ボクシングから得られるもの
ここレオン王国でメジャーな護身術と言えば、フェンシング・レスリング・ボクシングだ。
うちボクシングの打撃は、体重が平均的なアスリートより軽いウェインには向いていない。あまり身体を鍛えていない魔法使い同士ならともかく。
レスリングは、今は代わりに柔術を習っている。……レスリングには基本的に絞め技・関節技がなかったため。
それでもボクシングをウェインが習っているのは、やはり「当て勘」と、近くに安くジムがあるからだ。
一方フェンシングは少し悩んでいることがあった。アレは攻撃権がどうのと、あまり実戦的ではないところがある(レオン王国、そしてラクスの街での武術は、儀礼的なことに主眼が置かれることもある)。
フェンシングの突きは刀身が軽いため速く、ウェインはそれに対応できる目と腕前がある。
だがサーベルですら斬りつける攻撃のバリエーションに乏しく、受け流すのに失敗すると、刀身が耐えきれず折れてしまうことすらある。そしてそこまで専門的に剣を扱っていないウェインは、巧く受け流すことに失敗する可能性もあった。
さらには(ルールによって違うけれども)『突き』を重視するのだが、それはそもそも人間の頭や心臓を綺麗に突き通さない限り、敵は手傷を負ってもそのままこちらへ向かってくることも想像できた。
『マン ストッピングパワー』。そう、向かってくる敵を『止める』能力としては向いてないのだ。勿論、普通の魔法使いはそんなものは求めないのだけれども。
なのでウェインは、一般的なショートソードに転向している最中でもある。
別に何がしたいのか……と言うわけでもなかったが。割と凝り性なので『色々やってみたい』という思いは強かった。肉体的な訓練は流石にキツいけれども。
道路を歩いて、進む。ラクスの街は賑わっている。良い街だ。特にウェインに取って魔法を研究しているだけで生きていける……夢のような場所。
子供の頃に生まれ育った村では、こうはいかない。
さらに歩いて、その建物が見えてきた。ウェインはその、行きつけのボクシングジムの扉を開ける。
「こんにちはー」
「おお、ウェインか。いらっしゃい」
ウェインはボクシングジムで挨拶をする。中はそこそこ広い。練習生も何人かいる。
トレーナーさんに声をかけた。
「すいません。今日は、ちょっとお願いがありますけど。いいですか?」
「なんだい?」
トレーナーに『お願い』を伝えると、『出来る範囲内で』と了承された。
ウェインは着替えて支度をし、柔軟体操から身体を温めると、サンドバッグ相手にサウスポースタイルで右ジャブを放つ練習を始めた。
左ストレートは相手の顔に当てるのとボディに当てる二種類を練習する。
ウェインの利き腕は右手だ。だが一般的なボクサースタイルではない。
これはフェンシングの構えからの流れで、右手右足を相手の前に出すサウスポースタイル。
何故かと言うと、多くの剣士がそうするスタイルだから。
左の腰に剣を帯びると、必然的に、右手右足が軽く向こうに出る。剣は右の腰に差し手もいいだろうけど、剣を素早く抜く居合いの技術との兼ね合いもある。後は『皆がやってるからー』だ。これのメリットはかなり多い。色々と装備や技術がそのまま使えるのだから。
ともあれサウスポースタイルでの右ジャブは、ある程度洗練されている。ワンツーはまあまあ使い物になるだろう。左フックはもう少し時間がかかるだろうか。秘密兵器の左アッパーはまだちょっと実戦レベルではない。……そもそも『多少できる』程度で、何がどうなると言うこともないのだが。
ともあれ空手も少しできる。前蹴りとローキックならある程度使える。
もともと普通学校からやっていたレスリングは、タックルとタックル封じに時間を費やした。組み技はレスリングではなく柔術を習っている最中。おかげで柔術の幾つかの投げ技と絞め技、関節技がまあまあのレベル。
しばらくサンドバッグ相手に身体を温めていると、ジムのトレーナーから声がかかった。
「ウェイン、準備できたぞ」
「おっ。ありがとうございます」
「まあ皆実戦に近いことをして、課題を洗い出したい連中だからな」
今回のウェインの目的は模擬戦。但しスパーリングではない。何故ならボクシングルールで、ボクシングで勝つことに、ウェインには何の意味も利益もないからだ。
ウェインの目的は『素手での距離感』(当て勘)だった。もともとフェンシングで、動く相手を攻撃してきたウェインだが、ボクシングのフットワークは本当に動き回る。他の格闘技の視点からすると、ピョンピョンと跳ねる。それがよろしくない部分もあるが、だから顔に当てにくい。なので、いい『当て勘』の訓練になる。
……通常。攻撃魔法の威力は距離で減衰する。だから本来は密着状態で放つのが最も威力が高い。反面、剣などの間合いに入らないように普段は射程を長く取る。つまり威力は落ちる。トレードオフ。それは個々人の永遠の課題かもしれない。
これを、今回は敢えて密着する事態を考えた。
捨て身の時はそんなことをすることもあるだろう、と。
そしてそれを訓練するのはボクシングのクリンチだ。
