エピローグ
ティッシュを抜き取り綺麗に折りたたむと、俺は静かに鼻をかんだ。
ゴミ箱にティッシュを捨て、顔を上げると、窓から射し込む朝陽の眩しさに目が眩んだ。
夜勤明けであることに加え、泣き腫らした目にこの朝陽の強い光はなかなかに堪える。
俺がゾンビの類だったら完全に消し飛んでいるところだ。
じわぁ……と視界が赤白く染まる中俺はぼんやりとそんな益体もないことを考えていた。
あの後、溢れ出る涙を止める術はなく、ひたすらに泣き続け、今しがたようやく泣き止み、徐々に落ち着いてきたところだ。
おかげで目は大分晴れ、鼻も真っ赤になっている。
今日が公休日で本当に良かった。こんな顔で人前に出ることは流石にはばかられる。
涙と鼻水を拭くのに使ったティッシュは膨大で、ゴミ箱の中に山をつくっている。
一人暮らしの成人を過ぎた男が朝方から何を大泣きしているのだ、と思うところもあるが、不思議と気分は落ち込んではいない。むしろどこか清々しさすら感じている。
目を逸らしていたものとようやく向き合うことが出来、自らの内に溜まりに溜まっていたものを吐き出せたからかもしれない。
ただ、それでもやはりすべての苦さはなくならないが。
胸には痛みが残り、今もなおじくじくと疼いている。
時間とともに消えていくものなのか、新しい恋でも始めれば忘れられるものなのか、それとも決して消えずに俺自身の中に残り続けるものなのか、それは今の俺には分からない。
少なくとも今の俺にはこの痛みが消えるところなど想像出来ないのだが。
ああ……また俺の嫌いな不透明、不鮮明、不確定だ。
けれど、たとえこの痛みがずっと残り続けるものなのだとしても、残ったものは何も悪いものばかりではない。
彼女と過ごした日々、時間、そこにあった想いも確かなものとして俺の中に残り、息づいている。
そう、悪いことばかりではないのだ。
人によってはこんな過去のことに思いを馳せる俺のことを未練がましいとか思うのかもしれない。
過去のことなど忘れ、切り替え、次のことを、先の新しいことを考えろと言うかもしれない。
それは、無理だ。
俺には出来ない。
過ぎ去りしあの日々は俺にとっては本当に楽しいもので、幸せなもので、掛け替えのない大切なものなのだ。
すごく透明で、鮮明で、確かなものだ
それは今でも変わらない。
ずっと目を逸らし続けて来た俺だけれど、向き合った今それを強く感じる。
忘れることなどできるはずがない。
たとえこの先新しい大切な人が出来、大切な時を共に歩んでいったとしても、やはりそれは変わらないだろう。
上書きなんてされない。
消えたりなんてしない。
過去、現在、そして未来
大切なものはすべて俺の中に残り続けるのだろう。
痛みも、喜びも全て抱えて俺は生きていく。
と、今の俺は思っている。
時計を見ると間もなく九時。
そろそろゴミの回収が来る頃だ。
俺は立ち上がると大量のティッシュが詰まったゴミ箱を持って台所へ行く。
床に放っておいたゴミ袋を開け、ティッシュを流し込もうとして、ふと思いとどまった。
ゴミ袋の中からクシャクシャに丸められたそれを取り出し広げると手でシワを伸ばした。
デリバリーピザの広告。
金額の高さから普段は絶対に手を出さない高級料理。
思い浮かぶのはやかましい後輩女子。
俺は苦笑をもらすと、その広告を綺麗に折りたたみテーブルへと放った。
気まぐれだ。ただの気まぐれ。
未来へと進んで行く若者に祝福と激励を贈るのもたまには良いじゃないか。
ゴミ袋を持って外へ出ると三月の肌寒さを感じた。まだ上着なしで歩き回るには早いだろう。カーディガンを着込んできてよかった。
西向きで朝陽の当たらない薄暗いアパートの廊下。
歩き出そうとして、ふといつにも増して暗いことに気づく。
見上げると数日前からチカチカと点滅していた蛍光灯が完全に消えていた。とうとう寿命が来たようだ。
蛍光灯の交換含め建物の管理はここの管理人の役目だ。俺の役目ではない。
けれど……まぁ……
蛍光灯の交換を管理人に打診するぐらいはしてもいいかもしれない。ついでに部屋の鍵も修理してもらえないか訊いてみよう。
それぐらいの行動なら造作もないことだろう?
アパートから外に出ると肌を刺す寒気はより厳しいものとなった。
けれど、それと同時に朝陽の温かさも感じる。
寒さは残っているがそれでも先月、先々月ほどではない。
確かに温かくなっているのだ。
冬が終わる
そして春が来る
ゴミ捨て場に着くとゴミ袋の山が目に入った。週明けということもあり、やはりすごいゴミの量だ。
俺は掛かっているネットを持ち上げ、その山の中にゴミ袋を積むと、元あったようにネットをしっかりと掛け直した。
やっと捨てられた。
俺はホッと一息ついた。
ゴミと一緒に他の何かも捨てられたような気分で、少しだけ身が軽くなったように感じる。
余計なものを絞り出し、捨て去った今俺の中には俺にとって必要なものだけがある。
そんな気がする。
俺はその場を後にし、そのまま自宅へ――――――は戻らず、逆の方角、ゴミ捨て場の更に先へと歩を進める。
そこには赤く塗られたポストがポツンと一つ佇んでいる。
その前に立つと、俺はポケットから1枚のハガキを取り出した。
それは先日俺のもとに届いたもので、自分の過去と向き合わざるを得ないもの。そして一度は逃げてしまおうと思ったもの。
参加、不参加を問う欄には二つの印。
片方、不参加の文字には大きく丸が付けられ、そしてその上からバッテンがつけられている。
そしてもう片方、参加の文字には――――――
俺は一つ大きく深呼吸し覚悟を決めると、ポストの口にハガキを当て、前に一歩踏み出すようにその奥、その先へと勢いよく押し込んだ。




