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おまもり時計

 手のひらに沈む金属の重みが心地よかった。私が使い始めてからは既に八年になる。

 夫の遺した懐中時計である。針の動きが鈍いので、街の老舗時計店に修理に出向いた。

 ルーペで裏側の刻印を確認する三代目の若旦那は「これは舶来のいい品ですね」と褒めながらも、(何故貴女がこんな立派なものを)と小馬鹿にする気配も隠そうとはしなかった。

 うっかり笑いそうになって、慌てて下を向く。

 昔の気負った私なら、それなりに反応もしただろう。でも最近は気にならなくなった。逆にこんなに露骨で大丈夫だろうかと、思い至る程度に歳を重ねた。

 高価な時計や金銀珊瑚がズラリと並ぶ空間に、地味な外套の痩せた短髪の私がいる。確かに場違いだ。胸元の天鵞絨の造花も磨いただけのハンドバッグも、不釣り合いで悲しそう。


 時計は分解修理になった。期間と手間賃の説明中、二代目らしき白髪の旦那が預り書を出してきた。

「おや、こちらの時計は」

 見覚えがあるようだった。

「ひょっとしてタカイ少佐の奥様でございますか」

「夫をご存知なのですか」

「勿論でございます。特進して中佐になられた事も存じております」

 途端に若旦那の態度が変わり、目の前には暖かい紅茶が置かれ、私への扱いが格段に丁寧になった。

 夫は死してなお、私を守っているのだった。




 夫の「名誉の戦死」は遺族年金と寡婦年金の額を増やし、私の立場は贅沢さえしなければ一生安泰となった。

 ただ、跡取りが授からなかった件はどうしようもなかった。親族は夫の所有する不動産や、国から賜った勲章などの行方を気にした。

 欲を早々に捨てると、代わりに街なかの文化住宅、三階の角部屋を譲られた。二間と小さな台所、水洗の御不浄や浴室もついた、日当たりのよい物件だ。

 結果、物理的にも心理的にも、夫の親族との距離が出来た。体良く追い出されたのかもしれない。

 夫の愛用した懐中時計だけは、私の手のひらに納まり肌になった。


 その後は街の独り身として日々を過ごす。頼まれた小間物を作り、知り合いの洋装店に卸す。評判はそこそこ良く、品によっては追加注文も入り、季節によっては多忙になった。

 家事育児に追われる事もないので、周囲には悠々自適に見えるらしい。その代わり私はいつも独りだ。戦火を逃れた身内も順繰りに他界し、歳の近い実姉は仕事で忙しい。彼女も生涯独身だろう。

「そもそもうちは終わる家系なのよ。私達の他に兄弟もいないし、私達にも子に縁が無いし」

 遊びに来る度に実姉が笑う。

「老いたらここに一緒に住む?」

「嫌よ。独りが気楽ですもの」

 その後仕事の面倒を少し零し用意した簡単な食事を楽しみ、実姉はさっさと帰るのだった。





 私は夫の亡くなった瞬間であろう時間に、彼の幻影を見ている。

 終戦前の立春明けだったろうか。深夜に奥の間で眠っていたら、ばあんと酷い音がした。驚いて起きると、白馬が襖を破って入ってきた。常夏の島からの帰還らしい、土と緑の匂いもした。

 正装した夫は馬上にいた。「驚かしてすまない」と笑う、日焼けした端正な顔。

「ちゃんと玄関から入ってらしてください!」

「しかし、ここは馬が置けぬのだよ」

「強盗かと思いましたよ」

「最近はそんなに物騒なのかい」

「先月は裏木戸をこじ開けようとする音が聞こえました。怖かったのよ」

 それはいかん、しかしもう帰ってきたから安心なさいと言われ、気付けば夜が明けていた。襖は破れてはいなかったが、建て付けが悪くなっていた。庭の雌鶏の鳴き声がコウコウ響いた。

 二ヶ月後の一日ついたち付けで白い布に包まれた木箱が届き、夫は正式に帰ってきた。中身は小さな石がひとつだけだった。


 新婚当初の夜の会話も憶えている。夫は私の顔を覗き込んで「お前は後家相だな」と言った。私の目の下の泣きぼくろがそうだという。

 ならば私は、誰と結婚してもそうだったのだろうか。もしくは例えばこれから先、また誰かと一緒になっても、また独りになるだろうか。


 暫く泣き暮らしたけれど、少しずつ日常を取り戻した。それでも今でも泣き暮らす。怒ったり笑ったりもする。

 時計の修理が終わるまでには数日かかる。またしても古い怒りを蒸し返す。

 御時世的に軍の上官は、様々な接待を受けたらしい。夫は見栄えも良かったので、どうやらかなりモテたらしい。

 私も幾つか覚えがある。一緒に行った大陸で見かけた美しい娘とか、花街らしい名刺だとかどこからともなく届いた文だとか、私が面白くない品物やら想いでが、何かの拍子に転び出る。

 その度に私はひとりカッカッと頭にきたり、ションボリして遊ぶ。

 そう、これは遊びだ。既に夫はこの世にいない。誰のものでもない。少なくともこの世の仕組みの中ではずっと、私は夫の正妻だ。正妻ゆえのひとり遊び。

 だけど有名な怪談にあったように、あの世の夫は別の誰かと添い遂げているかもしれない。とすると、私の支配欲は露と消える。その場合は失恋で悲しむことになる。

 だけど、それ故も、何度もこなしているうちに遊びになるだろう。女はそういう遊びが上手なんだろう。想いでに浸って想いでをこねくり回して、ひと段落したら、また明日を迎えればいいのである。


