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18話 冷たい部屋


窓をゆっくりと閉め、一息つく。


暖房によって暖められた部屋に冷えた身体が弛緩していくのが分かった。


俺は結局吸うことのなかった煙草の箱とライターをテーブルに放ると、床に座り込みベッドに寄り掛かった。そのまま天を仰ぐ。


天井が少し黄ばんで見える。煙草のヤニだろう。


それを見ながら昔は煙草を部屋の中で吸っていたことを今更ながらに思い出した。


そう、あの頃はそうだった。




学校の支度があるからと部屋に戻る彼女に別れを告げ、当初吸うはずだった煙草を吸う気も起きず、俺は大人しく部屋へと戻ってきた。


多少の雑念を含みながらも主に頭の中を占めているのは先程の彼女とのやり取り、その言葉だ。


普段あまり口数の多くない娘のため、彼女があそこまで語ったことには正直かなり驚いた。ただ、あれが彼女の本心、素直な気持ちであることが分かった。


もちろん彼女の心の中すべてを理解出来たなんて思っていないし、そんなことは不可能だろう。


けれど彼女の言葉が、想いが本物であるということだけは信じられ、信じたいと思えた。


最後彼女に言葉を送ろうとしたとき、俺は「頑張れ」と言いかけ、やめた。


自分より頑張っている人間に対して「頑張れ」などと言えるはずがない。


そんなことを言う資格は俺にはないのだ。



なぜなら俺は、彼女のように自らの意志で踏み出そうとすることはとうとう出来なかったのだから。






※ ※ ※ ※ ※





その日はとても寒い日だった。



朝から降り出した雨は昼過ぎから雪へと変わった。


テレビが流す天気予報によれば夜中まで降り続けるとのことだが、幸い学校は授業がなかったため俺自身はその影響を受けずに済みそうだった。


そんな中彼女が突然鍋をやろうと言い出した。



雪が降っているのにわざわざ外に出なくてもと言ったのだが、雪が降っているからこそだと言って聞かず、結局鍋パーティーが開催される運びとなった。


場所は俺の部屋。



二人そろってスーパーで材料を買い込み部屋へと移動すると、さっそく手分けして鍋を作り始めた。

とはいえほとんど彼女主導のものではあったが。


二人とも一人暮らしではあったが、俺は食事はインスタントやカップで済ませていたため料理はほとんど出来なかった。対して彼女は中学生の頃から台所に立っていたとかで料理は大の得意分野であった。


そのため高校生の時分、何度も弁当を作ってきてもらっていたほどだ。


味は俺が保証する―――などと言ったらおこがましいだろうか。


でもそれぐらい彼女の料理の腕は確かだった。


よって今回も彼女にほとんど頼ってしまった。


俺がやったことと言えば道具や食器の用意、あとは食材を洗ったことぐらいである。


本当に申し訳ないと思っている。


ただ、彼女自身「座って待ってて」と言って、鼻唄交じりに調理していたため不服には思っていないようではあったが。むしろ楽しそうですらあった。


そんなかたちで鍋が出来上がった。


ぐつぐつと煮え湯気を上げる鍋を見ていると嫌でも食欲がわいてくる。


外の雪はさらに勢いを増し積もり始めた雪によって街はうっすらと白く染まっている。交通機関は辛うじて機能しているようだが、いつ駄目になるか分からない。これからますます吹雪くらしい。

気温はますます下がり確かに絶好の鍋日和と言えるかもしれない。鍋を強行した彼女に感謝せねばなるまい。


テーブルの中央に鍋を置き、二人して炬燵に向かい合わせに入ると、お互い手を合わせ



「「いただきます」」



鍋パーティーを始めた。


食事風景の詳細は割愛するが、あえて一言で表すなら「温かかった」と言うのが一番しっくりくるだろう。


二人で入った炬燵、湯気を上げる鍋。それをつつきながらお酒を飲み、話に花を咲かせる二人。笑い声。二人でいる部屋、空間。


すべてが温かかった。


その温かな空間はこの雪の降る寒い世界とはまるで別世界に感じた。大袈裟かもしれないが確かにそう感じたのだ。



そんな別世界の中で温かでやさしい時間はゆっくりと過ぎていった。





鍋が終わり、シメの雑炊も食べ終わり、少しいい酒の入ったグラスを傾けていた。


俺も彼女もなかなかの酒好きで、それなりに強いため飲む際は結構飲む。


今日もすでに相当量飲んでおり、かといって悪酔いするようなことはなく、お互い楽しく飲んでいた。


自分の限界ラインはある程度把握しており、自ら、もしくは互いにセーブし合いそのラインを超えるほど飲むことはない。


それは今回も同様で、目の前の彼女はとても美味しそうに透明の液体を口に含む。


俺も同様で、滅多に飲めないいい酒を味わっていたのだが、しかしその一方で今一つ酒に集中しきれていないところがあった。


ベッド脇に置かれている時計にチラッと視線をやる。


日付はもうとっくに変わっており、そろそろ終電もなくなるという時刻だった。


これで一体何度目だろうか?


