13、王太后の署名
――アトランと結婚してから四か月ほどが経った。
入浴後のほてった肌を撫でる夜風の心地よさに、マレーテは両腕を大きく広げる。
数日ぶりに見た外は夜の景色で、鬱蒼と茂る森はどこまでも続く漆黒の巨大な塊にしか見えない。それでも頭上を見上げれば、今に零れ落ちそうな星の群れに溜息が零れた。不気味さや恐怖は感じなかった。
バルコニーの手すりにしがみつくように、マレーテが空を見上げていると、後ろから声がかかった。
「マレーテ、そろそろ部屋へ戻らないかい?」
振り返ると、ショールを片腕に掛けたアトランが立っていた。いまだにかすかな不安を帯びる声にマレーテは眉尻を下げた。軽く微笑み、すんなりとバルコニーから離れる。外の空気が吸いたくなっただけで、外界が恋しくなったわけでないことを示すように。
あっさりと自分の元にやってきたマレーテに、アトランはあからさまにほっとしたように息をつくと、手にしていたショールを肩にかけてくれた。
アトランに誘われて室内に戻ったマレーテは、背の高い彼を仰ぎ見るように小首を傾げる。
「ねえ、今日はもう寝てしまうの?」
「えっ」
一瞬息を呑んだアトランが気まずそうに視線を逸らす。その耳がほんのりと赤い。他意はなかったのだが、その反応にマレーテは密かに、にやつきそうになる唇を噛み締める。
(もう少しおしゃべりがしたかっただけなんだけど……。でも、この人はこういうところが可愛いのよね)
『あなたが私を心から夫として受け入れてくれるまで待ちます』
彼はいわゆる初夜の寝室ではっきりとそう告げた。アトランはその点についてマレーテに無理を強いることはなかった。
そもそも自分たちの関係は利害の一致による契約結婚だ。寝室での役割も義務の内と割り切るつもりだった。実際にアトランにそう告げると、彼は真っ赤な顔で首を振った。真面目ゆえに、アトランはなかなか頑固だった。
『……それに正直を言えば、私もまだこの手であなたに触れるのが怖いのです』
悲しそうに、そう言われてしまえばマレーテも食い下がれなかった。
さすがに新婚早々寝室が別々では、使用人たちの手前、彼の立場を損ねかねない。マレーテとしても、義務も果たさず囲われているだけというのは、心苦しかった。そこで歩み寄りの結果、夜は同じ寝室で寝ることだけは了承させた。
最初はベッドの端で長身を縮こまらせ、緊張せいで眠りに付けないアトランが気の毒ではあったが、彼のためでもあるのでマレーテも譲らなかった。
当然、男性と同衾した経験などないマレーテにとっても慣れぬことではあったが、その緊張感を少しでも感じ取れば、アトランは有無を言わせず寝室から出て行ってしまうだろう。
マレーテはあえて気さくに振るまった。その甲斐あってか、今では二人でとりとめのないおしゃべりをしながら、いつの間にか眠りにつくのが日課だ。誰かと体温を分かち合い、眠り落ちることが心地よいとは、マレーテにとっても新鮮な発見だった。
ここではふと夜中に目が覚めた時、寒さと明日への不安に身を震わせることはない。穏やかな心音に、泣きたくなるような安心感を覚えていることなど、アトランは気づいていないだろう。
複雑な立場に生まれた以上、いずれ適当な家に駒として嫁がされることは覚悟していた。物語のように、甘やかな恋心を育んでいけるなどとは思っていなかった。それがアトランとならば、と夢見たくなってしまう。
「――マレーテ」
ぼんやりと考えていたマレーテは名を呼ばれ、はっと顔を上げた。
「実は知らせておかなければいけないことがあるんだ」
「なあに?」
アトランがサイドテーブルの上にあった、美しい金の装飾がほどこされた封筒を手に取った。
「ユハシュから招待状が届いた」
「……そう」
ユハシュ宮廷が国王の崩御を正式に発表したのは、マレーテとアトランが密かに婚姻を交わした日から少し後のことだ。さすがに毒殺と公表するわけにはいかなかったのだろう、『急病』というのがその理由だった。そうなれば招待状の内容も想像がつく。
「では、シトレお姉様が戴冠なさるのね」
「戴冠式は十日後だそうだ」
