最終話 解ける
六月の朝の光は、初夏の盛りに向かって、日ごとに濃くなっていた。窓の外の街路樹の若葉は、もう、新しい緑というより、夏の入り口の濃い緑に、近づきつつあった。
結審から四日目の午後、私は、リビングのソファに座って、一冊の古い本を、膝の上で開いていた。
読んでいるというより、字面を目で追っているだけの状態だった。本の内容は、頭の中に入ってこない。それでも、本を膝の上に置いていることで、何かをしている、という形を自分に与えていた。
スマートフォンが鳴った。
画面を見ると、坂口、という名前が表示されていた。坂口さんからの電話は、事件当時に数度あったきり、それ以来、一度もなかった。結審の四日後という時期に、この名前が表示されたことの意味を、私は、画面を見ながら、静かに受け止めていた。
電話に出た。
「もしもし」
「……吉田さん、でいらっしゃいますか」
久しぶりに聞く声だったが、すぐに分かった。
「はい」
「中央署の、坂口と申します」
「……坂口さん」
「ご無沙汰しております」
「こちらこそ」
「お電話で恐縮ですが、お伝えしたいことが、ございまして」
坂口さんの声は、この二年、法廷の傍聴席の後ろで、私の視界の遠くに置かれてきた人物のものとは思えないほど、近い距離に感じられた。
「結審の日のあと、篠田が、入院先の病院で、ある決断をいたしました」
私は、スマートフォンに、空いていた方の手を添えた。
「……決断」
「私のほうに、連絡がございまして、私が病院まで参りました」
坂口さんは、ここで少し間を置いた。
「篠田が、すべてを話しました」
私は、息を一度、止めた。
「……すべて」
「別れ話を切り出されてから、たびたび彼女をつけていたこと。事件のあった夜、帰宅時間を狙い、彼女のアパート近くで待っていたこと。その付近で彼女と対峙し、口論になったこと。感情を抑えきれなくなった篠田が、その場にあったものを手にして——」
坂口さんの声は、淡々としていた。職業として、何度も似たような場面で話してきたであろう、調子だった。
「……」
私は、声を出せなかった。
「無罪判決は、確定しております。一事不再理の原則により、篠田が、同じ事件で改めて起訴されることは、ございません。篠田自身も、それを承知の上で、私に話しました」
「……」
「篠田は、自分の口から、吉田さんに謝罪をしたいと、申しております。私のほうから、お伝えしてほしい、と」
スマートフォンを握る手の、指の力が勝手に強くなっていた。気づくと、もう片方の手は、ソファの肘掛けの縁を強く握っていた。
「お会いになるかどうかは、吉田さんに、お決めいただければと存じます。篠田は、入院先の病院から退院でき次第、ご連絡を、と申しております」
「……」
「お返事は、すぐでなくても、結構です。お考えになる時間が必要かと存じます」
「……坂口さん」
「はい」
「ありがとうございます」
言葉は、それしか出てこなかった。
「いえ」
坂口さんも、それだけを返した。
通話が、切れた。
スマートフォンを、置いた。
置いた瞬間、目の縁から、何かが、こぼれた。
涙だった。
止まらなかった。
涙は、頬を伝って、膝の上に落ちた。落ちた一滴が、本のページの上で、薄く滲んだ。
私は、本を閉じた。閉じる手が、震えていた。震える手で、本をテーブルの上に置いた。
ソファに、両手を降ろした。降ろした手が、まだ震えていた。
涙は、止まらなかった。
二年八か月のあいだ、私は、咲希のために発した呪いの言葉と、咲希のいない家の中の静けさと、近藤先生の事務所の応接室と、法廷の被告席と、傍聴席の坂口さんの遠い視線と、千恵さんの優しさと、自分が用意した茶を仏壇に供える日々の繰り返しを、抱えてきた。抱えてきたものを、抱えてきた、という事実だけを、これまでは自分に許してきた。
咲希が殺されたという事実を、咲希を殺した人物がいるという事実を、その事実が法の中で確定しなかった、という事実を——私は、頭では、ずっと知っていた。知っていながら、その事実の重さを、身体のどこかで抑え続けてきた。