日付が変わったあたりからもう何度確認したか分からない。


いい酒や彼女の話を楽しみたいのにどうしても集中できない。どうしても時間が気になってしまう。




いや




本当に気になっていることは……




時計から視線を前に戻すと、彼女と目が合った。



彼女はこちらを真っ直ぐにジッと見つめてくる。


その視線に心臓がドクリと大きく跳ねた。


先程までと彼女の雰囲気、空気が変わっていることに気づく。


自分の鼓動が徐々に大きくなっていくのを感じる。


まるで捕らわれてしまったかのように彼女の目から目を外すことが出来ない。


しばしお互い一言も発することなく固まっていたが、やがて俺たちは二人どちらからともなく近づいた。


視線を決して逸らさず至近距離からお互い無言で見つめ合う。


彼女の頬は赤く染まっており、目は潤み少し揺れている。その表情も身体にも少々のこわばりが見える。


普段あまり見ない彼女の姿。


そしてそれは恐らく自分自身も同様なのだろう。

小刻みに震えている身体、そしてこの顔の熱さがそれを物語っており、誤魔化しきれない。


お互いに視線を絡ませ、無言で向かい合うこと少し、俺たちの顔が徐々に近づいていく。


視界を目一杯に埋め尽くしていく彼女の顔。


彼女の目がそっと閉じられる。


微かにシャンプーの香りがした。


次の瞬間



唇にやわらかな感触がした。



彼女の身体がピクッと震える。


周囲の音は一切耳に入らず、ものは目に入らず、ただただ自身の鼓動の速さと、閉じられた彼女の眼もとから伸びる睫毛の長さと、唇の感触だけを感じる。


決して深くない、ほんの触れ合わせるだけのもの。


けれどそれでも胸の鼓動はより高鳴り、速まり、全身に震えが走る。


触れ合いは短く、唇を離した。


微かに酒の香りが残った。



これが初めてのキスという訳でもないのに、もう何度もしているはずなのに、この瞬間には一向に慣れない。


顔だけでなく全身が熱い。自分の行いとこの空気にどうしようもない恥ずかしさを感じ落ち着かない。


そもそも慣れるものなのだろうか?



慣れる?


これに?


冗談だろう?



恥ずかしさとそれに伴う居心地の悪さから彼女から身体を離そうとして、そして気づく。


彼女が未だに俺のことをジッと見つめてきていることに。


その表情はいつになく真剣なもので、こちらを捕らえて離さないように、逃がさないようにという意志が感じられる。


そしてその意志のままに俺は再び動けなくなってしまった。


カーテンの隙間から見える外では雪の勢いがますます強くなっているようで、ベランダの柵に雪が当たるチリチリという音がやたら耳につく。視界の端に見える時計の針は丁度終電の出る時刻をさしていた。



「終電なくなっちゃったぞ?」


「うん、知ってる」


「帰れないぞ?」


「そうだね」



そう彼女は相変わらず俺の方を見ながら言った。


そしてお互い再び無言になる。



シン……………と静まり返る部屋。


サワサワ、チリチリと降る雪、時を刻む時計の針、時折唸る冷蔵庫、普段気にも留めない音がやけに大きく聞こえる。



「あのさ……」



静かな部屋の中に彼女の声がやはり静かに響く。


ただそれとは裏腹にその声と表情は意を決したように感じた。






「今日さ……泊っていっても……良い?」







彼女の意図が、その言葉の意味が分からない訳ではない。ここまできて、そうまでさせて分からないほど俺は鈍感ではない。


これまで彼女を部屋に泊めたことは一度もない。


部屋に遊びに来たことは何度もあるが、必ず終電までには帰路についていた。


そういう気がなかったかと言えば嘘になる。俺にだってそういった欲は少なからずあるのだ。


けれどそれを彼女に直接言うことは躊躇われた。


俺にその意志があっても彼女はそうでもないかもしれないと思ったからだ。


こっちだけ勝手に盛り上がって、勘違いして迫って、それでもし拒絶されたら?嫌がられたら?

そう思うとどうしても踏み出すことが出来なかった。


だから俺の方からそれを言い出したことはなかったし、加えて彼女自身もそんな意志は見せなかった。



見せなかった。



見せなかったと、思う。



けれど今の彼女は……



これまで俺にはそんな経験などない。


けれど、この空気、そして何よりも彼女の表情からこれが俺の勘違いではないことが分かる。


もしかしたら今日の鍋も今この瞬間のための口実だったのかもしれない。



「それは……」



これは俺の勘違いなどではない。

俺と彼女はお互い同じ望みを持っている。

今俺が彼女を求めたところで、彼女に拒絶されることはないだろう。それどころか喜んで受け入れてもらえるかもしれない。

何を躊躇うことがあろうか?

