30.スキー
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厚い雪で覆われた、ほとんど垂直に近い角度で真っ直ぐに伸びる斜面。その頂に、氷竜とノアは並んで立っていた。
「風呂上がりにこんな真似をするのは不本意だが、背に腹は代えられない」
ノアは静かに、遥か下方の斜面へと視線を落とす。時折地面の隆起はあるものの、遮るもののない真っ白な坂道。その麓では、レティシアたちが固唾を呑んでこちらを見上げている。
「……失礼を承知で申し上げますが……その……このような馬鹿げた決着の付け方は、些か納得ができません……」
魔王の息子へ辛うじて敬意を保ちつつも、氷竜は憮然と言い放った。しかしノアは、それを鼻で笑う。
「問題の根源はスキー場。ならば、スキーで決着をつける。至極真っ当な道理だと思うが」
ノアの手には、急遽魔王が簡易的に作ったスキーのストックが握られている。両足には、同じく急拵えのスキー板。
「ですが、私は魔族です。その、スキーとやらの経験は皆無なのですが……」
「だから何だ。魔族はスキーをしてはダメなのか」
「いえ、そういうわけでは……」
高潔な魔族である自分が、人間の世俗的な娯楽に興じる羽目になるとは――と、ノアと同じく不恰好な装備を身につけた氷竜は、情けない顔で溜め息を吐いた。
「ルールは単純だ。同時にスタートし、先に麓へ辿り着いた方が勝者。相手への妨害は即失格とし、その場で敗北を認めて相手の要求を飲むこと。異論はないな?」
「……承知……いたしました」
話し合いでは埒が明かず、かと言って短気を起こして人間を傷つければ、魔王の不興を買う。ならばこの勝負を受け入れ、正々堂々と勝利を捥ぎ取るしかない。
「要は、この板に乗ったまま雪の上を滑り降りれば良いのですね?」
ノアは深く頷き、スタートの位置へとついた。
――その頃、ゴール地点では。
「くそ……っ! 俺の足の麻痺さえ解けていれば、あんなトカゲなど俺が下してやると言うのに……!」
未だノアの魔法剣の影響が残っているノブは、まともに立つことすらままならない。エデンの肩を借りながら、憎々しげに頂上の氷竜を睨みつけていた。
「ノアさんなら……きっと大丈夫。魔王の息子だし、何より本物の――」
『本物の勇者』と言い掛けて、エデンは慌てて口をつぐんだ。隣ではレティシアが祈るように両手を胸の前で組み、不安げにノアたちを見つめている。さらにその隣では、エヴァンとララがどこか他人事のような顔で成り行きを見守っていた。
「ねぇ、ノアパパ?」
「なんだい、ルルちゃん?」
ルルは斜面の上のノアを見つめたまま、静かに問いかける。
「ノアって……スキー、したことあるの?」
ルルは記憶を辿る。少なくともノアの口から『スキーに行った』という話は一度も聞いたことがない。魔王もまた、遠い目をして己の記憶を掘り起こした。
「……ないね」
その呟きが、まるで開始の合図となったかのように。頂上の二人が同時に、力強くストックで雪を蹴った。
勢い良く斜面へと躍り出たノアだったが、その勢いは一瞬で制御を失った。スキー板はあらぬ方向を向き、バランスを失って派手に尻餅をつく。すぐに立ち上がろうと腰を浮かせるものの、スキー板で固定された足元はツルツルと滑るばかり。生まれたての子鹿のように膝をガクガクと震わせ、ようやく立ち上がったかと思えば、次の瞬間には顔面から雪の中へと突っ込んだ。
「く……っ! なかなか手強い……!」
気を取り直して滑り出すが、向かいたい方向やスピードのコントロールが出来ずに何度も転び――最終的に斜面を転がり落ちていく。そんな魔王の息子を、氷竜は困惑の入り混じった眼差しで見つめていた。
(なんだ……? あれが正しいスキーの滑り方なのか……?)
初めてのスキー。正しいフォームなど知る由もないが、氷竜は持ち前の身体能力で危なげなく雪面を滑り降りていた。
(わからん……が、勝負は早く麓に到着した方の勝ち。悪いが、負けるつもりはない!)
