結審
六月に入り、朝の光が、初夏の強さを帯びていた。
裁判所の門の前に、朝八時の段階で、すでに多くの報道陣が集まっていた。結審という公判の節目が、報道関係者にとっても、取り逃したくない機会だったのだろう。私は、いつも通り、足を止めずに門をくぐり、エントランスへ向かった。
ロビーで、近藤先生と合流した。短い挨拶のあと、近藤先生は私の顔を、一度、注意深く見た。
「今日は、最終準備書面の陳述が、双方からあります。その後、結審の宣告と、判決期日の指定。手続きとしては、これだけです」
「ただ、私のほうから、最後に、口頭で一言だけ、補足を加える予定です」
近藤先生の声は、いつもの落ち着きを保っていたが、わずかに、いつもと違う重みが混じっていた。
「……補足、ですか」
「はい。最終準備書面で展開した内容を、もう一段、整理する形で、法廷の場に置いておきたいと思っております。原告側からは、おそらく、異議が立てられます。それは想定の範囲内です」
「吉田さんは、これまでと同じように、正面を向いていてくださって結構です」
近藤先生の口調は、落ち着いていたが、今日は、これまでのどの期日とも違う、何か覚悟のようなものが、声の底にあった。最終局面で、この人が、自分の中に温めてきた何かを、出すつもりでいる——そういう気配が伝わってきた。
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傍聴席は、すでに、後方まで埋まりかけていた。法廷記者の常連の顔に加え、これまでの期日には見なかった顔ぶれも、いくつか混じっていた。後方の端に、坂口さんの姿が、今日もあった。いつもよりも、少しだけ前傾した姿勢だった。
被告席の、近藤先生の隣に着席した。原告席の篠田の姿を、私は、横目で短く、確認した。
頬の肉は、ほぼ骨の上にだけ張り付いているように見えた。髭は、丁寧に剃られていた。
目が、以前と違っていた。今日は、目の奥に、別の何かが加わっているような気がした。遠くを見ているようでもなく、こちらを見ているようでもなく、何か、自分の内側の一点を、じっと見ているような目だった。
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裁判官が入廷し、手続きが始まった。
「本日は、最終準備書面の陳述と、結審の宣告、および判決期日の指定を、予定しています」
「原告代理人、準備書面を、陳述願います」
岡本弁護士が、立ち上がった。
「陳述します。原告の最終準備書面に記載の通り、原告の請求を認容いただきたく、お願い申し上げます」
形式的な陳述だった。数秒で、終わった。
「被告代理人、準備書面を、陳述願います」
近藤先生が、立ち上がった。
「陳述します。被告の最終準備書面に記載の通り、原告の請求を、いずれも棄却いただきたく、お願い申し上げます」
こちらも、数秒で終わった。
近藤先生が、もう一度、立ち上がった。
「最終準備書面の口頭補足として、申し上げてもよろしいでしょうか」
「簡潔にお願いします」
近藤先生が、姿勢を正した。
「まず、本件発言が、社会通念上、客観的に精神的苦痛を与えるものかどうか、という点について、申し上げます」
「被告の発言には、条件節があります。嘘をついていない人間にとって、この発言の条件は、自分には当てはまらない。当てはまらない条件の言葉が、なぜ、精神的苦痛の原因になるのでしょうか」
近藤先生は、傍聴席を含め、一度、視線を巡らせた。
「皆さん、少し想像していただけますか。もし、ご自身が、嘘をついていないのに、同じ言葉をかけられたとしたら、どうでしょうか。やっていない。嘘をついていない。ならば、この言葉の条件節は、自分には当てはまらない。その時、多少、困惑することはあっても、こう思われませんか。「私は、嘘はついておりません。しかし、私に、その言葉を発するのは理解できます。真犯人が早く捕まる事を願います」と」
「本件発言が、社会通念上、客観的に精神的苦痛を与えるかどうかは、受け手の内側の状態によって変わります。発言そのものに、一律の有害性があるとは、言えません」