踏み出すのであれば今この瞬間だ。

俺は、彼女に近づきたい



「…………」



にもかかわらず何か言おうにも言葉が続かない。


何度も想像した。


期待した。


待ち望んでいた。


俺自身、心はそれを望んでいる。


なのに、なぜか首を縦に振ることが出来ない。



俺が言葉に詰まって返事が出来ないでいると、彼女が静かに寄って来て俺の胸にそっと手を当てた。そしてシャツをキュッと握り、下から上目づかいで見上げてくる。



「………だめ?」



心臓が……いや、全身がドクンと跳ね、鋭い痛みを感じた。


俺だって男なのだ。そういったことに対する人並みの欲は当然ある。

恋人としてその先の関係を求めてずっと一緒にいたいというのであればいずれは通る道。遅かれ早かれ経験することだ。


それなら今、彼女から求めてくれている今こそ。


俺は――――――



お互い口を閉ざし、無言の時が部屋を支配する。


外、雪の世界で遠く微かに終電の警笛が鳴り響いているのが聞こえる。まるでこの世に別れを告げるかのような悲しい響き。


それが雪の中に溶けて消え、再び静まり返った時



「ごめん……」



俺は小さくこもった声でそう呟いた。





再び静まり返る部屋。



サラサラ、さわさわ、チリチリと感情なく降る雪の音。


そして目の前の彼女の顔にも何の感情も見られなかった。


悲しむと思った。もしくは怒ると思った。


いずれにせよ何かしらの感情を彼女はぶつけてくるだろうと、俺は思っていた。普段の彼女はそういう娘だ。


彼女は真剣だった。真剣に俺に踏み込んで来たのだ。


それを俺は拒絶してしまった。


だから彼女がどういった反応を示そうと、俺にどんな感情をぶつけてこようと、全て受け止めるつもりだった。それすらも拒絶する権利は今の俺には僅かだってない。



そうであるにもかかわらず



彼女は何の感情も示さない。


ただただその感情のない瞳で俺のことをジッと見つめ返してくるのみ。


ない感情を受け止めることなんて出来ない。


俺に出来るのはせめてもと、その何もない空っぽの瞳から目を逸らさないようにすることだけ。そこに何かないかと探すことだけ。



そうして見つめ合っていると、彼女が



「ふふ………」



不意に笑みを漏らした。


けれどその笑みは笑みには感じられない。あるのは笑みに似た何か。


そしてそこに見られる感情は俺には読み解けない。



「そう言うと思っていたよ……」



そう呟くと彼女は俺から身体を離し肩の力を抜いた。


そこから感じられるのは「全てわかっているよ」というどうしようもないほどの諦めだ。



「ねえ……ヒロキくん」



俯いていた彼女は再び顔を上げ俺を見た。



「私のこと……好き?」



嘘なんてつく理由はない。俺は彼女のことが間違いなく好きだ。



「うん。もちろんだよ」



だから本心のままに答える。


けれど彼女の表情は未だ晴れない。



「じゃあさ……一緒にいたいって思っている?」



そして新たに訊ねてくる。



「もちろんそう思っているよ」


「本当に?」


「ああ」


「いつまで」


「ずっと」


「そう……」



そう言って彼女は口を噤み俯いた。しかしすぐ顔を上げるとこちらを向いた。



「それにしては全然、ヒロキ君の方から来てくれないね……」



その彼女の言葉に全身がビクッと震える。


心に引っかかっていたこと。それに気づきながらも見ないようにしようと目を逸らしていたところに触れられた気がした。



「デートに誘うのも、こうしてお互いの家に行くのも……キスするのも、全部私から。今みたいに迫るのも…………やっぱり私から」


これまであったことを一つ一つ思い出すように言葉を紡ぐ彼女。その声、言葉を聞いていると俺の頭にもこれまで彼女と過ごした時間、その中での出来事が思い浮かんでくる。


そして、すべて彼女の言う通りだということを知る。


本当に何をするにも彼女からだ。


言う通りなのだから反論のしようもない。ただただ黙って彼女の言葉を聞くだけ。



「ヒロキ君とは付き合い長いし、ずっと見て来た。高校の頃からだよ。休み時間やお昼ご飯を食べるとき、部活動、二人での登下校、勉強会、受験。大学に入ってからはそれまでよりも更に、いつも一緒にいるっていうくらいにずっとヒロキ君のこと見て来た。だからヒロキ君のことは少しは、他の人よりはずっと知っている、と思ってる」