今、坂口さんの口から、すべてが告げられた瞬間に、抑え続けてきた重さが、一気に、外に出てきた。
咲希。
心の中で、娘の名前を呼んだ。
──咲希、お母さん、聞いた。あの男が、やった。あの男が、咲希を殺した。
涙は、頬を伝い続けた。
──ごめん、あなたを守れなかった
私は、ソファの上で、しばらく動けずにいた。
窓の外で、初夏の風が、街路樹の葉を揺らしていた。動けないまま、私は、その葉の動きを、ずっと見ていた。
*
吉田直子。
亡くなった娘の母親の名前を、自分は、あれから何度書き、何度口にしてきたか分からない。
事件のあの夜、通報を受けてから四十分ほど経ったあと、自分は彼女に最初の電話を入れた。
受話器の向こうに呼び出した、彼女の最初の「はい」という返事は、今でも耳の奥のある場所に残っている。
あの声が、あの瞬間に、何かを永遠に手放したことを、自分はそのとき察した。
無罪判決が出たとき、自分は傍聴席にいた。主文を聞いた瞬間、自分の中で、何かが、静かに終わった。
──終わった場所で、彼女は、まだ立っていた。
自分が引き出せなかった自白を、彼女は、別の方法で引き出した。
法の言葉ではなかった。証拠でもなかった。取調室でもなかった。
法廷の通路で、一人の人間に向けて、発した言葉で。
自分には、できなかったことだった。できなかった、というより、自分の立っている場所からは、届かない場所に、それはあった。
彼女は、その場所に届いた。
法の外から、篠田の内側に届いた。
自分が二年間、辿り着けなかった場所に。
篠田がすべてを話した翌日、自分は彼女に電話を入れた。電話口の彼女は、自分が話すあいだ、ほとんど声を発しなかった。
娘を殺した人間が、確かにそこにいた、という事実が、言葉として現れた瞬間——その重さを受け取るための言葉を、人間はまだ持っていないのかもしれない、と自分は思った。
彼女が口を開いたのは、三分近く経ってからだった。「……ありがとうございます」それだけだった。
通話を終えた後、ありがとうございます、という言葉の意味を、自分なりに考えていた。
自分は、犯行を立証できなかった。
傍聴席の端の席から、ただ、見続けていただけだった。
分からないまま、その言葉は、乾いた土に落ちた雨粒のように、じわりと、自分の中に染み込んでいった。
*
俺は病室のベッドにいた。結審の日、ここに運ばれてから数日が経っていた。
あの夜、車が目前に迫る、その長い一瞬の中で、俺は、走馬灯のように、すべてを思い出した。
両親に包み隠さず話すことを決めたとき、俺は、父に電話をした。自分の口から直接、母に伝えることは、どうしても出来なかった。すべてを話し終えたとき、父は、長い沈黙の後、「そうか」と言った。怒りや悲しみ、父のあらゆるものが、その沈黙の底に沈んでいた。刑事の坂口さんに、すでに話した、という事、遺族の方に、謝罪に行くつもりである事を伝えると、「わかった」とだけ返した。
車が迫る長い一瞬の中で甦った記憶の中に、子供の頃の思い出があった。その記憶の中の俺は、父に肩車をされて、台所で料理をしながら、こっちを振り返り、笑っている母を見ていた。
*
坂口さんから、篠田の事を聞いた二日後、近藤先生から、電話があった。
「吉田さん」
「はい」
「先方から、書面が届きました」
「……はい」
「訴え取り下げ書、です」
「……はい」
「原告本人の意思によるものとの、代理人からの説明が添えられています。被告である吉田さんが、取り下げに同意なさるかどうかを、お尋ねしたく」
私は、受話器を両手で持ち直した。
「……同意します」
即答した。
近藤先生は、少し間を置いてから、
「ご理由は、お聞かせいただかなくても、結構ですが」
「判決は、要りません」
「……」
「咲希のために、私が法の外で発したあの言葉の正当性を、判決として、認めてもらいたいとは思っていません。判決が出ても、出なくても、私の中の理由は変わりません」
「承知しました」
「取り下げの手続きについては、こちらで進めます。吉田さんには、改めてご連絡します」
「私のほうからは、以上です。吉田さんのほうで、何かございますか」
