第20話 普通の朝
組織の中枢施設「エデン」の崩落は、神の怒りのように激しかった。
過負荷に耐えかねた動力炉が、断末魔のような咆哮を上げ、白亜の壁が内側から弾け飛ぶ。
ウルトは、全身を焼くような熱風と降り注ぐ瓦礫の中、
ケーブルに繋がれたままのシエルを強引に引き剥がした。
「……シエル!しっかりしろ!目を開けろ、逃げるぞ!」
抱き上げた彼女の身体は、驚くほど軽かった。
もはや生命を維持するためのエネルギーすら残っていない。
人工筋肉を駆動させる薬液は枯れ果て、陶器のように滑らかだった肌は過負荷の熱で赤く焼け、
関節のあちこちから、オイルが涙のように零れ落ちている。
ウルトは彼女を背負い、崩れ落ちる天井を間一髪で避けながら、爆発の連鎖に追われるように塔を飛び出した。
背後で、かつて二人の運命を弄び、一人の女性の尊厳を奪った地獄が、
巨大な火柱となって天を突き、すべてを灰へと変えていく。
それは凄惨で、けれどどこか浄化の炎のようにも見えた。
辿り着いたのは、旧市街のあの半壊した教会だった。
降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から、淡い血のような朝日が、灰に埋もれた街を静かに照らし始める。
ウルトは、教会の裏手の瓦礫の上に、シエルを静かに座らせた。
彼女の視界は、もはや正常な像を結ばない。
視覚素子は砂嵐に変わり、情報処理能力は一秒ごとに失われていく。
システムの崩壊が、意識を深い忘却の底へと引きずり込もうとしていた。
「……ウルト」
シエルが、震える指先で、彼の袖を掴む。
その瞳に、先ほどまでの冷徹な「No.4」の影はない。
そこにいたのは、自分の終わりを悟り、ただ一人の男に甘えることさえ許されなかった、
あまりにも幼く、純粋な一人の少女だった。
「……ここ、は……」
「教会の裏だ。
お前が言ってた、白い花が咲いてた場所だよ。
……ほら、朝日が見える」
ウルトは隣に腰を下ろし、その細い身体を支えた。
皮膚は急速に熱を失い、冷たくなっていた。
けれど、その指先の震えだけは、確かに生きた人間の、死を恐れる者のものだった。
「……よかった。……最後に、ちゃんと、見える……」
シエルは霞む視界で、朝日に照らされるウルトの顔を必死に記憶に刻もうとした。
自分がサラだったのか、シエルだったのか。
その問いは、もう意味を持たない。
今、自分を抱きしめている男の腕の温もりだけが、彼女にとって唯一の真実だった。
「ねえ、ウルト。……私、シエルになれたかな。
……それとも、サラとして、あなたの隣にいられたかな」
「……ああ」
溢れそうな涙を堪え、彼はその手を強く握った。
「お前はシエルだ。
……そして、俺にとってはサラそのものだった。
お前は誰の代わりでもない。俺が十年間、探し続けてきた答えなんだよ。
……俺の、たった一人の……」
シエルの口元に、微かな、本当に微かな笑みが浮かんだ。
それは、プログラムされた擬似的な表情ではない。彼女の魂が、最期に手繰り寄せた本物の安らぎだった。
「……うれしい。
……私ね、本当は、もっと……たくさん……コーヒー、飲みたかった
次は、砂糖、増やして……ね」
「ああ、約束だ。……次は、お前が美味いって言うまで、何度でも淹れてやる。
……豆だって、もっといいやつを仕入れてくる。……だから、シエル……」
「……ありがとう。……ウルト」
シエルの指から、ふっと力が抜けた。
彼女の瞳に宿っていた微かな光が、朝日に溶けるようにして、ゆっくりと消えていく。
システム停止を告げる冷徹な電子音さえ、そこにはなかった。
ただ、ウルトがくれた青い髪留めが、朝日に照らされ、強く輝いていた。
ウルトは、物言わぬ彼女を、折れそうなほど強く抱きしめた。
灰の街に、沈黙が戻る。
最愛の人の「二度目の死」を看取った男の慟哭を、朝日は無慈悲なほど美しく、黄金の色で包み込んでいた。
それから、数年の月日が流れた。
ホムンクルス技術の違法性が明るみとなり、組織は完全に解体され、
その狂気の記録は旧市街の灰とともに葬られた。
そして、世界は何事もなかったかのように巡り続ける。
再建の進む街の片隅に、小さなカフェがある。
看板もない店で、男は毎朝、一人分多くコーヒーを淹れる。
その味は、今日も少しだけ苦い。
砂糖の分量は、まだうまく定まらない。
カフェ『シエル』。
カウンターの奥には、額縁に入った、薄汚れた、小さな青いガラスが嵌った髪留めが飾られている。
「……まだ、修行が足りないって、怒られそうだな」
誰もいない席を見つめ、独り言をこぼす。
胸に復讐の炎はない。
あるのは、あの灰の街で交わした、叶わなかったけれど永遠に彼を支える――約束の重みだけだ。
柔らかな朝の光。
その中に、ときどき、コーヒーの匂いに目を細めて不満げに笑う、
銀色の髪の少女の幻影が見える気がした。
ウルトは冷えかけたカップを手に取り、静かに前を向いた。
彼女が命を懸けて守ろうとした、この「普通の朝」を、
これからも、一歩ずつ、生きていくために。