通常は1ラウンド3分を繰り返すが、そんなものを何度もできるほどウェインに体力はない。なので今回のルールは1ラウンド3分をし、そこでその人とのスパーは終わりとする。1ラウンドのスパーが終わったら、途中に休憩を5分ずつ入れる。相手は入れ替わりで延べ10人が確保できた模様。合計30分間の模擬戦。
途中で魔法を使い、体力の回復をすることも伝えておいた。
基本的なルールはボクシングと変わりはないが、クリンチが2回入ったらウェインの勝ちだということは皆に伝えている。それをかわしてほしいと。
それと極力ウェインに向かってきてほしいとお願いしてある。相手は3分間頑張るだけでいいのだから、攻撃的に攻めるぶんには問題ないだろう。
トレーナーさんは言う。
「よーし、じゃあ準備はいいな。延べ10人、合計30分間だぞ。クリンチになったらウェインの勝ちだが試合は続行する。後は普通のボクシングルールだ」
トレーナーが宣言する。リングの上に立ち、ヘッドギアとマウスピースをするウェイン。リングサイドでは数人の男がウェインを囲むように拍手をした。
まず最初に、一人の男がリングサイドからロープを超えてくる。身長・体重はウェインと同じくらいか、やや下だ。プロ志望ではなかったはずなので腕前はウェインと似たり寄ったりだろう。緒戦だからトレーナーが気遣ってくれたのかもしれない。
ゴングが鳴る。これから3分間の真剣勝負だ。
相手は素早く間合いを詰めてくる。当然だ。1R3分間だけでいいのだから。ハイペースで試合を組み立ててくる。左手・左足を前にしていくノーマルスタイル。
ウェインはサウスポースタイルから、右ジャブを放って敵の足をとめた。だが足を止めさせるだけで、そのジャブは簡単にガードされる。
ジャブとフットワークだけでは、相手の懐に飛び込みクリンチを成功させるのは難しかった。腕前としては『ほぼ同格』なのに。ウェインはまだ未完成の左ストレートを相手のボディめがけて放つ。しかし今度はフットワークで散らされガードで躱される。
次は向こうの番だった。相手の左ジャブが連打される。ウェインは右ジャブで応戦していたが、押し込まれ、両腕でガードせざるをえなくなった。そこに顔面に向けて右フックが襲いかかる。
速い。速いが……対応可能な速さだ。ウェインは右腕でガードすると、横に振って回り込み、相手の腰めがけて胴タックルのようなクリンチをした。
ウェインは幼少期からレスリングでタックルを学んでいる。相手を捕まえる技にかけては、素人以上の腕前があった。
「ポイント、ワン!」
リングサイドのトレーナーさんから声がかかる。クリンチ成功だ。大丈夫、そこまで呼吸も上がってない。まだ戦える。
ウェインは一度離れると、再びサウスポースタイルの構えを取った。
結局この試合、ウェインはまた一度クリンチを成功させ、かつ大きなダメージは受けなかった。
5分の休憩の後、二人目との相手をする。流れは先程と似たような感じになった。だいたいそもそも、ボクサーはクリンチ対策などしていない。カウンターにさえ気をつければ、ウェインの脚力と瞬発力なら一瞬で相手に近づいてクリンチすることができた。
てこずったのは、やはり中堅どころやプロ志望のボクサー相手だ。そもそもジャブの刺し合いでは簡単に撃ち負ける。左ストレートを安易に出すとカウンターで右が飛んでくる。ボディを打たれると、呼吸が止まりそうになる。
ウェインは腹筋も鍛えているし相手も本気は出していないのだろうが、やはりダメージになる。これはもう技術と経験、そして筋力の差だ。
単純にクリンチに行こうとしても、フットワークからのジャブで近づけない。
あらためて、打撃技のレベルの違いを思い知らされた。ボクシングルールで試合をしている限り、ウェインが彼らを追い越すにはかなりの努力が必要だと実感した。
プロ志望の相手は二人だけで、それも軽く手を抜いてくれた。ウェインはそこまで惨敗せずに、合計30分間。そして合計10人と組手をやり終えた。成功したクリンチは合計16回。まあ上出来の部類だろう。
しかし最後の相手と戦い終わってゴングが鳴った時、ウェインは崩れかけていた。流石に苦しい。呼吸が上がっている。リングは誰かが使うかも、なので外に出なければ……と肩で必死で呼吸をしていると。
トレーナーさんが声をかけてきた。
「ウェイン、すまない。もう一人だけ相手をしてやってくれないか?」
「はい?」
「体験入会者なんだよ。ウェインの顔を見たら是非に、って話になってな。お前にはヒーリングを少しかけるからさ、頼むよ」
「ちょっ、少し休んで、から……」
壁際まで辿り着き、腰を落とす。
トレーナーさんには無理を言ってリングと、そして対戦相手を使わせてもらっているのだ。この呼吸の苦しさがなければ、拒否する理由もなかったし。
ウェインはその『体験入会者』の方を見た。
「はーい」
軽く手を挙げるその人物は、女だった。年齢はウェインより少し高いか。20歳ぐらいだろうか。愛嬌がよく、笑顔がよく似合う。
身長は女性にしてはやや高く、ウェインと同じくらいだ。体格は大きくはないが、痩せっぽちではない。赤茶けた髪の毛をポニーテールにしている。
「ディア・スタイナーよ。よろしく」
と、そのディアという女は人懐っこそうに微笑んだ。
ここらへんから、ウェインの人生が少し変わり始める。