近藤先生は、一度、間を置いた。
「次に、拡散の予見可能性について、申し上げます」
「原告代理人は、被告が報道関係者の前で発言した以上、拡散は予見可能だったと、主張しておられます」
「しかし、被告の発言は、そもそも第三者の存在を必要としない構造を持っていました」
法廷の空気が、わずかに変わった。
「疑いをかける側が、第三者の支持を必要とする場合があります。第三者が同調することで、疑いは社会的な圧力として機能する。しかし被告の発言は、そういうものではありませんでした。世論が原告側についても、第三者が被告を批判しても、発言の作用には関係がない。被告が向いていたのは、原告の内側だけです。第三者は、完全に不要でした」
「第三者を必要としない発言は、拡散を意図しない発言でもあります。そもそも拡散を必要としない発言について、拡散の予見可能性を問うことは、議論の前提を誤っております」
「加えて申し上げます。被告は、娘を殺された遺族として、無罪判決を受けた直後の通路に立っておりました。被告の意識は、ただ一点、原告の内側に向けられていました。傍聴席の記者たちがいることを、認識しながらも、その後の拡散という結果は、被告の意識の外にあったものです。そのような状態における発言について、予見可能性を問うことは、被告の置かれていた状況を、正確に踏まえたものとは言えません」
「もう一点、申し上げます」
「原告は、本人尋問において、撤回を求める理由として、世間への拡散が収まるためだけではなく、問い返しがなくなるかもしれないから、と、ご自身の口から述べられました」
「問い返しがなくなるかどうかは、分からない、とも述べられました」
「止まるかどうかも分からないまま、撤回を求めている。この事実は、撤回請求の実効性そのものに、疑問を投げかけます」
「さらに申し上げます。問い返しが止まらない状態は、専門家証人の証言によれば、受け手の内側に、発言と呼応するものがある場合に生じます。撤回によって、その内側のものが消えるわけではありません。撤回によって、問い返しの原因は、取り除かれません」
「つまり、原告が本当に解決したいと望んでいるものは、撤回によっては、解決しない。そのことを、原告自身が、すでに、感じておられる」
「撤回請求の実効性が、原告自身の言葉によって、すでに、揺らいでいます」
「ここで、一点、申し上げます」
「原告代理人は、本件において、撤回請求を、拡散による損害の回復という観点から、一貫して主張されてきました」
「繰り返しになりますが、原告ご本人の言葉を、改めて確認します。拡散は、いつか収まる。しかし、問い返しは、止まらない。だから、撤回を求めている、と」
「拡散の収束と、問い返しの解消は、別のものです。原告代理人が主張してきた撤回の目的と、原告ご本人が述べた撤回の目的が、一致していない」
「原告が本当に解決を求めているものが何であるかについて、原告代理人は、正確に把握されていたのでしょうか。あるいは、把握した上で、看過されていたのでしょうか」
「いずれにせよ、撤回請求の根拠そのものが、原告側の内部において、整合していません」
近藤先生は、もう一度、間を置いた。
「次に、因果関係の問題について、申し上げます」
「無罪と無実は、同義ではありません。本件刑事判決は、有罪の証明が合理的な疑いを超えるに足りなかった、という消極的無罪であります」
「原告の受けている苦痛の原因を判断するためには、事件の真相を参照せざるを得ません。しかし、その真相は、消極的無罪という判決によって、確定していません」
「原告が無実でない可能性がある以上、自らの行為から生じた可能性のある苦痛について、他者に賠償を求めることができるかどうか、という問いは、避けられません」
「ノセボ効果は、受け手の内側に呼応するものがある場合に作用します。原告に苦痛が生じているとすれば、その苦痛の原因は、被告の発言ではなく、原告の内側にある何かである可能性が、否定できません」
