12、一瞬のきらめき
初めて西棟で目を覚ました時から、不思議に思っていたことがあった。
用意されていた部屋は、鉄格子や鎖に目をつぶれば、調度品も日用品も一級品ばかりだった。ドレスだって採寸が済むと、仕立てられたばかりの物が毎日のように届けられた。最初から素材とお針子の手配が済んでいたのだろう。何もかも数日の内にそろえられる代物ではない。
アトランはマレーテのために、改めて新しい調度品を設えると言ったが、結局今ある物を無駄にすることはないと、そのまま使い続けている。あれは本来このラトヴァス侯爵令嬢レイダのためにそろえられた物なのだ。
妻となってくれる女性に不自由な思いをさせる分、せめてもの慰めになるよう最高級の品々でそろえられた部屋。どんな気持ちでアトランがあの部屋を準備させ、花嫁を心待ちにしていたのか。そして、すべてが無駄になったと知ったときの彼の心境を思えば心が痛くなる。
「……残念ですが、承諾いたしかねます」
アトランが首を振れば、令嬢は眉を寄せて小さく唇を噛む。それは、ままならぬことに駄々をこねる直前の子供のような表情だった。しかしレイダは自分に選択肢が少ないことは自覚していたらしい。すぐに憂いの表情に挿げ替える。
「もし大公殿下との婚姻が叶わなければ、私は辺境の修道院に入れられ、囚人のような生涯を過ごすことになります。大公殿下だけが頼りなのです。……どうかお情けを」
「それはお気の毒に思います。ですが――」
アトランはレイダをはっきりと見据え言った。
「私が幸せにしたいと思う相手はあなたではない」
マレーテは驚きに目を見張った。それは慈悲深くどこまでも寛大なアトランとは思えない、完全なる拒絶だった。
「待ってください……そんなことおっしゃらないで。お願い……何でもするから……」
はらはらと涙をこぼしながらレイダは、そっとアトランの片手を取る。
「どうかご慈悲を……」
その手をそっと、広く開いた自身のドレスの胸元へと押し付ける。レイダの意図に気づいたマレーテは、ここまでするのかとぎょっとした。真珠の涙を浮かべ、はかなげに乞う姿は、大抵の男なら心動かされただろう。アトランも絆されてしまうのでは……と、嫌な想像に心臓が高鳴る。
意外にも、アトランに慌てる様子はなかった。おもむろに上着を脱ぎ、それをソファーの背へと投げた。誘惑が通じたと確信したのだろう。レイダがねっとりとした笑みを浮かべ、アトランへと体をすり寄せる。
マレーテは一瞬、失望に駆られそうになったが、レイダの「ひっ」という小さな悲鳴を聞いた。アトランは右の手袋を外していた。黒い毛に覆われた、鍵爪の生えた異形の手――。
太い枝をへし折るような音と共に、アトランの右腕が大きく膨れ上がる。シャツの袖が弾け肥大した右手を、瞬時に真っ黒な毛足が波打つように覆う。それは小さな無数の虫がうごめく姿にも似ていて、見る者に恐怖と嫌悪を抱かせる光景だった。
――過日、マレーテは改めて陽の光の下で、『魔王』と称されるアトランの本性を見せてもらった。最初は『……見ても気持ちいいものじゃない』と渋るだけあって、それは確かに本能的な恐怖を誘う姿だった。
二本の足で地を駆り、木々の枝を飛ぶように跳躍できる体躯は、マレーテの知っているどの獣とも骨格から造りが違っていた。
下肢は蛇のような黒い鱗に覆われていて、足先は偶蹄類のような蹄があった。上半身は獣に似ていてごわついた黒い毛に覆われ、膨れ上がった肩や腕の太さからその力強さも想像がつく。顔は狼に似ていて鼻筋が長いが、獅子のようなたてがみと、大羊のような巻き角があった。
釣り上がった大きな瞳は金色で、瞳孔が小さく剣呑さと冷酷さを感じさせた。しかし、その奥にあるマレーテを気遣う色に気づいた瞬間、一瞬で恐怖はかき消えた。どんな恐ろしい姿をしていても、間違いなく彼は優しく少し臆病なアトランなのだ。
「ひっ……いやあああー!!」
絹を裂くような悲鳴がほとばしり、足をもつれされたレイダが床に倒れ込んだ。
アトランの右腕全体が完全に異形のそれへと変化し、肩から首にかけてのぞく肌も毛に覆われていた。完全に顕現した姿はマレーテも見たが、体の一部だけを変化させることもできるのだと初めて知った。
