42.『マオさん』
ソファの上でコーヒーをすすっている最中、事務所のドアがコンコンコンと叩かれた。
マオさんが帰ってきたっ!
わたしはカップを置いて、腰を上げた。チェーンロックを外し、内鍵を解錠した。
立っていたのはミン刑事だった。微笑んでいる。何かいい知らせでもあるのだろうか?
「メイヤ、こんばんは」
「こんばんは。っていうか、どうしたんですか? 改まって」
わたしは「あはは」と笑った。
「顔、貸してもらえるか?」
「いいですけど、まさか、”狼”が捕まったとか、そういう話ですか?」
「そんなところだ」
「スゴい、スゴい! やったじゃありませんか!」
「まあ、そうなんだが、スゲーのは俺じゃねーよ」
「えっ」
「とにかく、付き合ってくれ」
ミン刑事に続いて、夜道をゆく。とある『胡同』で折れた。百メートルほど先に赤色灯が見える。
パトカーの脇をすり抜け、左折、今度は狭い路地に入った。暗がりの中、少し行ったところに、ヒトが重なり合うように倒れているのが見えた。
嫌な予感がした。
駆け、ミン刑事を追い抜かす。倒れている二人に近付く。仰向けになっているのは紛れもなく”狼”で、その上に覆い被さっているのは、間違いなくマオさんだった。血だまりの中、二人とも、安らかに目を閉じていた。
目を見開いた。
口が、唇が震えてしょうがない。
膝を折る。
マオさんの頬に右手を添える。
すると、まだ温かくて……。
「マオ、さん……?」
喉の奥から、か細い声が勝手に漏れた。
「ねぇ、マオさん……?」
彼の背に両手を当て、体を揺すった。
何度も何度も揺すった。
やがては「マオさん! マオさん!」と叫びながら、強く揺すった。
「マオ、さん……っ」
彼の背にすがりついた。
広い背中だ。
大きな背中だ。
大好きな背中だ。
わたしがいつも追い掛けていた背中だ。
発作的な行動だった。すぐそばに転がっていたバタフライナイフを拾い上げ、両手で柄を握った。
震える手で喉元に突き付けようとしたところで、「ダメだ」という声、ミン刑事。彼はバタフライナイフの刃を握り締め、その右手からはだらだらと出血する。
「いやあっ! いやああああっ! 死なせて、死なせてぇぇっ!」
そう泣き叫ぶと、ミン刑事に強い力でナイフを取り上げられた。わたしは両手で顔を覆う。涙も嗚咽も止まらない。
「コイツは成し遂げたんだ。ホント、スゲー野郎だよ」
「でも、死んじゃったら、死んじゃったら……。わたし、何度も言ったじゃありませんか。何度も何度も言ったじゃありませんか。背中の傷も、頬の傷も、どうでもいい、って……」
「それでも、おまえを傷付けた男を、どうしてもゆるすことはできなかった。そこにあったのは意地と執念だろうさ」
「でも、だけど……」
「マオが最期に残した言葉は阿呆にでもわかる。おまえに対する、ありがとう、だ」
ただしゃがみ込んでいるだけなのに、そうすることもままならなくなって、わたしはへたり込んだ。改めてマオさんに目を落とす。本当に安らかな顔だ。不安もない。不満もない。後悔もない。そんな穏やかな死に顔だ。
ミン刑事がマオさんを仰向けにした。彼の遺体を”狼”の隣に転がした。白いワイシャツの腹部が赤く染まっている。喉元からは血が溢れ出ている。
”狼”がストレッチャーにのせられ、運ばれてゆく。
マオさんが一人で倒れている光景がとても寂しげに見えて、わたしは彼の上にゆっくりと被さった。頬にキスを浴びせてから、唇に唇で触れる。ちょっとかさついている。いつものマオさんの唇だ。
「どうしてですか、マオさん。ねぇ、どうしてこうなっちゃったんですか? こんなに愛しているのに……」
もう一度、キス。
何度も何度も、キス。
彼に「しつこいよ」と叱って欲しかった。
「マオの代わりに言ってやる」
「……はい」
「前見て生きろ。信じる道を突き進め」
「……無理です、そんなの」
「おまえにはまだやることがあるはずだ。出来ることだってあるはずだ」
「……でも」
「世界はおまえが存在することを、望んでいるんだよ。それくらい、大切な命なんだ。それを自分から放り出すな」
首を捻ってミン刑事を見上げると、彼は驚くほど優しい顔をしていた。
「今夜は特別だ。好きなだけ、そうしてろ。マオのヤツの匂いを、たっぷり体に染み込ませておけ」
ミン刑事は「ヴァージンロードは諦めるよ」と言って、去っていった。回転していた赤色灯が消える。彼が気をきかせてくれたのだろう。
マオさんとの思い出。
あり過ぎて、すぐには整理できそうもない。
ボルサリーノを譲ってくれたっけ。
短いスカートばかりはくことを咎められたっけ。
何度もピンチを救ってもらったっけ。
大きくなったねって褒めてくれたっけ。
たくさん抱いてもらった夜があったっけ。
キスをしたら唇が燃えるような感じがしたっけ。
他にも、色々、色々……。
「わたしはずっと、マオさんのモノですからね……?」
彼の耳元で、あえてそうささやいた。