「原告が主張するすべての損害は、原告が無実であることを前提として、はじめて被告の発言との因果関係が成立します。その前提が確定していない以上、因果関係の立証は、不十分であります」
「本件反対尋問において、当方は原告に対し、事件当夜、外出されたかどうかを、問いました」
「原告は、答えられませんでした」
「事件以来、刑事裁判を含む二年間を通じて、取調室で、法廷で、繰り返してきたはずの言葉を、この場では、発することができなかった。その事実は、本件の記録に残っております」
近藤先生は、最後に、声の調子を、わずかに変えた。
「最後に、一点だけ、申し上げます」
「被告、吉田直子氏の、判決後の発言は、殺された娘の母として、事件の真相が法の外に出てしまったとき、一人の人間から、一人の人間に対して発した、真摯で切実な、最後の問いでありました」
「その問いを、発することを、禁じることが、本件訴訟の求めるところでありますならば——」
近藤先生は、そこで一度、止まった。
「その重さについて、裁判所のご判断に、委ねます」
近藤先生は、深く一礼し、着席した。
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法廷の中が、しばらく、完全な静けさに、包まれていた。
岡本弁護士が、ゆっくりと、立ち上がった。
「数点、申し上げます」
「第一点。被告代理人の主張は、確定した無罪判決の効力を、民事の場で実質的に問い直そうとするものであります。本件民事訴訟において、原告が刑事事件の犯人であるか否かは、争点ではありません」
「第二点。発言者の意図と客観的予見可能性は、別の問題であります。被告が拡散を意図していなかったとしても、客観的に拡散が予見できる状況で発言した以上、その結果についての責任は免れません」
「第三点。被告代理人は、撤回請求の実効性を問題にされましたが、これは本件の争点ではありません。本件において原告が求めているのは、被告の発言によって生じた損害の賠償と、発言の撤回です。撤回によって問い返しが止まるかどうかは、原告の主観的な期待の問題であり、撤回請求の法的な根拠とは、別の問題であります。不法行為によって生じた損害については、その回復を求める権利が、原告にはあります。撤回請求は、その権利の行使として、正当に成立します」
「第四点。ノセボ効果が受け手の内側の状態に依存するとしても、その状態を引き起こしたのが被告の発言である以上、発言との因果関係は成立します」
「第五点。被告の置かれていた状況の切実さは、当方も理解するところであります。しかし、動機の切実さと、不法行為の成否は、別の問題であります。どれほど切実な状況にあっても、他者に損害を与えた事実は、変わりません」
岡本弁護士は、一度、間を置いた。
「吉田直子氏が、ご息女を失った苦しみの中で、あの言葉を発したことは、原告代理人として、否定するものではありません」
岡本弁護士の声が、わずかに、変わった。
「しかし、原告もまた、二年間、苦しんでおります。本件は、どちらの苦しみが本物かを争うものではありません。法の枠の中で、何が許され、何が許されないかを、問うものであります」
岡本弁護士は、着席した。
裁判長が、両代理人を、順に見た。
「双方の主張は、書面および口頭での補足を含め、慎重に判断いたします」
「では、本件の審理は、終結いたします」
裁判長は、書類を整えた。
「判決期日は、追って指定し、ご連絡いたします」
閉廷の宣告に移ろうとした、その瞬間だった。
原告席で、音が動いた。
椅子が、軽く床に擦れる音。
誰かが、立ち上がる気配。
私は、正面を向いていた。音のした方を見ていなかったが、音の方向から、篠田が、自分の椅子から、立ち上がったことは分かった。
岡本弁護士が、「篠田さん」と、低く呼ぶ声が、聞こえた。
篠田は、応じなかった。
立ち上がったまま、しばらく、そこにいた。
私は、ついに、視線を向けた。
篠田が、立ち上がった姿勢のまま、裁判長のほうに、顔を向けていた。唇が、わずかに開いていた。顔は青白く、両手は、原告席のテーブルの縁を、強く握っていた。
