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海底編◇第十二話

 自分でも我が身になにが起こっているのか、しばらくはわからないままでいた。

 昼餉の時刻を大きく過ぎてからこの部屋に戻ったのであるが、その帰り道からすでに沙弓の身体はわずかばかりの不調を訴えていた。

 呼吸が上手くできない。息を吸ったり吐いたり、ただそれだけの当たり前のことを行うのがとても辛い。しかし息を止めたままで過ごすなど、不可能なことだ。たちどころに息苦しくなってしまう。

 こんな感覚は前にもあった。この地で目覚めた初日、いきなり現れた失礼な男にひどく腹を立てて心を乱してしまったときに味わった息苦しさによく似ている。

 だが、このたびはなにも変わったことはしていないはずだ。あれ以来、努めて心穏やかに過ごすようにしているし、もしも頭に血が上りそうになったときにも必死に自制している。それくらいの自己管理は朝飯前だ。

 ……それなのに。

 部屋に戻ったときには、一息ついたらもう一度書庫に行ってみようかと思うくらいの気力があった。なのに少しベッドに横になっただけで、抑えきれないほどの吐き気に見舞われてしまう。すぐに強めの薬湯を処方されてそれを飲んだが、ほとんどを吐き出してしまい、いくらも胃に留まらなかった。

 自分を取り巻く空気が、大地が、なにもかもから拒絶されている。身体が辛くなるごとに「異なる存在」である自分を沙弓は強く感じていた。

「排除されている」――今までその実態もよくわからぬままに感じていた疎外感の正体にようやく行き着いた気がする。

 自分はここへ来てはいけない存在だった。この土地の占い師たちが予言した「天上からの使者」は別人だったのではないだろうか。それなのに不運な偶然が重なって、代わりに自分が辿り着いてしまった。そう考えるのが一番妥当な気がする。

 さまざまな特殊能力を持った人物が地上にも存在することは、テレビや雑誌などからの情報で日常的に見聞きしていた。天変地異によるさまざまな災害などを事前に予測したり、普通の人間が持たないような不思議な力を発揮する者。そのような人々ならあるいはこの世界の荒廃を食い止めることができるかも知れない。

 しかし、沙弓は違う。

 もちろん、勉強もスポーツもその他の習い事にも全力で取り組んできた。常に「海宝グループ」の人間であるというプライドを忘れず、どんなことにも手を抜くことはなかった。あらん限りの努力をすることは、生きるための必要最低限のことであると心に念じながら。

 だがそれでも、自分は常人の域を超えることはない。これからの人生で、いったいなにをなすべきかすらもまだはっきりと見えてこない有様だ。

 そうだ、こんなところでいつまでものんびりしているわけにはいかない。

 早く、一刻も早く元の世界に戻らなければ。一族に、家族に、そしてなによりも祖父に危険が及ぼうとしているのを放っておくわけにはいかないのだから。

「なのに……すべてが終わるまでは帰れないなんて」

 永遠に戻れる可能性がないと言われたわけではない。タイムリミットは次の新月まで。月の満ち欠けは一月弱の推移で一回りすると言われているから、その期日がくればあるいは「封印の扉」が再び開かれるかも知れない。

 ――否。

 それも、あの男や他の者たちの話が真実であった場合にのみ限定される。もしかしたら、この体調の悪さも特別の薬品などを使われた結果かも知れないという考えも未だはっきりと否定できるまでには至らない。

 いったい、この先はどうしたらいいのだ。もしもこのまま本当に生命の危機が訪れるとしたら、家族のためになにもできずに死んでいくのだとしたら、こんなに辛く情けないことは他にないだろう。

 ――駄目だ、こんなに弱気になっていては。

 ぐらつきかけた気持ちを必死に持ち直そうとしたが、いかんせん身体に力が入らない。

 食事を少しでも摂った方がいいだろうと鈴から言われても、身体がそれを受け付けないのでは話にならない。本当にどうしたらいいのだ。このままでは完全にまずい。

 気持ちは千々に乱れ、考えは少しもまとまらない。だが、怒りすら吐き出すことはできなかった。

 ただ押し黙るしかない沙弓に対し、鈴もおろおろするばかり。

「どうしましょう、こんな日に限って……」

 親身なって世話をしてくれる相手を困らせたくないのだが、自由にならない身体ではどうすることもできなかった。

 東の祠までにも急ぎの使者が出向いたらしいが、そこで受け取った薬も体内に取り込むことができない。目を閉じるのも恐ろしかった。一度瞼を閉じてしまっては、再び開くことができなくなるかも知れない。ネガティブな考え方というわけではなく、本当にそうなってしまいそうな恐怖がすぐそこまで近づいていた。


