どうかしていた
……なんだ?
車座の輪から、一匹だけ立ち上がったゴブリンが離れる。呑気にあくびなんかしながら歩いて行く。
糞でもするのだろうか。ゴブリンでもトイレは一人でしたいものなのだろうか。それか、食い物か飲み水でも探しに行ったか?
分からないが、事実として一匹だけ単独行動し、そいつは獣道の方へ向かっている。
考えるより先に、自分の身体が動いていた。茂みに身を隠しながら、音を立てないように移動する。
動きながら必死で頭を回す。
「チクショウ……どうすべきだ? どうしたらいい?」
口の中だけで囁いて、自分自身に問いかけても答えは出ない。当然だ。自分の人生の中で、こんな経験など一切ない。
いいや、違う。答えなんかとっくに出ているのだ。冷静な自分がずっとギャアギャアわめいている。
さっさと逃げ出せ。なにもできやしねえ。坊主には索敵警戒の仕方を教えてある。運が良ければ先に気づいて逃げられるだろ。
群を離れた一匹。そいつの死角から、息を殺して近づく。
ゴブリンは警戒もしていない。伸び放題の爪で、腰に巻いたぼろ切れの上から尻を掻きながら歩いている。手ぶらで武器も持っていない。
頭はうまく働かない。ただ、やめておけ、と頭のどこかが叫んでいる。
ククリ刀の柄を握った。
木の幹や茂みに身を隠しながら、音を立てず近づいていく。
忍び寄るのは簡単だ。相手はまったく警戒していない。この間合いなら一気に距離を詰めれば、確実に奇襲は成功する。
じりじり近づいていく。もしここでいきなり振り向かれたら、さすがにこの貫頭衣も役にはたたない。ククリ刀を持つ腕が震えた。心臓の音がうるさい。逃げ出すのならまだ間に合う。
ここからはもう、あの獣道が見える。
「―――とりあえず一匹殺す」
駆けた。足音が鳴るのも構わなかった。ククリ刀を抜く。
一撃で殺す。悲鳴も上げさせない。向こうにいる群には気づかせない。
一匹殺してすぐに離れる。なかなか帰ってこない仲間を探しに来て死体を見つけたゴブリンどものために、足跡とかをわざと残して追ってこさせる。あとはどうにかして逃げ切る。
とにかく、獣道やマナ溜まりからヤツらを離す。
足音に気づいたゴブリンが振り向いた。ククリ刀を振りかぶる。
驚愕し目を見開いた醜い顔の小鬼へ、剣を振り下ろす。
「ギィアァァッ!」
渾身の力で振り下ろされたククリ刀は、首の付け根から心臓辺りまでめり込むように深々と叩き斬り……ゴブリンに盛大に悲鳴を上げさせた。
「チクショウ……クソが!」
悪態を吐く。もう音を殺す必要はなくなった。
深く入ったククリ刀が抜けず、血反吐を吐いてもがくゴブリンの腹を乱暴に蹴って引き抜いた。反動でバランスを崩して尻餅をついてしまう。
魔物を殺したのは初めてだった。なんだよ自分にもできるじゃねえか。相手が一匹で手ぶらで奇襲できるんなら殺せるな。―――馬鹿なこと考えてねえで次だ。
悲鳴を上げさせずに殺すことはできなかった。そりゃそうだ。自分は剣の達人でもなんでもなくて、ただククリ刀を力一杯振り下ろしただけ。断末魔もなく即死させるなんて器用な真似ができるはずもねえ。
すぐに向こうのゴブリンたちがやってくる。全力で逃げなければならない。どうせ痕跡はわざと残すつもりだから、もう脇目も振らず走ればいい。
右に行くか、左に行くか。悠長に考える暇はない。どちらでも問題ない。数十年も薬草採取で生きてきた自分にとって、この森は庭みたいなものだ。いや、この森だけじゃねえ。町の周辺なら、この自分に知らない場所なんざない。
いきなり予定とは違ったが、大丈夫だ。逃げ切れる。
脚を動かす。左だ。一旦丘の方へ行ってから、獣道をマナ溜まりの場所を迂回するように町を目指す。もし途中で追いつかれそうになっても、自分には森に溶け込む貫頭衣がある。隠れてやり過ごすことも可能だろう。
とにかく今は全力で走―――
脚を掴まれた。顔面から盛大に転ぶ。げえ、とみっともない悲鳴が出る。
身を起こして見れば、さっきたしかに致命傷を与えたはずのゴブリンが、憎悪に歪んだ顔で自分の脚を掴んでいた。
致命傷を与えたとしても、即死でなければ生き物は動く。完全に息の根が止まるまでは動くのだ。
「っこの、死に損ないが!」
力一杯顔面を蹴った。それでも掴まれた手が離れなくて、二度、三度と蹴る。
四度目でやっと手が離れて、急いで立ち上がった。
「――――――ッ!」
叫び声がして、血の気が一気に引いた。顔を上げる。
こちらに向かってくるゴブリンの群……その先頭の、こちらを指さして叫び声を上げている一匹と、目が合う。
「クソがよおっ……!」
ククリ刀を構える。