これまで彼女と過ごしてきた時間が、記憶が、その一つ一つの場面が流れとなって、脳裏に過る。二人でどれだけの時間を重ねて来たのかを改めて知る。

そして彼女がどれだけ僕の傍で、他の誰よりも近くで僕のことを見て来たのかを知る。



「ハッキリしていないことが嫌いで、いつも不安に思っていて、すごく慎重に生きようとしていた。それで前に進めなくて立ち止まちゃってたこともあったよね」



すぐにパッと思い出せるものは進路選択のことだ。

先行きが不透明で、不確定過ぎて、怖くて、前に進めなくなってしまっていた。あの時も彼女に手を引いてもらうことでようやく前へ進めたのだった。



「あの時ね、思ったの。立ち止まってしまっているヒロキ君をそこにそのまま置いて行ってしまうぐらいなら私が引っ張って行ってあげようって。たくさん大変な思いもするかもしれないけど、諦めないで何度も何度も。いつかヒロキ君が自分で歩けるようになった時、「ほら、取り敢えずでもどうにかなったでしょ!」って言ってあげるんだって。そしていつか、いつの日か、ヒロキ君が私に手を伸ばしてくれるまで、私に近づいて来てくれるその瞬間まで、私がヒロキ君に近づいていくんだって、そう、思ってた。」



彼女は僕の目を真っ直ぐに見つめ、捕らえ、射貫く。

彼女の言葉が、そこに込められた感情が僕の心を刺し貫く。



「私はね?別にヒロキ君とそういうエッチな行為に及びたい訳じゃないの。ヒロキ君がしたくないって言うなら、それでもいいんだ。ただ何でもいいから本気で、ヒロキ君とふれ合って、想いを通わせ合って、その心のつながりを感じていたいだけなんだよ。私もずっと一緒にいたいって思うからね…………だから」



彼女の瞳が潤む。



「私、待ったよ?ずっと待っていたよ?今も……待ち続けてるよ?…………けど」



彼女は潤んだ瞳のまま自嘲気味に口元を歪めた。



「ヒロキ君は……私と同じ気持ちなのかな?」


「もちろんだ……!」



思わず食い気味に発した声の大きさに自分自身驚いてしまった。それだけ焦っていたのだろう。この心の在り方を疑われたくはないと。



「そうなの?けれど、そうは見えないよ?」


「誤解だ!俺は君のことを大切に思っている。目立って行動しているように見えないのは大切に思ってのことだ。しっかり考えてこの関係が壊れないように、現状維持させようとしている」



俺の言葉に彼女の肩がピクッと動いた。



「現状維持……か」



そして先程と同様「わかっているよ」という表情をする。


その彼女の様子に俺の心は更にざわついていく。


何だ?何なのだ?いったい何がいけないというのだ?


俺が内心動揺していると、彼女はすっくと立ち上がった。


そして自分の鞄とコートを掴むと、そのまま玄関へと向かっていく。



「お、おい。どこ行くんだよ!?」


「帰る」


「帰るって……もう終電ないぞ?それに外は雪が……」


「駅の近くまで行けばファミレスもネットカフェもあるでしょ。一晩くらいどうにかなるよ。いざとなったらビジネスホテルだってあるし」


「いや、そんなところ泊らなくても……ここに泊っていけばいいだろ?」


「こんな空気の中で?」


「……君が出て行くよりはマシだろ?」


「そうかな……?」



彼女は歪んだ笑みを浮かべると再び玄関に向かう。



「待てって!俺はっ……!」


「ねえ……ヒロキ君」



俺の言葉に被せるように彼女は呟き、こちらに振り返った。


彼女は笑みを浮かべていた。


本当に、本当にゾッとするほどに、悲しい笑顔。



「現状維持を目指しても、現状維持は出来ないんだよ?」



その悲しみはどこから来るものか。


どこへ向かうものか。



「ヒロキ君はいつになったら前へ進めるのかな……」



そう言って彼女はゆっくりとブーツを履くとドアノブに手をかけ、重い扉を開いた。


扉の隙間から凍えるような冷たい風が勢いよく部屋の中に吹き込んでくる。


雪の降る極寒の世界の中において、唯一温かいとすら思っていたこの世界。


すでにボロボロに崩壊しかけていたこの世界の最後の温かさすらも暗く冷たく塗り潰されていく。


それはまるで俺たちの関係、心の温度のようだ。


さっきまであんなにも温かかったのに……。



扉が閉まる重く鈍い音が部屋に、俺の身体に、心に、響き渡った。












ご覧いただきありがとうございます。

何かを感じていただけたら幸いです。


次回の更新は11/4(土)の予定です。

最後までお付き合いください。

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