 ふっと、空気が揺らいだ気がする。

 いつの間に意識が途切れていたのか、あたりはすっかり暗くなっていた。部屋にはろうそくの明かりがたくさん灯っている。

 ――あの男が戻ってきたのだ。

 まだ姿を見たわけでも声を聞いたわけでもない。それなのに、確かにあの者の気配を感じた。

 この感覚も以前どこかで感じたことがある。……そう、東の祠への長い細道を歩いたときのことだ。本当に憎々しいばかりの存在であるのに、あの者のそばにいるときには身体がとても楽だった。まるで彼の周りだけが、沙弓の安全地帯であるかのように。

 ――でも、違う。

 そしてまた、もうひとつの意識が浮かび上がる。にわかに湧いた懐かしさにも似た気持ちを、次の瞬間には必死に打ち消していた。

 違うのだ、このような感情を抱くこと自体が間違っている。あの者にとって、自分は必要のない存在。そもそも手違いでこの地に辿り着いてしまったのだから、この手にはひとかけらの希望すら残っていない。

 期待されるだけの人間でないことをはっきり告げるべきだろうか。そうしたならば、また冷たい言葉が戻ってくるだけだろう。

 沙弓の耳が、その声をついに捉える。 唇がひとりでに動いて、なにか返事をしていた。

 凍り付いていた心が身体が、ふっと解き放たれる。いったいなにがどうなっているのかわからないまま、信じられないほどの安らかな気持ちが戻ってきていた。

 目の前で薄藍の袖が揺れるのを、必死でつかみ取っていた。自分のどこにそんな力が残っていたのかわからない。彼の周りの空気だけが沙弓に優しい。そして、冷え切っていた身体を心を芯から温めてくれる。

 しばらくそうしているうちに、絶望の闇の中に沈みきっていた気持ちが少しずつ軟化していくのがわかった。きちんと呼吸が整う頃には、我が身の回りに漂っていた悪しき空気も幾分薄くなってきている。

「もう……平気みたい」

 自分の声が音になって耳に戻ってくる。それだけのことにとても安堵していた。

「そうか」

 男が寝装束に改まっていることに、そのときようやく気づく。そして、彼の輪郭にわずかに滲んだ疲れの色も。

「薬湯をいただくわ、今度はちゃんと飲めそう」

 添えてくれる手を断って、沙弓は自力で器を持ち上げた。指先に意思が伝わっていくのがわかる。

 ――私、生きてる。

 そんな当たり前のことを改めて実感し、そしてホッと胸をなで下ろす。甘くとろみのある飲み物が、喉をゆっくりと流れていった。

「今日は書庫に行ったのか」

 その声が驚くほど間近から聞こえる。彼はまだ、沙弓のすぐ近くにいた。

「ええ……、きっと一度にいろいろなことを頭に詰め込みすぎて疲れてしまったんだと思う。ここはやっぱり、私が今までに住んでいた場所とはだいぶ違っているみたい」

「まあ、……そういうことだろうな」

 ああやはり、と思う。

 自分がこの地を地上のどこかにある場所だと心のどこかで考えているのと同じく、この者もまた「天上の地」など存在しないのではないかと疑っているのだろう。無理もない、互いにその存在を知らないまま長い時間を過ごしてきた者たちなのだから。

 だが、そこで立ち止まっていては、それより先に進めるはずもない。

 ――どこかで負の気持ちを断ち切らなければならない、そうしないとなにも始まらない。

 この男の奥底に眠る「能力」をどうにかして引き出さなければならないのだ。海の底に結界を張り、その中に人型の生物を住まわせるだけの、いわば「魔力」のようなもの。いったいそれがどんなものなのか想像もつかないが、もしも開花しなければそのときにはこの土地の未来もない。

 だが、いったいどうしたらいいのか。

 具体的な方法の提示がまったくないままに、ただ功績を期待される。自分の肩に乗せられた荷が重すぎる。そんなのできるはずもないと突っぱねてしまいたいのに、それも無理だ。

 沙弓は自分の冷たい額に手を当ててみる。

「大丈夫か」

 するとその行為を別の意味に受け取った男が声を掛けてくる。だから、静かに首を横に振った。

 あたりはしんと静まりかえっている。自分たちの周りには今、誰もいない。

 もちろん、裏の戸口には宿直の侍女たちが、表庭には外回りの敬語を担当する侍従たちが控えている。だが、言葉少なくすればなにも悟られずに済むだろう。

「黙って、手を出してくれる?」

「え?」

「なにも聞かないで、黙ったままでお願い」

 突然の問いかけに、男は怪訝そうな顔になる。しかし、沙弓はひるむことなく彼をまっすぐに見つめた。

「これ……預かりもの。あなたに直接渡すようにと言われたの」

 そう言って、懐奥に忍ばせておいたものを取り出す。そこで、胸のつかえが一気になくなった気がした。

「それでは、そろそろ休ませてもらうわ。ありがとう、今度はゆっくり眠れそう」

 無理にでも微笑もうと思ったが、残念ながらあまり上手くいかなかった。


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