和感のある文面。何度読んでも、〝受け入れられない〟のは〝性別〟だと読める。〝貴女〟も女性を示すクロワゼットの二人称。私の翻訳は間違ってない、よね?


 困惑しながらチェレステさんに尋ねれば、彼女はこくりと頷いて。


「文字通りの言葉です。エリツィン伯爵令嬢は、ヘルマプロディートスの意味を知っておりますか?」


 ヘルマプロディートスの意味?

 それが、この手紙と何か関係するの?


「いえ……ヴィーナスと同じで、オリュンポスの神かと思うのですが……確信は持てなくて」


 マキシさんが本当にギリシャの人ならば、意味のない店名のつけ方をしないと思う。それに、ヴィーナス共々、店名の意味に気がついたら、と言い遺しているのなら、なおさら。


「そうでしたか。ヘルマプロディートスはマキシ曰く〝二つの性を持つ存在〟だそうです」

「二つの性?」


 まさかの答えに息を呑む。

 チェレステさんが言うには。


「ヘルマプロディートスは、神々の伝令使ヘルメスと愛と美の女神アプロディーテの息子です。しかしながら泉の精が彼に惚れ込み、一つになることを願った結果、ヘルマプロディートスは二つの性を一つの体に宿すことになったとか。マキシはそのヘルマプロディートスと自分を重ね合わせ、屋号をお決めになったそうです」


 二つの性を一つの体に宿した神。

 それと自分を重ね合わせたマキシさん。

 私はもう一度手紙を読む。


〝抱かれないことの悲しさを知る私だからこそ、貴女に同じ思いをさせたくなかった。〟


 この一文から滲み出る、マキシさんの苦悩。


 マキシさんは男性だけれど……もしかして前世は、女性だった?


 だから想いを寄せてくれた女性を愛せなかったことに対して罪悪感を覚えた?


 だからこそ女性の身体に寄り添うような下着を作れた?


 なんだか落ち着かない気持ちになる。

 ざわざわと、胸がざわつく。


「……このことを、ビーチェさんは」

「ご存じだったかと。マキシが店を構えるのを援助されたのが、ビーチェでしたから」


 だから姉妹店。

 複雑な気持ちは残っているけれど、でも少しだけ安心した。


「マキシさんが、ビーチェさんと出会えてよかったと思います」

「それは……理解者がいたから、ということでしょうか」

「そうですね」


 言葉に表すと簡単だけれど〝マキシさんの理解者〟はすごく重たい意味を持つ。


 私は、前世も今世も女だけれど……もし、この世界で男として生まれ変わっていたら。自分を男として受け入れられたか、正直、自信がない。


 男として生きて、男として暮らす。それくらいならできるんじゃないかな、とも思う。食べて、仕事をして、眠る。それは男女でそこまで大きな差異はないはずだから。まぁ、性差による社会的な制限は違うかもしれないけれど。


 でも、男として妻を、子どもを、家庭を持つ。

 これは、私には想像つかない。私は今も昔も、女性として生きてきたから。


(ううん、違うわ。女でも、私には家庭を持つことの実感が、想像できない……)


 前世、私は誰かに恋をしたこともなければ、結婚して家庭を持つこともなかった。独身のまま、ふらっと死んでしまった私。家族仲はとても良かったけれど、あの家の中での私は、社会人になっても子どものままだった。


 そう思うと、今この時期にマキシさんの話を聞けたことはとてもありがたい。成り行きでヴィクトルと婚約した私に、家庭を持つことの重さと現実感を、マキシさんは与えてくれたから。


 そのあとも、チェレステさんからマキシさんについて色々と教えてもらった。マキシさんが下着を作ることになったのは、ビーチェさんに事業を譲られたからだとか。ビーチェさんは娼婦たちの「どうせ脱ぐし、コルセットなんて手間だから」という残念な下着事情をどうにか改善したかったみたい。でも自分は旦那さんとのお化粧品の事業で手一杯だったから、ちょうどそこに居合わせたマキシさんに自分のやりたかったことを丸投げしたのだとか。


 白粉の時にも思ったけど、ビーチェさんはなんというか、やることが時々大胆というか。でも、そのビーチェさんの無茶振りによってマキシさんは救われていた部分もあったと思う。


「マキシは下着に限らず、女性服の仕立てがすごく好きだったんですよ。たくさんのドレスデザイン案を残すくらいに」


 チェレステさんもまた、マキシの遺したデザイン案を元に新作ドレスを作っているのだとか。最近はスカート部分に骨組みを仕込むことによってボリュームを保ったまま、ドレスの軽量化に成功したらしい。どこかできいた話の出どころは、やっぱり転生者からだったようです。中途半端に間違っているクリノリンも、転生者本人ではなくて残った資料から再考案されたからでしたか。


 それにマキシさんが遺したものはそれだけではなくて。


「ヘルマプロディートスというと下着がどうしても有名なんですが……実は、マキシ本人の功績で一番有名なのは、マキシ帳簿なんです」


 雑談のなかに突然飛び出てきたマキシ帳簿。

 なんですって?


「それまで雑な管理だった経理書類が、マキシによって系統化されて、形式が統一化されたんですよ。商人たちの間では有名な話です。物とお金の動きが一致する帳簿形式なので、不正があればすぐに分かるんですよ」


 なのでクロワゼットに店を構える古い商家の人々は、マキシが商人の守護者だと思っているのだとか。さっきちらりと名前が出た、ギリシャ神話のヘルメスを思い出す。たしか、商売の神様だったような気が?


 そこまで考えて、私はようやくマキシさんという人の像が見えてきた。


 ヘルマプロディートスは二つの性を持つ神様で、その両親は商売の神ヘルメスと愛と美の神アプロディーテ。


 名が体を表すように、マキシさんの人生は〝ヘルマプロディートス〟の名前を冠するのに相応しいものだったのでしょう。




【ヘルマプロディートス・マキシ】

クロワゼット共和国に本店を持つ化粧品専門店「ヴィーナス」の姉妹店「ヘルマプロディートス」創始者。ビーチェの提案で下着専門店を始める。おそらく前世はギリシャかローマの人で女性だった。男性として転生した苦悩がありながらも、多くの女性のために衣類の開発を行った。ヘルマプロディートスは女性の起用が中心で、その後の女性の社会進出ブームの先駆けにもなった。さらに複式簿記にあたるマキシ帳簿は多くの商家から一目置かれ、クロワゼット共和国の商人で彼を知らない人はいないらしい。

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