裁判長は、篠田のほうを見て、一度、岡本弁護士の顔にも目をやり、それから、穏やかに声を掛けた。
「原告、何か、おありですか」
篠田は、応えなかった。
応えないまま、唇だけが、何かの形を作ろうとして、作りきれずに、小さく動き続けていた。
岡本弁護士が、もう一度、「篠田さん」と、今度はもう少し、はっきりした声で、呼んだ。
篠田は、岡本弁護士のほうを、一度だけ見た。
見たあと、視線を、正面に戻した。
戻した視線の先には、私がいた。
被告席の、私がいた。
視線が、正面から合った。
いや、正確には、合ったのかどうか、わからなかった。篠田の目は、焦点が、どこにも定まっていないようにも、見えた。それでも、篠田の顔の向きと、私の顔の向きが、まっすぐに重なったのは、確かだった。
そのまま、数秒が経った。
数秒のあいだに、篠田の唇が、いくつもの形を、順に経由した。
最初に、音が出た。
「……俺が」
かすれた、低い声だった。
傍聴席の、ペンの動きが、すべて止まった。
岡本弁護士が、素早く立ち上がった。篠田の腕に、手を掛けようとした。
「篠田さん、お座りください」
篠田は、岡本弁護士の手を、振り払いはしなかった。岡本弁護士の手は、篠田の腕に、軽く触れているだけのようになった。
篠田は、もう一度、口を開いた。
「……俺が、あの夜」
また、ペンが止まった。
傍聴席のどこかで、息を飲む音が聞こえた。
裁判長は、動かなかった。篠田の姿を、正面から、見ていた。
篠田は、さらに、続けようとした。
「……あの、夜、俺は」
言葉が、そこで、切れた。
切れたあと、篠田の身体が、一度、小さく揺れた。両手が、テーブルの縁を、もう一度、強く握り直した。
「……すみません、すみません」
篠田は、言葉を、続けた。
「すみません、すみません」
同じ言葉が、繰り返された。
「すみません」
五度目か、六度目のあたりで、声が小さくなり、
「すみ……ません」
最後は、息だけの音に、変わっていった。
篠田の膝が、わずかに、折れた。
折れた瞬間に、岡本弁護士が、腕を、篠田の脇の下に差し込んだ。篠田は、腕を差し込まれた方の肩だけを残すように、崩れ落ちた。
裁判長が、立ち上がった。
「休廷します」
裁判長の声は、いつもの平坦さの中に、この瞬間だけ、速さが混じっていた。
廷吏が、素早く、原告席に近づいた。岡本弁護士が、篠田の腕を、片側から支え、廷吏が、もう片側から支えた。二人で篠田を、椅子に座らせ直した。
篠田は座ったまま、頭を、原告席のテーブルに、軽く預けた。腕は、両脇に、力なく垂れていた。
数分後、白い上着を着た中年の男性が、法廷に入ってきた。裁判所内の救護要員だろうか、急遽呼ばれた医療関係者かもしれなかった。男性は、篠田のそばにしゃがみ、手首で、脈を取っていた。脈を取りながら、何か、岡本弁護士に短く確認している。
岡本弁護士は、うなずきで、応じた。
男性は、顔を上げ、廷吏のほうへ、何か合図した。
廷吏が、担架を、法廷の入り口まで運んできた。
岡本弁護士と、男性と、廷吏の三人で、篠田を担架に移した。
篠田は、抵抗しなかった。抵抗する力も、もう、残っていないように見えた。
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担架が、法廷の外へ運ばれていく際、通路を通過する、ほんの短い間——篠田の顔を、間近で見た。
担架の上で、篠田は、目を薄く開けていた。
開いている目は、天井のあたりを見ていた。
開いている目の奥に、これまでとは違う、静かなものがあった。
静かなもの、というのが、私の目に映ったものの、すべてだった。
担架は、法廷の扉の外へ出て、扉が、静かに、閉まった。
閉まったあと、法廷の中が、一瞬だけ、完全な静けさに包まれた。
近藤先生が、隣で、私のほうを見た。
「……吉田さん」
「……はい」
「大丈夫、でいらっしゃいますか」
「……はい」
大丈夫、と、答えた。答えたのは反射的に近かった。自分が本当に大丈夫かどうかは、まだ、確かめられる位置には、私はいなかった。
