映画館の掃除 10万円
鼻腔から入り、胸を焦がし尽くす。フロアに入った瞬間から、キャラメルの甘い匂いの波が押し寄せた。僕は甘い匂いが大好きだ。この香りだけで一食分にもなりそうだった。しかしユミネは違うみたいで、不機嫌に足を踏み鳴らしていう。
「7番シアター」
「いてっ。手で渡してほしいなぁ。大切なものだろう?」
今回の僕らの目当ては映画鑑賞ではない。だからどの席でも、何の映画でも良かったのだ。僕はユミネが顔面に投げつけてきた財布を拾うと、自動発券機を操作して、次に7番シアターで上映される映画のチケットを2人分購入した。
「これ、なくしちゃだめだよ」
ユミネは差し出した紙のチケットを奪い取ると、入場口が見える位置の空いてる椅子に座って微動だにしなくなった。ほかの多くの人がそうしているように、スマホをいじるわけでもなく、ただ座っている。その姿をみて、僕は大切なことを思い出した。何かが足りないと思ったんだ。
「これ忘れてたね」
その空っぽの膝の上に、白い犬のぬいぐるみを置いた。ユミネは無言でそのぬいぐるみにシートベルトをするように腕を回して、頭はその耳の間に埋めた。これでばっちりだ。
ユミネと出かけるときは何かしら、できるだけ多くのコレクションを持っていくように。社長から言われた奇妙な言いつけの一つだった。理由は聞かない。
お前の疑問を挟まないところが好きだよ、とずいぶん前に社長に褒められたことを思い出すと、いまでもうれしくなる。
すでに混み始めている列は生き物のようだった。うねって、乱れて、騒がしい。その先にある甘い香りにみんなメロメロだ。
「キャラメルと、バターを一つずつ。あと、飲み物はオレンジジュースのLを二つください」
店員は選べない。運悪く女性だった。でも事前に頼むものは決めていたし、メニュー表を指さして言えば、目を合わせずともそこまで嫌な思いはさせないだろう。僕は無事トレーを受け取ると、立ったままぱくりとポップコーンを食べた。
「ユミネ、オレンジジュース飲む?」
ぬいぐるみを抱えて、前の虚空を眺めるユミネは僕の差し出したオレンジジュースを無言で飲んだ。珍しく、僕をにらみつけてくる。いつもは無視なのに。
大切なことを忘れていた。
「ああ、ごめん。返し忘れてたよ。はい、財布」
シンプルな白の長財布はユミネの持ち物としては真新しく大人びている。きっと社長のプレゼントだろう。
「泥棒」
「ええっ、ポップコーン嫌いだった? あぁ、社長には、言わないでほしいなぁ」
ポップコーンをその眼前に突き出すと、次は射殺さんばかりの鋭さに変ったため、僕は慌ててひっこめた。お金に頓着するタイプじゃないのに、この指摘は意外だった。
もっと意外だったのは、僕が食べていたポップコーンに手を伸ばしたことだった。白くて労働を知らない手。
「キャラメル」
「あー、はいどうぞ」
取りやすいようにトレイを下げて差し出すと、本当に食べた。動物園の餌やりコーナー。いつかやってみたいと思っていたことがこんな所で叶うとは。僕はまたうれしくなった。
こうなることが分かっていれば、ホットドッグとか、もっと色々買えばよかったな、という後悔をしたが、その餌やりを楽しむまもなく、シアター会場のアナウンスが流れると、ユミネは空のジュースを僕に押しつけて行ってしまった。
「チケットを確認いたします」
また女性だった。僕は視線をさまよわせる。ああ、どこを見たらいいんだ。チケットを持ってる手が震えた。ふらふらと、向かうが、そうやって牛歩で歩いているうちに、チケット確認の人が男に代わるような奇跡は起きなかった。
「……チケットを……」
「ツグヤ」
もはや地面と平行に顔を下げていた僕に、いつもの冷たい声がした。いつも、最低限の言葉で、断ち切るようなコミュニケーションなのに。名前を呼ばれれば、僕はよく訓練された犬のように自然と顔を上げてしまう。
「はい。ごゆっくりお楽しみください」
顔を上げてた先には誰もいなかった。それでも、シアターに入ると僕がとった席にユミネはちゃんと座っていた。
「どうして隣なの」
「まあまあ落ちついてよ。 それより、ユミネ。僕の名前知ってたんだ。 漢字は知ってる?次の矢って書いて次矢。兄ちゃんは――」
「知らないから。興味ない」
轟音の予告を眺めながらユミネはそう吐き捨てた。そうすると、あれは僕の空耳だったらしい。
「そっか。 あっ、トイレは済ませた?先にしておいたほうが――」
それまでスクリーンに向いていたユミネの上肢がねじられる。弾みをつけるように。そのままその旋回は僕へ向き、骨と骨のぶつかり合うような重い衝撃と音に変わった。
こめかみに綺麗におさまったこぶし。僕が知るユミネの唯一の長所だ。なにか生かせる職につけばいいのに。
僕は予告の間、冷たいジュースを当てて、やわらかいシートに身を預けることにした。
