屈辱と動揺
――冷たい空気が肌を撫でる。
微かな燭光が揺れ、長い影を壁に映し出している。
心臓の鼓動がやけに耳に響く。
意識は朦朧とし、身体はじんわりとした熱に包まれていた。
隣では、レイヴェルが静かな寝息を立てている。
まるで満足しきった獣のように、深く、穏やかに。
――なぜ?
なぜ、殺さなかったの?
戦場での敗北。
血と泥にまみれ、膝をついたあの瞬間、私は死を覚悟した。
彼の剣が振り下ろされるのを待っていたのに――
「……お前が生きていたほうが、面白いからな」
あの言葉が耳を離れない。
手首に絡みつく縄の感触が、不快に肌を締めつける。
私はもう、自由ではないのだと、突きつけられる。
視線の先には――レイヴェル。
琥珀色の瞳が、まるで炎のように燃えていた。
「俺は、お前のすべてを奪う。
誇り高かったお前を、俺の足元にひれ伏させてやる」
嘲るような声音が、鼓膜を突き刺した。
怒りが、全身を駆け巡る。
喉の奥が焼けつくような感覚。
唇を震わせながら、必死に涙を堪えた。
――私は、もう何も信じられない。
裏切られ、何もかも失った。
全部、この男のせいで。
すると、レイヴェルが微かに笑った。
「……その顔、いいな」
低く甘い声が、耳元をかすめる。
ぞくりと背筋が震えた。
「ゾクゾクする」
ゆっくりと細められる琥珀色の瞳。
「俺の手で、あんなに純粋無垢だったお前が、
すべてを失って、こんな表情を俺に向けるなんて――最高だ」
次の瞬間、強引に唇を奪われた。
「んっ……!!」
驚きと嫌悪に震え、全身で拒絶する。
腕を縛られたまま、身をよじって抵抗するが、彼の力は微動だにしない。
蹴り上げようとしても、その足さえも押さえつけられた。
「ああ、最高にいいな」
レイヴェルが舌なめずりをするように笑う。
「そんなことしても、何も変わらないのに。……可愛いなぁ」
ゆっくりとにじり寄る彼の顔。
その瞳の奥に宿る愉悦の色。
狂っている。
この男の精神は、普通ではない。
なのに――。
意識がふっと現実に引き戻された。
隣で寝息を立てるレイヴェルの体温が、妙に肌にまとわりつく。
まるでこの温もりまでもが、私の自由を奪う鎖のように。
月明かりが淡く差し込み、彼の横顔を静かに照らしていた。
長い睫毛が影を落とし、穏やかすぎる寝顔が、どうしようもなく目に焼き付く。
戦場では決して見せない表情。
冷酷で、残忍で、すべてを計算で動かす男――そのはずなのに。
この寝顔のどこに、あの無慈悲な王太子の面影があるというのだろう。
本当に、この人は”あのレイヴェル”なの?
心の奥がぐちゃぐちゃに乱れる。
思考も、感情も、整理がつかない。
この男のせいで、私は、私は――すべてを失ったのに。
憎くて、憎くて、しょうがないのに。
だけど……。
なぜ、キスをされて喜んでしまったのだろう。
なぜ、触れられて、心がざわめいたのだろう。
こんな風にいいように扱われても、
こんな風に彼の手のひらの上で踊らされても、
私は、懲りていないのだろうか――。
「……ははっ、馬鹿みたい」
自嘲するように、かすかに笑う。
でも、笑い声はすぐに掠れて消えた。
「泣いてるのか?」
ふと、頭上から低い声が聞こえた。
眠そうに薄目を開けたレイヴェルが、私を見下ろしている。
夜闇の中でも、琥珀色の瞳が鈍く光っている。
「……泣いてなんか、ない」
嘘だ。
自分でも、そう思った。
目尻が熱く、頬にかすかな湿り気を感じる。
「こっちにこい」
静かな命令。
次の瞬間、強引に腕を引かれ、彼の胸元へと引き寄せられた。
ぎゅっ、と抱きしめられる。
強く、でもどこか優しい腕の感触。
動けないのではなく、動かなくてもいいと言われているような抱擁だった。
これは、何?
これも演技なの?
目の前に広がるのは、彼の肩口。
静かな鼓動が、肌を通して伝わる。
「…………」
私は、何も言えなかった。
この腕を振り払うべきなのに、力が抜けてしまう。
瞳を閉じれば、錯覚してしまいそうだった。
あの日々が、まだここにあるのだと。
彼が優しかった頃が、本物だったのだと。
でも、それはきっと間違いだ。
何が真実で、何が嘘なのか。
愛の言葉も、囁かれる甘い声も、微笑みさえも――
すべて、私を縛るための檻。
ただ一つ、確かなのは――
この腕の中にいる限り、私はもう、二度と自由にはなれないということ。