言おうかどうか、一瞬、迷った。迷いながら、口を開いた。
「……坂口さんから連絡がありました。篠田が自白しました」
「……そうですか」
「……それで、篠田が、私に謝罪したいと言っている、と」
私は、面会に応じるかどうかを、まだ、自分の中で決めていなかった。応じれば、篠田の前に立つことになる。立った先で、自分が何を発するか、何を発さないか、自分でも分からない。応じなければ、二度と篠田の顔を見ることがない。咲希を殺した人物の顔を二度と見ない、ということは、私の中で、何かを完結させることにも、何かを未完結のままにしておくことにも、なる。
「……お会いになるかどうか、迷っていらっしゃる」
「……迷っています」
「……もし、よろしければ、うちの事務所の応接室で、お会いになるのは、いかがでしょう」
私は、受話器を握り直した。
「……事務所で」
「はい。私が、間を取り持たせていただきます。坂口さんも、篠田さんに付き添う形で、ご同席いただけるかどうか、確認します。それでよろしければ、吉田さんも、私の隣で、お話しいただけます」
「……」
「お一人で、面会の場に立たれるのは、お気持ちのご負担が大きすぎると、私は思います」
近藤先生の声は、いつもの落ち着きを保っていた。しかし、その下に、私への気遣いが深く置かれていた。
「……お願いします」
「では、日取りは、こちらで調整します。篠田さんの体調と、坂口さんのご都合と、吉田さんのご都合を、合わせて、無理のない日を選びます」
「はい」
「もう一点、お伝えしておきたいことがあります」
近藤先生の声が、わずかに変わった。
「はい」
「吉田さんの側から、改めて篠田さんを訴えることができます」
「刑事裁判の無罪判決は、確定しています。その判決を覆すことは、一事不再理の原則により、できません。しかし、民事訴訟は、刑事裁判とは別の手続きです。篠田さんが自白された内容を根拠として、不法行為による損害賠償を、民事の場で求めることは可能です」
「……今は、まだ」
「今すぐお決めいただく必要はありません。ただ、選択肢として、頭の片隅に置いておいていただければ」
「……はい」
通話が、切れた。
受話器を、置いた。置いた手が、もう震えていなかった。
二日前の、坂口さんの電話の後、止まらなかった涙は、二日のあいだに、私の中で別のものに変わっていた。涙は、もう出なかった。出ない代わりに、面会の場で、何を発するべきかの輪郭が、私の中で、少しずつ整いはじめていた。
-----
面会の日は、六月の中旬の、晴れた水曜の午後だった。
私は約束の二十分前に、事務所に着いた。応接室に通され、近藤先生と向かい合って腰を下ろした。
「お早いですね」
「落ち着いて、座っておきたくて」
「ごゆっくりどうぞ」
近藤先生は、立ち上がり、給湯室のほうへ向かった。
しばらくのあいだ、応接室に、私一人が残された。
窓のカーテンは、少しだけ開いていた。外から初夏の午後の光が、細く部屋に差し込んでいた。光の中を細かい埃が、ゆっくりと、舞っていた。
近藤先生が、お盆に湯呑みを四つ載せて、戻ってきた。
「先方は、二時に、ご到着の予定です」
「はい」
近藤先生は、湯呑みをテーブルに整然と置き、私の向かい側のソファに、戻った。
-----
二時を、五分ほど過ぎたところで、受付のほうから、足音が聞こえた。
扉が軽くノックされ、受付の方の声が、「到着されました」と告げた。
扉が、開いた。
最初に入ってきたのは、坂口さんだった。
スーツは、地味な茶色だった。手には何も持っていない。私のほうを、一度、視線で確認し、軽く頭を下げた。
「ご無沙汰しております」
「……」
私も軽く、頭を下げた。
その後ろから、篠田が、姿を現した。
篠田は、退院したばかりらしく、頬の肉のなさは、結審の日のままだった。しかし、目の奥の、あの薄い膜のようなものが、今日は見えなかった。
篠田は、応接室に入った直後に、ソファに座る前に、その場で、深く頭を下げた。
「……お時間を、いただき、ありがとうございます」
声は、低かったが、はっきりしていた。