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裁判長が、戻ってきたのは、十五分ほど後のことだった。
「原告の体調不良により、先ほどは、急な休廷となりました」
「本日の審理の終結、および、判決期日の指定については、予定通り、進めます」
「判決言渡期日は、七月下旬を、目途に、追って、ご連絡いたします」
「本日は、これにて、閉廷いたします」
閉廷の宣告が、告げられた。
私は、立ち上がり、正面の裁判官の席に向かって、軽く頭を下げた。下げるときに、右手の原告席が、目に入った。
岡本弁護士は、一人、原告席に座っていた。彼は、机の上の書類を、黙って整理していた。書類を整理する手つきが、いつもより少しだけ、速くなっていた。彼は、顔を上げなかった。
私は、被告席を離れ、近藤先生と並んで、法廷を後にした。
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通用口に、車が待っていた。車に乗り込み、家の近くまで送ってもらった。車中では、近藤先生は、ほとんど話さなかった。普段、お互いの注意を法廷の言葉から引き離すために交わしていた穏やかな話題も、今日は、口にしなかった。話さないことで、近藤先生もまた、自分の中の何かを、整理しているのが、伝わってきた。
家の近くで車を降り、近藤先生に、挨拶をして、別れた。
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家に帰り着き、手を洗い、リビングに入った。
ソファには、腰を下ろさなかった。
そのまま、台所へ立った。湯を沸かす。
湯が沸くのを待つあいだ、私は、窓の外を見ていた。外は、初夏の光に、包まれていた。桜は、すべて、散り終えていた。若葉が、どの木にも、つややかに、広がっている。
湯が、沸いた。
急須に茶葉を入れ、湯を注ぎ、蓋をして、少し待つ。それから、湯呑みに注ぎ分け、仏壇の前に、運んだ。
湯呑みを置き、手を合わせた。
——今日、結審、でした。
心の中で、咲希に、そう伝えた。
——近藤先生が、最後に、法廷で、私の言葉の意味を、皆に向けて、言ってくれました。
——その後、あの男が、法廷で、何かを言いかけました。
言葉が、それ以上、続かなかった。続けようとすれば、「俺が」「あの夜」「すみません」という、篠田の断片の声を、咲希に、そのまま伝えることになる。それを、今、咲希に伝える意味があるかどうか。私には、まだ、わからなかった。
手を合わせたまま、しばらく動かずにいた。線香を、立てていなかったことに気づいた。立てなかった理由は、自分でも分からなかった。立てて手を合わせる、という、いつもの順序を、今日は踏まなかった。踏まなかった順序を、後から、踏み直すかどうかを、私は、少しのあいだ考えていた。考えている時間のあいだに、線香は立てないままだった。
そのまま、手を下ろした。
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夕方、近藤先生から、電話が入った。
「吉田さん」
「はい」
「篠田さんですが、本日の休廷のあと、近くの病院に搬送されたそうです」
「……はい」
「命に別状はないと、岡本弁護士からの連絡で、伺っています」
「……そうですか」
「ただ、岡本弁護士のほうから、もう一件、お伝えしたい旨の連絡がありました。明日以降、先方から、正式な形で、何らかの書面が届くかもしれません。予告だけ、お耳に入れておきます」
「……分かりました」
「内容については、私もまだ把握しておりません。届き次第、ご連絡します」
「はい」
「今日は、どうぞ、ゆっくり、お休みください」
受話器を、置いた。私は、仏壇の前に戻った。
線香に、火を点けた。
線香の先から、細い煙が、ゆっくりと、立ち上がっていった。
立ち上がっていく煙を、しばらく、見ていた。
見ているうちに、日が、傾き始めていた。
部屋の中の、光の色が、少しずつ、橙色に、変わっていった。




