第6話 ヘタクソ!
結婚が決まったときから覚悟はしていた。
それなのに。
いざとなると、恐怖がじわじわと全身を這っていく。
「失礼します」
私は震える指で扉を開けた。
用意された薄い寝衣は、体の線が浮かび上がり、落ち着かない。
それでも、もう後戻りはできない。
オリフタンは机で本を読んでいた。私の声に顔を上げたものの、一瞥しただけで視線を本へ戻す。
歓迎も挨拶も、何もない。
私を案内したメイドは、無言で去っていった。
――ああ、なんて心細いのかしら。
部屋は薄暗く、机の周囲だけがぼんやりと照らされている。
「あの、お忙しいようでしたら、また改めて――」
パタン、と本が閉じられた。
その小さな音に思わずビクッとする。
「構わない。もう読み終えた」
短い返しが冷たく響く。
大丈夫。怖くない。
夜の営みについては、モズリンにしっかり説明されている。
もしかしたら、オリフタンだって緊張しているのかも。
「食事の場では、あまりお話ができませんでしたね」
「……」
話してみれば、意外と優しい方かもしれない。
こんなときこそ、笑顔よね。
社交界でも『ポーラディアの向日葵』と称された笑顔を、オリフタンへ向けた。
「オリフタン様。私のことは、どうぞアリアとお呼びください」
「――では、アリアンディ」
突き放すような声音に、胸がすっと冷える。
あら?まったく効果なし?
それどころか、私の顔なんて見てもない?
「侯爵家から格下の伯爵家へ嫁ぐのは不本意?」
「いえ、そんなことは――」
「まぁ、仕方ないな。ポーラディア侯爵は金で娘を売ったのだから」
「お父様はそのようなことはっ!」
「違うと?」
「――っ!」
かつては名家と呼ばれた、ポーラディア家。
しかし、祖父の代から傾き始めていた。
海に面する領地は不漁で税収が落ち込み、養殖事業もまだまだ軌道に乗らない状態。
だけど。
例え事実でも、無礼な言い方に怒りが込み上げる。
「この結婚は、伯爵夫人のご意向ですよね。なぜポーラディア家だったのです?」
マルゼンダ家の状況といえば、随分と景気がいい。
鉱山が発見されて以降、採掘される原石を加工し販売する事業が成功している。
質の良い宝石は、貴族間で話題になっている。
「落ちぶれても名家にかわりない。公爵家や王族とのつながりもあるだろう?」
「それは、そうですが」
儲けるために、もっと多くの地域や国と取引がしたい。そのため、ポーラディア家との繋がりが欲しいのか。
「だが、家督だけではない」
「どういうことです」
「君は優秀らしいな。女のくせに、王都大学へ通っていたのだろう」
「……恐れ入ります」
「多彩な才能で、傾いた領地の再建に大いに役立っていると聞いた。男であれば跡取りになれたとも」
「お兄様がおりますから、ポーラディア家は安心ですわ」
「ほう、さぞかし優秀なんだろうな」
兄の経営の才能が乏しいことを知っているのか、皮肉でえぐるように言う。
まったく、さっきから嫌味ばかり。
話した結果は、印象が悪くなる一方だわ。
「優秀な孫が欲しいと、母上が望んでいる」
まるで私を道具としか見ていない言い方に、苛立ちより寒気が勝った。
「だから、おまえが選ばれた」
食堂での伯爵夫人の笑い声が、まだ耳に残っている。
「だが、いくら優秀であっても、この家の財政には口出し無用だ。平穏に暮らしたければ母上には従うことだ」
――どこかで聞いた。
頭の奥で、別の声が重なる。
『母さんに任せておけばいい。絶対に逆らうな』
遠くから響くように聞こえていた声。
胸がずきりと締めつけられる。
「いずれ、オリフタン様が家を継がれたら……、私がお手伝いできるのではないでしょうか」
少しでも、未来に望みを見つけたかった。
「父はまだ健在だ。お前にできることなどない!」
初めてオリフタンが大きく声を荒げた。
その反応に思わず身体がこわばる。だけど、
「気分を害されたなら、申し訳ありません」
「もう、話はいい」
オリフタンが立ち上がり、こちらへ向かってくる。
あまりの迫力に反射的に後ずさった。
「きゃ!」
足元で寝衣の裾を踏み、ベッドへ倒れ込む。
すぐにオリフタンに手首を掴まれた。
顔が近づく。背筋がぞわりと粟立つ。
「んっ……!」
思わず漏れた声を、彼はなんだか勘違いしたらしい。
手首をつかむ力が強まる。
首筋に湿った感触が這い、悲鳴が漏れそうになる。
「ひっ!」
オリフタンの手が寝衣のリボンに触れ、ためらいなくほどかれた。
「ま、待って……」
背を向けても引き戻される。つかむだけの荒い手つき。優しさは欠片もない。
「ねぇ……もう少しだけ優しく……」
懇願は届かない。
掴まれた両手を頭上に押さえつけられ、息がうまくできない。
太腿に伸びる手。
「いやっ!!」
痛んだのは身体か心か……。
頭の内側で何かが砕けた。
『無理やりって、どうかしてるよね』
『よがってると勘違いするのよ、ああいう男』
『夫婦でも、嫌がる相手にしていいわけないから』
懐かしい声が、鮮明によみがえる。
そして、彼女たちが最後に言った言葉――
『ねぇ、愛花、モラハラ夫なんて離婚しちゃいなよ』
そうだ。私の名前は――。
アリアンディの身体の奥底で眠っていた前世の記憶が、すべてつながった。
――思い出した。
「やめてっ!」
胸の奥から湧き上がる力で、オリフタンを突き飛ばした。
「私の身体は、私のものよ!」
「な、なにをする!」
「痛いって言ってるじゃない……!」
オリフタンは呆気にとられた様子で、私を見ていた。
「女の喜ばせ方も知らないわけ?まったく――」
そんな彼には構わず、私は腹の底から声を出す。
「この、ヘタクソ!」