 いつまでも泣いていてはいけない。

 卸した造花ブローチの評判が良かったので、月末までに色違いで数点作らねばならない。小袋の注文も貰えた。薔薇を一輪買ったので、花が開いたら写生をしておかねばならない。

 そうだ、私はそこそこ忙しい。独り身にも平等に時間が流れ、生活の手間が掛かる。


 忙しい筈だが女の性として、月に一度は体調を崩す。

「怒りごっこ」はいつもその前触れだ。仕事の分量を見ながらも、一番辛い日は構わず休む。

 横になる。すると、ベッド脇の窓の日焼けた薄茶のカーテンが目について困る。

(仕方ないわ、八年経ったもの)

 元は綺麗な桃色の小花模様だった。私の独り身の時間。

(仕方ないわ)

 ウトウトしていたら、夢に夫が出てきた。私の縫った藍染の浴衣を着ていた。「まだ怒っているのか」と、呆れていた。

「女は死ぬまでずっと怒っていますよ」

「そんな事を考える暇があるという事は、日々が暇だからじゃないのか」

「失礼ね。それなりに慌ただしいわ」

「不必要な思考は判断を鈍らせるぞ」

「貴方の大姑さまもよく大舅さまの悪い遊びを思い出して怒ってらしたじゃないの」

「ああ、」

 思い出したようだった。

「そうだったな。女は面倒だね」

 でも詰まらない事はさっさと忘れなさい、馬鹿馬鹿しい。他人事のように夫は言った。

 目が覚めたら夕方だった。

 またカーテンが目についたので、いい布があったら新調しようと思った。それから、

(馬鹿馬鹿しいですって?)

 それはそれでまた新たな怒りを生んだ。

 毎日が落ち着き過ぎて、何かを淀ませているのだ。ならば仕事がひと段落したら、部屋をうんと模様替えしよう。次のブローチの新作は少し大きめに拵えよう。なにせ私の作る小物を売ってくださる、そして買ってくださる巷のお姉様方の方が、私より断然お元気だもの。

 私ももっと、勢いをつけなければ。





 時計の修理が済んだと連絡が入り、銀行で多めの金額をおろす。言われた見積もりの金額を出せば、新しい時計がもうひとつ買える。けれど私の唯一の贅沢なので惜しまない。

 戻った時計は正確に音を奏でる。すぐに手のひらに馴染む。でも以前より若返った顔をしている。お腹の大掃除で元気になったのだ。

 だのに提示額は随分抑えられていた。不思議に思っていると、白髪の旦那が皮製トレイを出しながら言った。

「タカイ中佐には家内の甥がお世話になっておりましたので、気持ちだけですがサービスをさせていただきました」

 思いがけない話に背筋を伸ばすと、旦那はそのトレイの上に別紙も出した。私宛の注文票だ。

「それから、奥様の作っておられる造花のブローチを店の女の子達がよく存じておりまして。先日付けていらしたお品も皆で噂しておりました」

 お世辞ではないだろうか。

「ちなみに私の妻もいくつも愛用しております」

「それは……光栄です」

 どこまで本気にすればいいのだろう。

「妻はどれも清楚で愛らしいと大層気に入っておりまして。先日も購入した店で色違いをお願いしてあると」

(色違いの?)

 月末までの注文はまさか。また背筋が伸びてしまう。

「うちで普段扱う様な大振りな宝石は仰々しい、威圧感があって冷たい、今は流行らないと、妻はいつも私にそう言うのでございます。反面奥様のお品は自分達の毎日に寄り添うと。日々の装いとして美しいと。まあ……そう私を苛めてもいるのですが」

 苦笑いする旦那につられて微笑んでしまい、先日の夢を思い出した。彼も奥様に対して、後ろめたい事でも有るのだろうか。

「それでですね、これを機に、当店で奥様のお品を置かせていただけないでしょうか」

 早春から手頃な値段の品も売り出す事にしたそうだ。

「今回はお若い方や主婦を対象にした、小さな真珠を中心に展開しようと思うのです。ケース内にこの人形と一緒に飾りますので、見合うお花を幾つかお願い出来ませんか」

 硝子製の白馬の人形だった。白い馬に乗って戻ってきた夫。そうか。これは夫が拵えた仕事だ。


 お財布にはいつも以上の金額が残ったので、帰り道に問屋街に寄って白い生地を見繕う。いい絹に出会った。薄い綿、舶来のレース。布帛もきっと面白い。硝子のボタンや舶来のビーズも。

 懐中時計は機嫌良く、カチカチと歌った。忙しくなるよと私に言った。


 夫も私を見守っている。いいえ、彼はきっと見張っている。いつもくだらない事をしているんだなと、呆れているのも何故か判る。

 その気がまた私に新たな怒りを作る。だけど「怒りごっこ」は私の遊びだ。くだらないけれど、見えない夫との、つむじ曲がりなじゃれ合いなのである。

 木枯らしの中、冷えた時計を手のひらで温める。時計の鼓動が、指先から順に胸の奥に伝わる。





 おしまい

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