ソファに座らせるべきか、迷っていた近藤先生の前で、篠田は、両膝を応接室の床についた。
そのまま、額を、床に近づけた。
土下座だった。
肩が、震えていた。
声は、出ていなかった。出さずに、ただ、頭を下げ続けていた。
数秒のあいだ、応接室の中の誰も、動かなかった。
坂口さんは、篠田のすぐ後ろに、立ったまま見守っていた。近藤先生は、私のほうを一度、見た。
私は、ソファから、ゆっくりと立ち上がった。
篠田のそばまで、歩いた。
篠田の前に、立った。
「……立ってください」
私の声は、自分でも驚くほど、毅然としていた。
篠田は、すぐには、顔を上げなかった。
「篠田さん、立ってください」
私は、もう一度、言った。
今度は、篠田は、ゆっくりと顔を上げた。目の縁から、涙が、止めどなく流れていた。
篠田は、両手を床について、立ち上がろうとした。立ち上がる動作は、時間がかかった。坂口さんが、後ろから軽く肩を支えた。篠田は、ようやく立ち上がった。
立ち上がった篠田と、私は、向かい合った。
篠田の身長は、私より頭一つ分、高かった。それでも、今、立っている篠田の姿は、私より小さく見えた。
「私はあなたを、赦せません」
私の声は、まだ毅然としていた。
「……」
「いえ」
私は、首を、わずかに横に振った。
「赦せない、というより、届かないんです」
篠田は、何も応えなかった。涙は、まだ頬を伝っていた。
「あなたに謝られても、咲希はもちろん、私も、どうにもならないんです。咲希は戻ってきません。咲希が戻らない事実は、何があっても変わりません」
「……」
「あなたが自白し、謝っているのは、自分を救おうとしているのです」
篠田の肩が、わずかに震えた。
ここで、私は一度、息を整えた。
「あなたは、自白した時点で、呪いは解けているでしょう」
「……」
「私には、ただ、事実を知れたという、それだけです」
私は、そこで、口を閉じた。
応接室の中の空気が、しばらく止まっていた。
篠田は、私の言葉を最後まで、立ったまま聞いていた。聞き終えた後、もう一度、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
それだけを、低い声で告げた。
坂口さんが、篠田の肩に、手を置いた。
二人は、扉のほうへ、ゆっくりと向かった。
扉が開く前に、坂口さんが、私と近藤先生に、軽く頭を下げた。篠田は、扉のところで、もう一度、頭を下げた。顔を上げないまま、二人は、応接室を出ていった。
扉が、静かに閉まった。
-----
扉が閉まったあと、応接室の中の空気が、ゆっくりと落ち着いていった。
私は、ソファに戻って、腰を下ろした。
近藤先生も、私の向かいで、自分の湯呑みを、両手で包んでいた。
一分ほどが、過ぎた。
近藤先生が、長く、息を吐いた。
「お疲れ様でした」
「……はい」
「吉田さん」
「はい」
「少し、お話を、してもよろしいですか」
「はい」
近藤先生は、テーブルの上の自分の湯呑みを、一度、指先で撫でた。撫でてから、視線を上げた。視線は、私のほうには、向けられていなかった。窓の外の、青々とした街路樹の葉のあたりに、向けられていた。
「弁護士という仕事を、長くしていますと」
窓の方を向いたまま、近藤先生は、静かに話しはじめた。
「人と関わる時間が、他の職業と比べて、多くなります。事件の当事者の方、ご遺族の方、加害者の方、そのご家族の方、関係者の方——さまざまな立場の方と、折々にお会いします」
「はい」
「その中で、気づくことが、いくつかあります」
近藤先生は、一度、短く、息を整えた。
「一つ、申し上げておきたいのは、人間というのは、自分で自分を、欺き続けるうちに、欺いていることそのものを、忘れてしまうことがある、ということです」
私は、近藤先生の横顔を見ていた。
「最初は、罪の意識があって、それに蓋をする。蓋をすると、蓋をしたこと自体は、覚えている。しかし、時間が経つうちに、蓋の下に何があったかを、少しずつ、忘れていく。最後には、蓋をしたということ自体も、忘れていく」
「……」
