戦場の終焉
「久しぶりだな」
血と鉄の匂いが立ち込める戦場で、彼の声は鮮明に響いた。
鋭く乾いた金属音、無数の叫び、命が潰える音――
すべてが遠ざかり、彼の言葉だけが胸に突き刺さる。
怒りが、熱となって喉の奥を焼く。
全身が震えた。
なのに――
目の前の男は、何の感情も持たず、ただ私を見下ろしている。
レイヴェル・アークヴィス。
敵国の第一王子。
かつて、私の心を狂わせ、最も愛した男。
そして、私が最も憎むべき裏切り者。
ギロリと睨みつけると、彼は大げさに肩をすくめ、ケラケラと笑った。
「おお怖〜い。お前、まだ俺のこと恨んでんの?」
その無邪気とも取れる声が、胸を引き裂いた。
――ああ、本性はこんな感じだったのね。
私を全く好きそうじゃない。
まるで、他愛もない悪戯を仕掛けたような軽さ。
演技だった。
あの日々も、あの言葉も、あの誓いも。
彼の甘い囁きも、指先の優しい触れ方も、温かな眼差しも――
全部、嘘だった。
「……何も感じないの?」
傷だらけで膝をついた私を見ても、あなたは何も感じないの?
かすれた声は、血の匂いが満ちる冷えた戦場にかき消されていく。
戦況は、こちらにとって圧倒的に不利だった。
痛みはある。
体の至るところが焼けつくように悲鳴を上げている。
けれど、それよりも胸の奥がひどく軋んだ。
私の血に染まった姿を前にしても、彼の表情は微動だにしない。
まるで、何の価値もないものを見るかのように、冷めた目でただ私を見下ろしていた。
かつて、優しく微笑み、「君を守る」と囁いたはずの男が。
かつて、私の手を取り、「もう離さない」と言った男が。
今は、何の情も宿らぬ瞳で、そこに立っている。
――本当に、何も感じないの?
――私を利用し、捨てたその手で、今度は何を奪うつもりなの?
「……何をだ?」
無感情な声が落ちる。
まるで、私の苦しみも、憎しみも、すべてが無意味だと言うかのように。
怒りが胸の奥で煮えたぎる。
ギリッと奥歯を噛みしめながら、私は睨みつけ、剣を構える。
この男、この男、この男は――。
血の匂いが鼻を突く。
痛みよりも、憎しみが全身を突き動かす。
この男だけは、絶対に許さない。
私を裏切り、利用し、すべてを奪った張本人。
優しさも、愛の言葉も、すべてが偽りだった。
ならば――
今度は私が、お前を奈落へ突き落としてやる。
かつての私は、彼の言葉に心を委ね、未来を誓おうとした。
そして、それが最も愚かな過ちだったと、今この瞬間、改めて思い知る。
彼は私を利用し、そして――私を捨てた。
私は国を追われ、罪人とされ、剣を取らなければ生きることすら許されなかった。
それでも、戦場で戦い続け、今こうして生き延びている。
なのに、彼は。
「……ははっ。やっぱり、お前は色気がないな」
乾いた笑いとともに、彼の声が落ちる。
剣の切っ先を向けられながら、それでも余裕を崩さないその態度が、胸の奥を焼く。
ああ、本当に。
本当に。
心の奥に残っていた最後の何かを、こうやって無造作に踏みにじるのね。
何度も刃を交え、憎しみを募らせてきた男との決着。
この戦いが、すべてを終わらせる。
私は勝つ。
そして、彼の首を討ち取る。
――そう、決めていたのに。
「……っ!」
不意に視界が揺れる。
血の匂いが濃くなる。
何かが、私の体から流れ出しているのがわかった。
身体が重い。
息が浅い。
思考が追いつかない。
気づけば、膝が地についていた。
「……終わりだな」
彼の声が、遠く響く。
目の前には、突きつけられた剣。
「殺せ」
私は静かに言った。
もはや恐れも、悔しさもない。
ただ、ここで終わるのなら、それでいいと思った。
彼が私を本当に捨てるというなら、ここで私を消してしまえばいい。
だが、彼は嗤った。
「生かしてやるよ」
「……なに?」
「お前はこのまま、生け捕りだ」
その瞬間、心臓が軋むような痛みを覚えた。
なぜ。
なぜ、私を殺さない?
剣を振るう手に、迷いはなかったはずだ。
今ここで私を斬り伏せることが、最も理に適っているはずだ。
それなのに、なぜ――?
今さら、何のために。
彼の琥珀色の瞳が、私を見下ろす。
そこには、何の感情も映っていなかった。
私は、この男を愛していた。
この男と生きていく未来を、一度は夢見た。
でも、もうその想いは、灰になったはずだった。
なのに、胸の奥がひどく痛いのはなぜだろう。
裏切られた憎しみは、とうにこの身を焼き尽くしたはずなのに。
なぜ、私はまだ――
この男の言葉に、心を揺さぶられてしまうのだろう。