それは完全体の彼を前にしたときとは、また違う感情を催す姿だった。生きながら内側から寄生虫に食まれる、蝶の幼虫を見た時の気分だ。アトランが秀麗な顔立ちをしているだけに、人間の姿を半ば保ったまま異形に侵食された姿は、生き物として本能的な恐怖を誘った。
ゴンと、鈍い音と共にレイダが白目をむいて倒れていた。さすがに恐怖のあまり、あられもない姿で失神した女性を嘲笑う気にはなれなかったが、同情ができるほどマレーテはお人好しでもなかった。
アトランはソファにかけてあった上着を手に取り、律儀にもレイダの乱れたスカートの裾にかけてやった。そして使用人を呼ぶためのベルを鳴らすと、自身は庭へと繋がる扉へ向かい出て行く。
マレーテもまたドアを開けて室内へと滑り込む。気を失う令嬢を横目で確認し、その脇を通り過ぎる。すでに腰をぬかした体勢から倒れたので、強く頭を打ってはいないはずだ。しばらく放っておいても大丈夫だろう。
開け放たれたままの扉から外に出ると、アトランは小さな池の前で、水しぶきを上げる噴水を、何をするでもなく眺めていた。
「……シャツをダメにしてと使用人たちに怒られるかな?」
最初からマレーテが側にいたかのように、アトランは話しかけてきた。妻がメイド姿であることに軽く眉を上げたが、特に何も言わなかった。
彼は異形の本性を持つせいか、視覚も聴覚も通常の人間より遥かに優れている。もしかするとマレーテが部屋の外で聞き耳を立てていたことにすら、とっくに気づいていたのかもしれない。
マレーテは黙ってアトランの元へ近づいた。そして異形の腕を抱くように身を預ける。彼の毛皮は、表面こそ無数の針を束ねたようにごわついているが、指で中をかき分けるとフカフカと細く柔い下毛が密生していることに、最近気がついた。
子供の頃に母から贈られた、柔らかく暖かなウサギの襟巻の感触を思い出す。しっとりと柔らかく伝わる温かさは、まどろみを誘うように心地いい。
ムニムニと無心で指を動かし、その感触に酔いしれていると、耐え切れなくなったようにアトランが身をよじった。
「マレーテっ……くすぐったいよ!」
声を立てて笑う姿は威厳ある大公とも、異形の呪いを背負った悲劇の主人公とも違う、街中にいるようなごく普通の青年でしかなかった。
マレーテはフン、と鼻を鳴らす。
(……バカな女)
あの娘は何度もその機会がありながら、この人の内側がこんなにも温かいことを、ついに気づくことはなかったのだ。
背後がふいに騒がしくなる。呼び出されたメイドたちが、室内の惨状に大騒ぎしながらレイダを介抱していた。
「……ちょっと意外だったわ」
「うん?」
「誘惑されるとは思わなかったけど、あそこまではっきり拒絶するとも思ってなかったから……。あんな失礼な物言いをされたら当然だけど」
マレーテの言葉に、アトランは軽く首を傾げてから答える。
「別に仕返しというわけではないかな。自分の目で現実を理解してもらう方が早いだろう。確かにあの方の行く末を思えば気の毒には思うよ。でも彼女の人生は私の手に余る」
「それでも里に匿ってあげるくらいのことはするかと思ってた。……私みたいに」
「それはないよ。あの方を同列に扱うことは、私の一番大切な人を蔑ろにすることになるから」
微笑みかけられ、思わずマレーテの頬が熱くなる。
「あなたって実は結構……」
「なんだい?」
「図太いわよね」
マレーテの言い分に、一瞬きょとんとしたアトランは弾かれたように笑った。
「そうかもしれない」
噴水の水しぶきが一際高く上がった。
舞い落ちる雫が午後の日差しの中で、ダイヤモンドを散りばめたようにきらめいている。それは舞踏会を彩るシャンデリアのように、あるいは聖夜祭の一晩中絶えぬ灯りのように、不思議な高揚感を抱かせた。
しばらく声を失ったあと、何てことのない日常の光景に感慨深く見入っていたことが少し気恥ずかしくなる。思わずアトランを仰ぎ見れば、同じことを考えていたらしく、目が合った瞬間二人同時に吹き出した。
ずっとこんな時間が続けばいいのにと思った。
そして心のどこかで、そうならないことを予感していたのだろう。だからこそ、平凡な日常が美しく思えたのだと気づいたのは、もうしばらく後のことだった。




