はじまりの夜明け
男の長い長い物語は、そこでようやく、終わりを告げた。
虫たちの声もいつしか聞こえなくなって、山の緑に抱かれるように立つこの家には柔らかな静寂が立ち込めている。
男は、そっと目を閉じた。
そうして布団に横たわる少女へと、静かに言葉を投げ掛けた。
「──起きているんだろう、彩。知っているぞ」
少女からの返事はない。
だが、男は気付いていたのだった。部屋に入ってきたその瞬間、動かないはずの少女の肩が、かすかにぴくりと震えたのを。
そして、男が話を進めてゆくに従って、その目尻からきらりと光を放つ何かが一筋の流れを作っていったのを。
男は目を閉じたまま、少女の頭へと手を伸ばした。土の色にも似た、ごつごつとした質感のある手。数多の苦労と困難にまみれ、汚れてきたその手で、少女の髪を優しく撫でた。
「あと一分、こうやって目を閉じていようと思う。その間に目を醒ましてくれたら、俺としても嬉しいんだが」
独り言のようにそう口にした男は、宣言通りに一分間、頭を撫で続けた。男の手に比してその頭はあまりにも小さくて軟らかく、少し力を入れてしまえば簡単に砕けそうに思えた。
脆い。だからこそ余計に、この手で守りたいのだ。
やがて閉じられた網膜の向こうに、しゃくり上げるような小さな声が響き始めた。男の撫でている頭はゆっくりと起き上がり、男の正面に座り込んだ。
目を開けた男の前には、両足をぺたんと畳の上につけて座りながら、泣き腫らしたような赤い瞳で男を見つめる少女の姿があった。
「いつから、起きていた?」
静かに尋ねた男に、少女はこくんと首を垂れた。
目に溜まっていた涙が跳ねて、布団の上にぽたりと大きな染みを作った。
「征さんがこの部屋に入ってくる、ほんの少し前でした……。私……私っ」
「心配するな。空寝してたことも、今まで俺に本当のことを隠していたことも、俺は怒ったりせん」
優しい声になっているだろうか。自問しつつ、男はそう言い聞かせた。
「起きていたなら、聞いてくれていただろう。お前が沢に落ちてからの一週間、何があったのか。その間、俺がどんなことを考えていたのか」
「はい……」
「それならいい。俺のしがない独り言も、無駄にならなかったというもんだ」
「ぜんぶ……全部、聞いていました。私も知らなかった。征さんの思い、不安、私は何も知りませんでした……」
少女の声は、かすれていた。
啜り上げるたびに涙が頬を伝って落ちて、それを拭おうと胸の前に出した腕は、すでにその滴に濡れていた。
男はそんなよれよれの少女を、ただ、じっと見ていた。
失踪したあの日、最後に目にした少女の姿が思い出された。恐怖──否、絶望のために瞳孔の奥までどす黒く染まり、悲痛に満ちた眉の下で見開かれていた、あの日の少女の目。
今はそのどちらも、涙で赤くなったその目の中に窺うことはできなかった。
「私……ルームメイドの気持ちに、なってみたかったんです」
少女は震える声で語った。
「征さんの言う通りです。私、ルームメイドのいる家庭で育ちました。頑張り屋さんのルームメイドがかっこよくて、憧れて、大好きでした。いっつも後ろをついて回っては真似事をして、お母さんに笑われるくらいだった。……だけど、その大好きだったルームメイドは、私の目の前で燃えて、死んでいきました」
「…………」
「ルームメイドは笑ってました。何が起きてるのか分からないみたいに、笑いながら燃えていました。すっごく哀しそうな笑いだった……。そのうち家にも燃え広がって、お母さんも、お父さんも、弟もおばあちゃんも、みんな……みんな逃げ遅れました。助かったのは廊下の玄関近くにいた、私一人だけでした……」
その時、聞き役に徹している男の目からも一筋の光が落ちていったのを、少女が目にすることはなかっただろう。
「ルームメイドを恨みたかった。嫌いになっちゃいたかった。どんなにそう思ったか分からないです。だけど、ルームメイドを大好きだった昔の私のこと、どうしても忘れられなくて……。だから知りたくなったんです。あの時、笑いながら死んでいったルームメイドが、いったいどんな気持ちでいたのか。私がルームメイドになれば、もしかしたら少しは分かるかもしれないと思いました。
でも、ルームメイドとしてこの場所で暮らすようになって、だんだん……この村に住む人たちのことが、大切な存在のように感じられるようになってしまいました。以前みたいに楽しく暮らせたらって何度も、何度も思いましたけど、そのためには私の正体を明かさなきゃいけない……。市役所の人が征さんに怪しまれているのを見て、本物のルームメイドの岩井さんにも怪しまれて、正体を明かしたら大変なことになるって悟りました……。だから次の日に、征さんがパソコンの画面でルームメイドのことを調べているところに出くわした時、はっきり分かったんです。ああ、もう何もかもが、おしまいなんだなって……。目の前が真っ暗になって、気付いたら私、逃げ出していました……。