「忘れた人は、罪の意識に、苦しまなくなります。苦しまなくなるので、表面的には、楽そうに見えます。しかし、同時に、別のものも、失っていきます」
「……別のもの」
「ご家族の顔、親しい人の声、過ぎた日の光——そういうものを、心の中で、思い出す力です」
近藤先生は、視線を、窓の外から、少しだけ室内のほうに戻した。
「思い出す力は、罪の意識と同じ回路を使います。深いところで繋がっているのだと、私は、感じています。片方を完全に塞いだ人には、もう片方も届きにくくなる。何かを心の底から大切に思う、ということが、できなくなっていく。生きてはいる。生きてはいるけれど、生きていることの深さのようなものが、なくなっていく」
私は、近藤先生の言葉を、一つずつ聞いていた。
「法律は、人間に対して、当てる物差しです」
近藤先生は、続けた。
「人間として、罪の意識を持ち、後悔し、何かを思い出せる人——その人には、法律が、当たります。当たることが、その人を裁くことにもなるし、同時に、その人を、人間として扱うことにも、なります」
「はい」
「しかし、自分を欺き続けて、最後には欺いていること自体を忘れた人には、法律が届かないことがあります。その場合、裁かれません。裁かれないのは、一見、救いのように見えるかもしれません。しかし、実際には、その人は、もう、救われることは、ありません。裁かれることと、救われることは、同じ回路の、表と裏です」
「……」
「人として裁かれることができるというのは、たとえそれが死刑というものであっても、その最後に、人として救われる可能性が、まだ、残っているということです」
「……」
「絶望や、死よりも忌むべき場所、というものがあるのかもしれません」
近藤先生は、そこで、言葉を一度、区切った。
「篠田さんが、今日、この応接室に来られたこと」
「はい」
「あのこと自体が、篠田さんが、まだ、人間のほうに留まっていることの証です」
応接室の中の空気が、わずかに、動いた。窓の外から差し込む光が、部屋の床に薄く広がっていた。
「篠田さんは、ご自分の口で、すべてを話されました。それは、法の手が届かなくなった事実を、人間としての行為として、引き受けられた、ということです」
「……」
「彼は、人間として、戻ってこられたのだと、私は、見ております」
私は、湯呑みを、両手で包み込んだ。
茶は、もう、ほぼ冷めていた。
-----
しばらく、沈黙が続いた。
近藤先生は、それ以上、何も言わなかった。私が、自分の中で、何かを整えるための時間を、与えてくださっているのが、伝わった。
私が、あの通路で発した呪いの言葉は、法の外で発したものだった。法が、咲希のためにできることは、もう、無罪判決の確定とともに、終わっていた。私は、法の外で、咲希のために、何かを発した。発したのは、篠田の中の、人間に向けてだった。
私は、湯呑みを、口元に運んだ。冷めた茶を、一口、含んだ。含んだ茶を、ゆっくり飲み下した。
飲み下してから、私は、近藤先生のほうを向いた。
「近藤先生」
「はい」
私の声は、毅然とでも、冷たくでも、なかった。静かな声だった。
「思えば、五年というのも、おそらく、彼が嘘をついたままでも、死ぬなんてことは、なかったでしょう」
「……」
「でも、その時、生きながら人間ではなくなる、そのことを以て、死ぬ、という事だったんだと思います」
近藤先生は、応えなかった。
応えずに、私の言葉の続きを、待っていた。
私は、湯呑みを、両手で包み込んだ。
「私は、彼を呪うことで、彼を救ってしまったのかもしれません」
近藤先生は、しばらく、何も言わなかった。
応接室の中が、深い静けさに、包まれた。
窓の外から差し込む、初夏の光が、部屋の床に、長い斜めの線を引いていた。光の中を、細かい埃が、ゆっくりと舞い続けていた。
近藤先生が、最後に、小さく、うなずいた。
うなずいただけで、何も言わなかった。
言わないことが、私の最後の言葉に対する、近藤先生の、最も深い応答だった。
私は、湯呑みを、両手で包んだまま、しばらく、その光を見ていた。