氷竜は重心を低く落とし、鋭い視線で前を見据える。
(足を開く角度、腰の据え方、膝のクッション……なるほど。こうすれば風を味方につけられるのか)
一瞬でコツを掴んだ氷竜の進路に、岩で隆起した地面が現れた。だが、氷竜は初心者の範疇を超えたエッジ捌きでターンを決め、鮮やかなジャンプで飛び越えてみせる。
「おお……!」
思わずゴールの方角から、感嘆の声が上がった。
「ふ……っ」
不敵な笑みを浮かべ、氷竜は後方のノアを振り返った。彼は相変わらず、立ち上がっては転び、転んでは転がり落ちるという独自のスタイルを貫いている。
「……心地良い風だ」
竜の姿で空を飛ぶ時とはまた違う。剥き出しの身一つで滑走するスリルと高揚感に、氷竜の胸は静かに高鳴り、知らぬ間に口元には笑みが浮かんでいた。
そして――完膚なきまでにノアとの大差をつけて、氷竜がゴール地点へと到達した。
「……え……?」
「負け……たのか?」
呆然と口を開くエデンとノブ。ルルと魔王は、揃って深いため息を吐いて額を押さえた。
「ちょっ……! 笑いごとじゃないですって、ララさん……!」
「だって……っ! ノア君、あんなに自信満々だったのに……ふふっ……!」
エヴァンとララは、互いに声を殺しながらも爆笑している。そんな中、お尻で滑り降りてきたノアに、レティシアが駆け寄った。
「ノア様! お怪我はありませんか!?」
「……スキーなど、少しも楽しくない」
ノアはスキー板を取り外しながら、不満げに下唇を突き出す。
「ノア……あんた、本当はスキーをやってみたかっただけでしょ?」
半眼で言い放つルルに、ノアは悪びれる様子もなく頷いた。
「どこかの勇者が、『自信があれば何でもできる』と豪語していたからな。試してみたまでだ」
「練習もせずにできるわけがないでしょ!? どうするのよ、負けたのよ!? 氷竜の要求通り、スキー場を撤退させなきゃいけないのよ!?」
懇々と説教を垂れるルルの後ろで、勝者であるはずの氷竜は、自身の足元にあるスキー板をまじまじと観察していた。
「この板……接地面をさらに滑らかに削れば摩擦の抵抗が減り、もっと速度が出るのではないか?」
「ま、まぁ……それは魔王さんが急拵えで作ってくださった、簡易品ですから……正規品は街でも買えますし、スキー場でレンタルも……」
おずおずとエデンが返答すると、氷竜は顎に手を当て何やら思案する。
「……ふむ。滑り降りる爽快感は認めるが、一度降りてからまた頂まで自力で登るのは、些か興が削がれるな」
「あ……な、なので魔法使いを雇ってリフトを動かす予定だったんです……それなら自動で上まで運んでくれますから……」
「ほう……?」
氷竜の瞳に、興味深そうな光が宿った。
「――魔族よ。ルールはルールだ」
ノブが悔しさに拳を震わせ、苦渋の決断を下す。
「父上に、ホテル建設の中断を掛け合ってみよう。しかし――」
「待て」
氷竜が片手を挙げ、その言葉を遮った。
「ホテルとやらの建設は、続けるが良い」
「どういう事だ……?」
困惑するノブに対し、氷竜は傲然と、しかしどこか弾んだ声で続けた。
「但し条件がある。一つ、スキー場の区間を明確に定めること。そこを越えた人間は、我々は容赦なく排除する」
「……ああ」
「そしてもう一つ。スキー場が完成した暁には、私を一番に招待することだ」
ノブは訝しげに眉を顰める。
「私は人間共の通貨は持ち合わせていないからな。故に、いつでも装備品の貸し出しが出来るようにし、リフトとやらも乗り放題にするのだ。この二つの条件が呑めると言うのならば、エルデシュタイン高原のスキー場建設を認めてやろう」
ノブは黙考し、氷竜が提示した条件を頭の中で反芻した。何度も、何度も咀嚼し、あらゆる角度からその言葉の真意を探ろうと試みる。しかし、どれほど深読みしようとも、辿り着く答えはたった一つしかなかった。
「お前……スキーが気に入ったのか……?」
問われた氷竜は、そっと明後日の方向を見遣った。その顔は心なしか照れ臭そうだが、静かに、そして深く頷く。
あまりに拍子抜けな幕引きに、ノブが二の句を継げずに立ち尽くしていると、感極まったレティシアの声が響き渡った。
「ああ……! さすがですわ、ノア様!」
レティシアは胸の前で両手を組み、潤んだ瞳でノアを見つめる。
「スキーの素晴らしさを実際に体験していただくことで、氷竜様の頑な心を溶かしてしまわれるなんて……! その上で、ご自身は敢えて敗者を演じる事で、氷竜様の自尊心をも守り抜かれる……これほどまでに完璧な和平の策が、他にありましょうか……!」
最大級の賞賛を浴びたノアは、しばし動きを止めた。そして、これ以上ないほど堂々と胸を張り、言い放つ。
「ああ。すべて計算通りだ」
「ノア君? 絶対に何も考えてなかったよね……?」
「ティア様はノアに甘すぎるってば!」
魔王の呆れたツッコミも、ルルの声も、今のノアには聞こえていない。
試合に負けて、勝負に勝った。――そういうことに、なったらしい。




