19話 君のその笑顔をもう一度
あの日部屋から出て行く彼女を俺はついに追うことは出来なかった。
頭では、すぐに飛び出していって彼女を追いかけ、腕を掴み、引き寄せ、その冷えた身体を抱きしめてやるべきだと、そうするべきだと、結論が出ているにもかかわらず、俺は床に座り込んだまま動くことが出来なかった。
床に縫い付けられたようだとか、身体に錘がついたようだとかそういう感じではなく、まるで回路が焼き切れてしまい電池を入れても動かない玩具のようだった。身体と心がバラバラに切り離されてしまったようで連動せず、全く動くことが出来なかった。
今思い返してみても我ながら情けない。行動しないにも限度があるだろう。
これでは彼女に愛想つかされても文句なんて言えない。
その後俺と彼女は関わりを持たなくなった。
会ってもロクに話すこともなく、連絡も一切取らなくなった。
俺から話しかければ、そしてちゃんと話し合えば、関係修復の糸口くらいにはなったのかもしれないが、あの時部屋から出て行く彼女追いかけなかったことに対しての罪悪感が俺にそれを躊躇わせた。
結局何とかしなければと思うだけで彼女とまともに話すことは出来ず、気づいたときには手遅れになっていた。
俺はまた行動することが出来なかった。
その出来事は俺の心にシコリとして残ることになる。
そしてそれは未だに消えずに残っている。
普段は意識せずに済んでいるが、時々まるで思い出したかのように意識の上へと浮上してくる。その度に俺はそれを無理やり心の奥底に深く深く沈めるのだ。
その繰り返しだ。
ずっと
ずっと
このことに限らず俺は行動しない。動けない。踏み出さない。
先へ進みたいと願いながらも、直前で足踏みする。
俺ははっきりと分からないものが怖い。
不透明、不鮮明、不確定。
靄がかかった中から、もしくは闇の中から何が飛び出してくるか分からない。それが怖い。
そんな未知が怖い。
怖いから俺は動かない。
見晴らしのいい、丁度いい、ほどほどのところで留まり、それを維持しようとする。
昔からずっとそうだ。
きっと俺は変化というものが嫌いなのだと思う。
いや……少し違うかもしれない。変わること自体は別に良いのだろう。
俺が嫌なのは変わったことによって生じるかもしれない自分の世界の崩壊だ。
自分の周りの環境、人間関係、そして俺自身の心、それらが壊れるかもしれないと思うとどうしようもなく怖くなる。怖くて怖くて動けなくなる。
不透明で不鮮明で不確定なものの中にはそれが潜んでいる。無防備に飛び込もうものなら完膚なきまでに叩きのめされる。それこそもう立ち上がれないほどに。そんなことばかりを想像してしまう。
考え過ぎとだと言われるかもしれないし、悲観的だと思われるかもしれない。俺自身その自覚はあるのだ。けれどどうしようもない。
この強迫観念じみたものはそう簡単には振り払えないのだ。考えないようにしようと思っても上手くはいかず、むしろ想像力は余計な方向により豊かになっていく。
先行きは不鮮明なのに要らない想像だけは無駄に鮮明なのはどうしたことだろうか。
そんな俺だから未知に遭遇した時立ち止まるのだ。
そして後ずさり、程よいところで留まろうとする。
現状維持に努めようとする。
けれど、それも結局は上手くいかない。現状維持などまったく出来てはいない。
事実彼女とのことを想い、現状維持をしようとした結果、彼女との関係は終わった。
壊れることを避けるための行動で壊してしまったのでは本当に本末転倒というものだ。
俺は何を守りたかったのか……?
俺は何を守れたのか……?
何も守れてはいないではないか……!
俺は失ってしまった。他でもない自分自身の手によって。
それは俺の手の届かないところへ、そしてもう二度と戻らない。
いや、違う。
そもそも俺はその大切なものを掴んでなどいなかったのかもしれない。
傍らにあるからと安心して、本当に大事なところでそれに手を伸ばそうとはしなかったのだ。
どうして何もせずしてそれがずっと傍らに、俺の隣にいてくれるなどと思ってしまったのか。
結局俺は彼女が消えてしまう最後の最後まで手を伸ばすことは出来なかった。
まったく愚かしい。
『一緒にいたいから』
脳裏に先程のベランダでの彼女の言葉が響く。
『私は待っててもダメな人だから』
『それでも見てもらいたいなら、近づきたいなら、本当に一緒にいたいのなら、もうこっちから近づくしかないじゃないですか。たとえ怖くてもこっちから行って『私を見て!』って言うしかないじゃないですか』
彼女の言葉を聞いたときなんて強い子だろうと思った。
不安でも、怖くても、たとえ見つめることすらも出来なくなってしまうかもしれなくても、欲しいもののために必死に手を伸ばそうとするその姿が、何よりも強いものに感じた。
震える声、握りしめた小さな手、その真剣な表情
真剣な表情。
ああ
そうか
彼女の表情になぜ心がざわついたのかが今分かった。
彼女の表情はもう二度と手を伸ばすことの叶わないあの娘と同じ表情だ。
俺を見つめる彼女
俺に口づけを迫る彼女
俺に一歩踏み込んで来ようとする彼女
彼女が俺に深く踏み込もうとする時に浮かべる表情はいつだって真剣なものだった。
不安だったかもしれない。
怖かったかもしれない。
今ある関係が壊れてしまうのではないか身がすくむ思いだったかもしれない。
それでも彼女は真剣に、真摯に、一途に俺のことを想っていてくれていたんだ。
必死に手を伸ばそうとしてくれていたんだ。
その手を、俺は
ふと気がつくと目の前が霞んでいた。
頬に手を伸ばすと指先に水気を感じた。
「はは……」
思わず声が漏れる。
涙を流したのなんて一体いつぶりだろうか?
彼女と終った時でさえもついに涙は流れなかったというのに。
もう、当時ほど悲しくなんてないはずなのに。
なのに
なぜか、涙は止まらない。
次から次へと溢れ出て、はらはらと俺の頬を伝って流れ落ちていく。
せき止められていたんだ。
考えないように、見ないようにと目を逸らし、自分の中でその記憶を奥底に沈めていた。決して流れ出さないように、溢れ出さないように蓋をし、壁を築き、記憶と感情をせき止めていた。けれど、それは決して消えることなく、長い年月変わらずそこにあり続けた。
そして今、もう抑えが利かなくなってしまった。
彼女の想いを知ったから。
ようやく彼女の想いと痛みを理解出来た気がしたから。
せき止めていたものは決壊し、想いが涙となって溢れ出した。
ああ
俺は
本当に
彼女のことが好きだったんだ
そんな当たり前のことを今更自覚する俺は本当に愚か者だ。
遅すぎるだろう?本当に……
脳裏に彼女の顔が思い浮かぶ。
その表情は、笑顔だ。
俺の心の奥深くに刻み込まれた、俺がよく知っている見慣れた笑顔。
やわらかくて、温かな、陽だまりのようなあの笑顔
もし許されるなら
どうか
君のその笑顔をもう一度
声を上げることはない。
取り乱し、暴れ回ることもない。
ただ、ただ静かに、俺は彼女との時間と想いの籠った涙を流し続けた。
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次回の更新は11/5の予定です。
いよいよ最終回です。
最後までお付き合いください。