シトレ王女は今年二十五歳。毒殺事件で亡くなった先王ライエスとシトレは同母の姉弟だ。ただし溺愛されて育ったライエスとは違い、シトレは実母である王太后と折り合いが悪かった。そのため二十歳の時に王宮を追い出されるように、当時すでに五十路近かったトルドー公爵という人物の後妻として嫁がされている。
幸い夫婦仲は良好のようで、子供にも恵まれている。ライエスに子供はいないので、王姉であり継承権第一位のシトレが玉座につくのは順当だ。
「お姉様なら、きっと良い女王になられるわ」
それは心の底からの素直な想いだった。あの優しく淑やかな人と過ごした時間はわずかだったが、子供だったマレーテにも良くしてくれた。
そして母や弟とは冷え切った仲だったシトレならば、毒殺犯の疑いがかかった妹を本気で捜索することはないだろうという目論見もあった。
「私としても、恩師であるトルドー公爵が王配となられるのは喜ばしいよ」
トルドー公爵は法学者であり、かつてはユハシュ王立学術院で教鞭を取っていた。アトランも十代半ばの頃にユハシュで教えを受けていたらしい。
「……ただ一点気がかりなことがあるんだ」
「どうしたの、浮かない顔をして」
「この招待状の差出人を見てほしい」
封筒とそろいの装飾が施された招待状を、マレーテは頭から一文字ずつ丁寧に目で追う。どこにもおかしな点はない……そう思いかけたところで、最後の署名に心臓がつかまれる。
新女王シトレの名の下に連なっていたのは、『王太后ゼネヴィア』の名前だった。
「生きていた?」
マレーテは衝撃と信じ難さに、震える手で口元を覆った。
「てっきり、もうとっくに……」
「私も驚いたよ。君や諜報員の話から、王太后もすでに亡くなったものと想定していた。……ユハシュが先王を『病死』とした以上、母である王太后まで同時に亡くなっていては不自然だ。戴冠式で各国の要人が訪れる前くらいに時期をずらし、先王とは別の理由で死亡を公表するだろうと思い込んでいた」
先王ライエスと共に、ゼネヴィアも食事中に毒を口にしている。ライエスはその日のうちに亡くなったが、ゼネヴィアはまだ症状が軽かった。
しばらくは周囲に指示を出せる程度の意識はあったが、マレーテが宮殿を脱出する頃には症状がずいぶん悪化している様子だった。ゼネヴィアが息子の後を追うのは時間の問題と、マレーテも思っていた。
(あの性悪女……どこまでも命汚いのよ)
ゼネヴィアが生きているなら状況はまずいことになる。シトレは見逃してくれても、ゼネヴィアならばそうはいかない。彼女は『マレシカ王女こそが息子の仇』と信じているのだ。
「どうしよう……」
「落ち着くんだ、マレーテ。まだ最悪と決まったわけじゃない」
震えるマレーテの手を包むように、大きな手が重なった。
「私は戴冠式に招かれているから堂々と宮殿に入れる。まずは状況を調べてこよう。君に罪を着せた者の存在も気になる。……心配はいらない。もし王太后が君を捜しているとしても、そう簡単には見つけられない。仮にばれたとしても君はもうゼト大公妃だ。ユハシュといえど、やすやすと手は出させない」
「でも……」
それでは最悪の場合、ゼト大公国とユハシュ王国が事を構える羽目になる。ゼトがユハシュにおもねる義理はないが、宗主国であるバルア王国を通じ揺さぶりをかけてくる可能性はある。そうなればアトランも無視はできないはずだ。
「大丈夫。私を信じて」
マレーテの髪に、手袋を取った異形の手が差し入れられる。頬に大きく温かい手が触れた。どこか妖しいと思っていた暗緑色の瞳は、今では何よりもマレーテを安心させてくれる色だ。
マレーテは思わず、子供のようにアトランの首に腕を回しすがり付く。
(――行かないで)
その言葉をマレーテは必死に飲み込んだ。ユハシュの動向は気になるが、何かひどく嫌な予感がした。とはいえ、そんなあやふやな理由でアトランの公務を妨げられるわけがなかった。
「……絶対に私のところに帰ってきてね」
「ああ、約束するよ」
アトランに膝に乗り上げたマレーテは、祈りを込めて静かにその唇に口づけを落した。