うつらうつらし始めたころ、ようやく照明が落ちて映画は始まった。目的はシアターそのものだったから、何が上映されるかは知らない。
ただ、視界に点々と存在したものも照明とともに消えてくれたことにほっとする。隣のユミネはスクリーンに釘づけで、僕のぶしつけな視線にも気づいていなかった。いや、もしかしたら無視していただけかもしれないが。
膝に乗ったぬいぐるみはムンクの叫びのように絞られていた。この展開の何にそんな反応することがあるのか、僕にはわからなかった。
僕は僕の仕事をしなければならない。まばらな客が、スクリーンのちかちかに呼応するように浮かんでは消える。間違え探しのように、僕はその中に死者を探した。
目がちりちりと痛み、耳はしびれる。映画というのは情報量が多すぎやしないだろうか。僕は気分が悪かった。
画面は穏やかなシーンに切り替わり、何やら二人の男女が抱き合う。親子だろうか。父と娘。僕の世界にはどちらも存在しないものだった。
父。
その存在の功績は母さんと結婚してくれたことと、僕を『次矢』でいさせてくれたことだけだ。
その罪過は、母さんを捨てたことと、僕たちを作ったこと。手に入らなければ、失うことも無かったのに。
画面いっぱいに無数の人の名前が流れ出した。どうしよう。まだ何も見つけていない。
僕がシートで身じろいで周りを見渡すと、ユミネがいるのとは異なる方の席に座っていた男がいら立ちのにじむ小声で僕に言ってきた。
「君、さっきからいい加減にしてくれないか。 きょろきょろと……確かに映画間で禁止されているようなことではないが、周りの迷惑だ」
「すみません。 あんまり、この映画の良さがわからなくて…」
僕は向き直って無害な笑みを浮かべた。今は生者にかまっている暇はない。
―――いやあ、ラッキーなこともあるものな。
「わかってない奴だなあ、まあこの映画の良さがわかるにはもう少し歳を取る必要があるだろうな」
じろりとこちらを見る男は、話したくてたまらないように、目を輝かせて言った。僕は驚いたように目を瞬かせて、続きを促した。
「ええ、そうですか? じゃあ、オジサン的にはこの映画は何点でした?」
「はあ、あのな、映画ってのは多面的な、総合芸術なんだよ。だから何点なんて簡単にはつけられない。映像、演技、配役…たくさんの項目があってだな…」
「ふうん。僕には難しいな。ならおじさんはこの映画のどこが好きなの?」
男の話は終わらない。生者だったら生唾が飛びそうな勢いで、多角的な評価をする。僕は適当に相槌を打った。とっくにエンドロールは終わって、観客はシアターを後にしていくのも、男には関係ないらしい。
まあそれはそうだろう。男はここにいるしかないのだから。
「感想戦のしがいのない若者だなぁ、お前。 お前はどうなんだ、この映画」
「僕? 僕は……最後に、お父さんに会えてよかったな、って思ったよ。
生きてようと、死んでようといいけど。会いたい人に会えて、向こうも会いたいって思ってくれてたなら、すごく、幸せだと思うから」
この言葉は誰のものだろう。僕の言葉だろうか? するすると出たその音に僕自身が驚かされる。どうして、父さんの姿が浮かぶのだろう。
「単純なやつだなぁ。 まあ、一つでも気に入るところがあったなら、あたりだな」
聞いておいて笑い飛ばすとは失礼な男だった。でも、心底楽しそうで。僕もこうやって何か好きなものがあればよかったなと思わされる笑みだ。
「あーあ、こうやって感想戦するまでが楽しいのに……どうして忘れていたんだろうなぁ」
「それだけじゃないよ。いつか、映画が好きだったことも忘れる。その『いつか』は人によるから、わかんないけど、その日は必ずくるよ」
「それは……嫌だぁ。 ……お前どうにかできないのか?」
男は頭を大げさに抱えて僕に聞いた。洋画みたいなしぐさ。
「できない。 だから、今おとなしく帰るか、自我が溶け切ったあとに僕に掃除されるか、おじさんはどうしたい?」
卑怯で無意味な問いだった。男の望みにかかわらず、僕は掃除しなきゃならないのに。でも男は聞かれる前から決めていたみたいだった。
「もういいや。 ここはいくらでも映画が見れて最高だと思ったけど、語り合う仲間がいないなら生殺しもいいところだ」
両手を広げて、カーテンコールのように満足そうに笑う。
「ねえ、行っちゃうなら、おすすめの映画教えてよ」
「だっはははは! そうだなぁ……いや、だめだ。自分でたくさん見るんだ。
くそ映画もたくさんみろ! 俺がそうしたみたいにな! そんで、お前だけの感性で語れ!ネットの評判なんか見るなよ!! じゃあな!」
そう吐き捨てて、勝手にいってしまった。僕は、脳裏にちらつく父の陰を振り払いたくて、口角をあげて手を振った。
父は僕と母さんにどんな別れを告げて去ったのだろうか。あんな風に、笑っていたのだろうか。