誰にも見つからない場所へ行きたかった。お人好しで、しかも大切な人を騙してしまった私にはもう、誰の目にも触れないところで死ぬ以外の未来はないって思ったから……。だけど……泣きながら走っていたら前がちっとも見えなくて、それでもがむしゃらに走ろうとしたら、痛めた足が攣って…………そこが……崖だったんです……っ……」
泣きじゃくる少女を、男は太い腕で抱き締めた。
「もう、いい。もう何も語るな」
「でも……でもっ……!」
「俺という一人の人間を騙したんだ、お前にも落ち度はあろう。だが、そんなのは俺が許せばいい話だ。罪の意識を背負う余裕があるんなら、お前にはその分だけ、前向きに生きることを考えてほしい」
「征さん…………」
「言っただろう。俺もお前の手伝いが生んだ余裕で、前向きに生きる道を……見つけることができたんだ」
な、とばかりに男は、抱き締める力を緩めた。
「息子から聞いたぞ。小平七中とか言ったか、通ってた中学校は長期休学扱いになっているんだろう。もし学校に通いたいなら通わせてやる。ここから小平市は近くはないが、通学は不可能ではないはずだ。あんなにしっかり者だったお前に、できないはずはない。
お前には未来がある。年老いた俺より遥かに開けた未来がある。どんな道だって選べるし、選んでいいんだぞ。──その選択の結果、もしもこの家に残ってくれるのなら、その時は一緒にお前の大切なルームメイドの死に際の気持ち、考えていこうじゃないか。松尾の連中や、坂本や、岩井晴たちと一緒に、人里を静かに見下ろすことのできるこの日の出の山奥で、楽しく……暮らそうじゃないか……」
少女には最早、言葉で答えを返すだけの力は残ってはいなかった。
──“何の見返りも要求せずに、ただわたしたちに尽くそうと、よりよい生活をもたらしてくれようと、懸命に努力してくれる。そんな子、今時どこにもいないじゃないの”──。
その時、男の耳元をかすめたのは、かつて知人の母親が口にしたそんな一言だった。
全くだ、と思う。見返りもなしに働けるほどゆとりのある人間なんて、ほんの一握りしかいないのだ。
自分だってそうだった。夢を持つ余地なんてどこにも残されていないこの街では、誰もがみな、自分のささやかな願いや信念を糧にして、不吉な未来予測が報じられるばかりの世の中を一生懸命に生き抜こうとしている。それをいったい誰が責められるだろう。責められないからこそルームメイドは画期的で、便利で、人々に希求される存在であり続けたのだ。そしてそうであるからこそ、ルームメイドは“人間らしくない”存在だったのだ。
少女は、それを目指そうとした。大切な何かを失うのを恐れ、人間であることをやめて一介の『ロボット』になろうとした。
そして結局、少女は人間でない存在に昇華することができなかった。どんなに頑張って仕事に励んでも、その陰で人間らしい振る舞いを捨て去ってしまうことができなかった。──思えばこの一件は、たったそれだけのことだったのかもしれない。
たったそれだけのことが少女にとってどれほど恐ろしいことなのかを、男は少女の口から初めて知らされた。今なら想像が及ぶ。変われない自分に焦りを覚えながら、真実が露見することの恐怖に怯えながら、それでも大切な人を騙し通して生きていかなければならない少女の苦しみが、どれほど大きなものだったのかも。
そして失踪の寸前、少女が感じたであろう絶望が、どれほど深いものであったのかも。
今の男にできるのは、涙に姿を変えて少女の心からあふれ出した悲哀や、恐怖や、それから絶望を、今にも力を失いそうになっている少女もろとも、この腕で抱き止めてやることだけなのだ。
男の胸の中で泣きながら、少女は繰り返し何回も何回も、大きく首を振っていた。
男の目にも涙が輝いていた。だが、少女と違って男は、微笑んでいた。
その微笑はきっと、長い人生の中で幾度も絶望の淵へと沈みかけた男だけが知る、心からの安堵の証だったのだろう。
目頭をぐいと押さえ、似合わない涙を拭い去った男は、少女に負けないほど大きく大きく、頷いてみせたのだった。
午前四時半を過ぎ、窓の向こうの東の空は明るい紫色に変わっていた。鳥たちの鳴き声も聴こえる。
もうすぐこの場所に、日の出がやって来る。
「……体調、どうだ」
男が尋ね、少女はにっこりと笑った。
部屋の中にも明るさはゆるりと流れ込んできていて、今や互いの顔をはっきりと見ることができるほどになっていた。だから男にも分かる。その笑みに、儚い感情は含まれていないと。
