第8話 黒曜の瞳
「待て!」
背後から響くオリフタンの怒鳴り声は、前世で私を罵倒した男――政人の声と寸分違わなかった。
裸足で飛び出したから、冷えた石床が足裏に痛い。
マルゼンダ伯爵家の廊下は薄暗い。
壁に飾られた肖像画たちが、走る私を嘲笑う。
――なぜ突然、前世の記憶がよみがえったのか。
頭の奥では、整理できない。
知らない街並み。見慣れない服。光を放つ数々の不思議な道具たち。
まるで異界のような光景。
だけど――無理やり抱かれる恐怖は共通していた。
「待て、アリアンディ!」
背後から荒い足音が迫る。
私は振り返らず、角を曲がった。
その先に現れたのは、玄関へ続く大階段だった。
装飾された手すりに指をかける。
見下ろす階下は、まるで底の見えない奈落のように感じる。
1段、2段――。
必死に駆け降りた。
けれど、寝衣の裾が足に絡み、上手く走れない。
「部屋に戻れ!」
背後から伸びてきた手が、肩を強く掴んだ。
「いやっ!」
反射的に振り払おうとした瞬間、身体が大きく傾く。
「おい!」
視界が反転した。
――あぁ、落ちる!
ふわりと身体が浮く感覚。
時間が止まったようだった。
白い光。耳をつんざく音。冷たい夜風。
頭の奥で、何かが重なる。
――私、また終わるの?
死を覚悟して閉じたまぶた。
その瞬間。
階段の下から、黒い影が駆け上がった。
まるで闇を裂く雷光のように、一瞬だった。
「アリアンディ様」
背中は石床に打ちつけられていない。
「大丈夫ですか?」
低く落ち着いた声に、そっと目を開く。
「アリアンディ様、お怪我はありませんか?」
ようやく、男性の強い腕に抱かれていると気づく。
強い腕に引き寄せられ、冷え切っていた身体に熱が流れ込んだ。
「あ、ありがとうございます」
「お怪我はありませんか?」
「はい」
顔を上げた瞬間、私は息を呑んだ。
黒曜石のような漆黒の瞳。
『日が暮れる前には到着しますよ』
馬車で聞いた低い声が、記憶と重なる。
「あのときの……護衛騎士様?」
思わず呟くと、彼はわずかに目を細めた。
不思議だった。
ほんの少し言葉を交わしただけなのに、その声を聞くだけで胸の奥の恐怖がほどけていく。
けれど次の瞬間。
「カシスタン! なぜ貴様がここにいる!」
上階から怒鳴り声が響いた。
カシスタン――?
その名に、彼はゆっくりと振り返る。
先ほどまで私へ向けられていた穏やかな眼差しが、一瞬で鋭く冷えた。
「兄上。女性を階段から突き落とすとは、感心しませんね」
「勝手に落ちたんだ!」
確かに、突き落とされてはいないけど――。
「さっさと、その手を離せ!」
オリフタンの苛立った声に、カシスタンと呼ばれた彼は、小さく息を吐いた。
「立てますか?」
「えぇ」
「無事でよかった」
私をそっと下ろす。
「何事ですか、騒々しい!」
騒ぎを聞きつけたらしいマルゼンダ伯爵夫人が、メイドを連れて姿を見せた。
カシスタンの姿を見た瞬間、彼女の顔が固まる。
「なぜあなたがここに?」
「ご無沙汰しております、マルゼンダ伯爵夫人」
カシスタンは、優雅に一礼をする。美しく洗練された動きだった。
「いやだわ、カシスタン。他人行儀な挨拶ね」
暗がりでもわかるほど、笑顔は引きつっている。
「それだと、あなたをルートベア辺境伯、そうお呼びしなければなりません」
「それでは、以前のように母上とお呼びしても?」
「えぇ、当然よ。家族なんだもの……」
護衛騎士だと思っていた男性は、困ったように小さく笑う。
――辺境伯?
私は思わず彼を見上げた。
彼がオリフタンの弟。遠縁の家に婿養子に出されたという人物。
「ルートベア辺境伯、名をカシスタンと申します。アリアンディ様、以後お見知りおきください」
「……え?」
完全に固まる私を見て、彼はくすりと笑った。
「先ほどは、名乗ることができず、申し訳ありませんでした」
オリフタンが、苛立たしげに階段を降りてくる。
「なぜ、帰ってきた?」
カシスタンの声音がわずかに低くなる。
「兄上の結婚と聞き、お祝いのために帰郷しました」
「おまえの祝いなどいらん!」
「まぁ、そうでしょうが、せっかくなので、懐かしい屋敷を見ていました。すると、女性が落ちてきたので、驚きましたよ」
「な、どういうこと?説明しなさい、オリフタン!」
伯爵夫人の鋭い声に、オリフタンの肩がびくりと震えた。
その様子に、胸の奥がざわつく。
前世で見た、母親の顔色ばかり窺う男を、私は知っている。
「兄上への説教の前に、アリアンディ様を休ませた方がいいのでは?」
「カシスタン様のおっしゃるとおりですわ」
凛とした声が響いた。
いつの間にか、モズリンが階段下へ駆けつけていた。
「これ以上の騒ぎは、ポーラディア侯爵家へ報告いたします」
空気が凍る。
伯爵夫人は唇を引き結び、やがて無理やり笑みを浮かべた。
「アリアンディを、西棟の客室へお連れなさい」
メイドたちが慌てて頭を下げる。
「アリアンディ様」
モズリンに連れ添われ、その場を後にしようとする。
「――どうかご安心を。今夜は誰も、あなたに近づけません」
カシスタンの言葉を聞いたとき、なぜかカモミールの香りが、ふわりと鼻先を掠めた。




