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【連作短編058】 足洗い 全22話 ―元会長と、AIと、三毛猫―  作者: マチャオ (Machao)


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第十四話 火花の話:「動かなかった方だ」と、男は言った。

第14話です。舞台は西へ移って、広島。

十一年前に礼二が送り出した、造船所の溶接工・永田と再会します。


第1〜13話をまだお読みでない方は、そちらからどうぞ。

 広島に着いたのは朝だった。


 駅を出ると、川が見えた。複数の川が街を分けていた。礼二はそれを少し見た。


「デルタ地帯ですね」とシンが言った。


「そうだ」


「川が多い街は、橋も多い」


「そうだな」


「橋が多いと、どこへでも行けますね」


 礼二は少し間を置いた。「どこへでも行けるとは限らない」


 シンは何も言わなかった。ハルがバッグから顔を出して、川の匂いを嗅いだ。それから引っ込んだ。


---


 知り合いの名前は永田といった。


 十一年前、礼二が組から送り出した。当時三十三歳。不器用で、口下手で、しかし手先が異様に正確だった。細かい作業を長時間続けられる男だった。礼二が造船会社の下請けに話をつけた。今は溶接工として働いている。


 待ち合わせは宇品港の近くだった。


 永田は作業着のまま来た。四十四歳。顔に細かい火傷の跡があった。溶接の飛沫だ。礼二を見て、深く頭を下げた。


「来てくださって」


「来ると言った」


「礼二さんは必ず来ると思っていました」永田は顔を上げた。「でも、信じながら半分は信じていなかった」


「澤田と同じことを言う」


「澤田さんを知っているんですか?」


「長野の宿だ。会ったことはないか?」


「ないです」永田は少し驚いた顔をした。「でも、礼二さんが旅をしていると聞きました。木津さんから」


「函館の木津か?」


「そうです」


 礼二は少し間を置いた。旅先の人間が繋がっていく。その速さが、礼二の想定より少し早かった。


---


 飯を食った。


 牡蠣の土手鍋と、穴子の飯と、地酒。


「うまいな」と礼二は言った。


「広島の牡蠣は、今が最後の時期です」と永田は言った。「もう少し遅かったら食べられなかった」


「そうか」


「来てくれてよかった」


 シンは鍋を見ていた。


「何を見ている?」と礼二が言った。


「牡蠣の大きさを観察していました。栄養状態が良い個体は、殻と身のバランスが」


「食べてみろ」


「食べられません」


「わかってて言っている」


「七割の確率で冗談ですね」


「今回は八割だ」


 シンは少し間を置いた。「確率が上がっていますね」


「気のせいだ」


 永田が二人を見た。少し笑った。声は出なかった。富永に似た笑い方だった。


---


 酒が入った頃、永田の顔が変わった。


 吉岡や木津と同じ変わり方だった。言いたいことがある顔だ。今回は礼二から訊かなかった。待った。


 永田は少し間を置いてから、口を開いた。


「相談があります」


「言え」


「今、担当している船があります。来月、納品予定で。でも」永田は手元を見た。「溶接の検査記録に、おかしいところがあって」


「おかしい、というのは?」


「数値が、実際とずれている。俺が溶接した箇所の強度が、記録では基準値ギリギリになっている。でも実際はもっと低い。俺がやったから、わかる」


 礼二は永田を見た。


「誰が記録を書いた?」


「検査担当の上司です」


「上司は知っているか、その差異を?」


「知っていると思います」永田は声を落とした。「でも、納品が遅れると、会社が困る。そういう雰囲気があって」


「お前はどうしたい?」


「わからないんです」永田は手を見た。火傷の跡が並んでいた。「この船、旅客船です。人が乗る」


---


 翌朝、礼二は永田と造船所の近くまで歩いた。


 シンとハルは少し後ろを歩いた。礼二が「ついてこい」とも「来るな」とも言わなかったので、シンは距離を保った。


 造船所のドックから、船体が見えた。大きかった。足場が組まれていた。作業員が動いていた。


「あの船か?」と礼二は訊いた。


「そうです」


 礼二は船を見た。完成に近い船体だ。塗装がされていた。白かった。


「記録の写しは持っているか?」


「持っています。コピーを取っておきました」


「なぜ取っておいた?」


 永田は少し間を置いた。「何かあったとき、証拠がいると思って」


「最初から、誰かに話すつもりだったか?」


「礼二さんが来ると聞いて」永田は船を見た。「話そうと決めました」


---


 記録のコピーをシンに見せた。


「数値の記載と、実際の強度基準を照合します」とシンは言った。しばらく静かだった。「記載されている数値は、基準値の下限をわずかに上回っています。ただし」


「ただし?」


「溶接強度は、環境条件や材料のロットによって変動します。記録だけでは、意図的な改ざんか、誤差の範囲かを断定できません」


「永田が実際と違うと言っている」


「永田さんの感覚は重要です」とシンは言った。「ただ、それを証明するには、現物の強度試験が必要です」


「できるか?」


「納品前の船体に、外部の検査を入れることは、発注元の了解があれば可能です」


 礼二は永田を見た。「発注元はどこだ?」


「フェリー会社です。本社は大阪で」


「そこに話を持ち込むか、あるいは国土交通省の船舶検査に直接持ち込むか?」と礼二は言った。「どちらが現実的だ?」


「国交省の方が、会社を通さずに動けます」とシンは言った。「ただし、永田さんが内部告発者になる」


 永田は黙っていた。


---


「怖いか?」と礼二は訊いた。


「怖いです」と永田はすぐに言った。「仕事を失うかもしれない。会社にいられなくなるかもしれない」


「そうだな」


「礼二さんなら、どうしますか?」


 礼二は少し考えた。


「俺は、昔、止めなかった」


「何をですか?」


「止めるべきことを」礼二は船を見た。「止めなかった結果、人が死んだ。俺はそれで七年いた。七年で済んだとは思っていない」


 永田は礼二を見た。


「だから、止めろと言いますか?」


「お前が決めることだ」礼二は永田を見た。「ただ、俺が言えるのは、あとで後悔する方向は、大抵どちらか決まっている」


「どちらですか?」


「動かなかった方だ」


 永田はしばらく船を見ていた。


「わかりました」と永田は言った。「国交省に話します」


---


 発つ前に、永田が言った。


「礼二さん、昔のこと、後悔していますか?」


「している」と礼二は言った。今回は間を置かなかった。


「それでも旅をしていますか?」


「それでも、だから、かもしれない」


 永田は少し黙った。「俺も、今日のことを後悔するかもしれません」


「するかもしれない」と礼二は言った。「それでも、動いた方がいい後悔と、動かなかった方がいい後悔がある」


 永田はうなずいた。


「また来ます」とシンが永田に言った。


「また来い」と礼二が言った。


 川沿いを歩いた。橋をいくつか渡った。礼二は橋の上で少し立ち止まった。川が光っていた。


「さっき、橋が多くてもどこへでも行けるとは限らないと言いましたね」とシンが言った。


「言った」


「どういう意味でしたか?」


 礼二は川を見た。


「行き先が決まっていないと、橋があっても渡れない」


「今は、行き先が決まっていますか?」


 礼二は少し間を置いた。「少しずつ、決まってきている」


 シンは何も言わなかった。ハルがバッグから顔を出して、川を見た。今度は少し長く見ていた。

お読みいただき、ありがとうございます。


礼二は今回、自分の過去を、自分の口から語りました。

語る相手がいる、ということも、旅の中で変わったことの一つかもしれません。


次回は、ふたたび山の宿へ。ブックマークをしていただけると励みになります。

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