「……おかげさまで、すっごく、いいです」
「それならいい。目を醒ましたと、後で病院に連絡しておこう。恐らくまだ何度か、病院と警察には厄介になると思うぞ」
「私、色んな人たちに謝らなくちゃいけないですね……。警察の方にも、お医者さんにも、村の人たちにも、それから市役所の──」
「バカ息子に謝る必要はない。きっと奴の方から謝ってくるだろうからな。勝手なことをした罰で、今は小平警察署の留置所にいるそうだが」
「やっぱり、私のせいで……」
「気にするな。俺も実のところ、謝りに来た奴を目にして以来、責めてやる気持ちがいっこうに起こらなくてな。面会に行って、奴があんまり悄気ているようなら、ちょっとくらい励ましてやろうかと思ってるくらいだ。もちろん雷はきっちり落とすがな」
くすっと息を漏らした少女の目は、まだ赤い。
そんな少女を見て、顔洗って来い、と男は命じた。
あれだけ一瞬で少女の失踪が明らかになったのだ。今日という一日が半分も経たないうちに、少女が復帰したという噂はこの狭隘な村を駆け巡ることになるだろう。あれだけ心配して胸を痛めていた村の皆のことだ、きっと我先にと少女の様子を見に来ようとするに違いない。一年間に渡って男を騙していたことなど、誰も咎めまい。──それは、今日までの日々の中で少女が確かに培ってきた、信頼があるから。
まずは落ち着き、心を寄せてくれていた人たちを安心させること。これからのことを考えるのも、過去を反省するのも、それからで十分に間に合うことだ。男はそう考えていた。
そして、何をするのにもまずは、エネルギーが要る。
「朝飯にするぞ。──今日からまた、忙しくなるからな」
◆
介護や育児の担い手不測の問題に頭を悩ませる全国の自治体に先駆け、東京都が株式会社東野重工の全面協力を得て開始した無償の福祉ロボット派遣サービス【ルームメイド】は、敢えなく失敗に終わった。
ルームメイドに対する世間の期待は、最後の最後まで高かった。介護や育児の現場でのロボットの有用性は、ルームメイドによって間違いなく証明された。だが、技術的な難点を乗り越えることも、扱う側の人間の倫理的問題を克服することも、ルームメイドはついに叶わなかったのだ。虐待や発火事故によって多くのルームメイドがガラクタと化し、多くの人命が危険にさらされ、多くの人々がルームメイドのために涙を流した。導入当時にあれほどもてはやされていた割には、あまりにも悲惨な末路と言わざるを得なかった。
しかし、ルームメイドのサービスは新規供給が停止されただけだ。今なお数千の世帯でルームメイドは家族の一員として、その家族に受け入れられ、愛されながら働き続けている。ルームメイドの効果は確かである以上、いつの日か眼前の問題点をすべて乗り越えた新型のルームメイドが再び登場して、日本最大の人口を抱えるこの都市の福祉に新たな革命をもたらすのかもしれない。
何より──与えられた職務に忠実に、しかし楽しそうに取り組むルームメイドの姿は、たくさんの人々の胸に、何かを問いかけたはずだった。
被介護者と介護ロボットという関係を越え、山奥の果てに建つ一軒家の中で新たに共同生活者となった、男と少女のもとへ。
日の出町の朝が、今日も関東平野の彼方から訪れようとしている。
ここまで本編をお読みくださり、ありがとうございました!
作者の蒼旗悠です。
本作『ルームメイド』は、もしも介護や育児といった労働にロボットがあてがわれる時代が来たら──という設定の下で書かれた、言わばSFヒューマンドラマとなっております。
作者は長らくSFチックな作品を書いていなかったので、以前より腕が落ちているような気がしてなりません(苦笑) それっぽい感じの部品や機械の名前が多数登場したと思いますが、ほとんどすべてが架空のものです。ちなみにSS(周波数拡散、スペクトラム拡散とも)と炭素繊維強化プラスチック(CFRP)に関しては、ちゃんと実在している技術になります。
本作執筆の動機は、2015年公開の某映画に主題歌として採用されていた、西野カナさんの楽曲『トリセツ』でした。トリセツ→取扱説明書→「そうだロボットにしよう」→「そうだメイドロボットにしよう」という、かなり無理やりな連想ゲームで着想しています。最終的にはそれらしい形でまとまった作品になったかな、と自負はしています。
作者自身はこんな人型ロボットがいたら、やはり怖いかなと思ってしまいますが←
本作をお読みいただいたことで、読者の皆様の心の中で何か動くものがあったとしたら。
作者としては、感無量です。
感想、レビュー、評価ポイント諸々お待ちしています!
2016/9/10
蒼旗悠