九章『彼女は涙を、彼は血を流す(5)』
だいちは地面に倒れこんだみかげを冷静に立ち上がらせると、その頬を思い切り殴った。みかげは幾らか吹っ飛び、地面に倒れる。
「いてぇ」
「外れたねじは戻ったか」
「うるせぇ」
みかげは頬をさすりながら立ち上がると、そこにさくらの姿を見つけて不躾にも指をさした。そして、先ほどまでの狂った様子とは打って変わって、いつもの調子で言葉を発した。
「あら? 手前は確か、ひなたの嫁だよな」
「だから、まだよ」
どこかで一度したような会話をし、さくらは呆れたように笑って腕を組んだ。
「どっちにしろ、あれだ。俺んとこよりフブキのとこに行ったほうがいいんじゃねぇか」
その指摘は、だいちに向けられたようでもあり、それでいてさくらに向けられたようでもあった。
「早く行け。多分だが、いや、俺もそういうのは考えたくないんだが……」
みかげにしては珍しく歯切れの悪い物言いだった。
「はっきり言いなさいよ。らしくないわね」
「相変わらず可愛くねぇ女だな。あのバカは手前なんかのどこがいいんだか――」
「殴るわよ」
「まぁ待て。いいか、つまりだな。俺が言いたいのは、早く行かねぇと手前の旦那が死んじまうってことだ」
それに最も早く反応し、青ざめたのはみなみだった。
「し、死なないもん! ひな兄は……ひな兄は死なないもん! 適当なこと言わないで!!」
「なぁ、みなみ。俺は直にあの“化け物”の強さを知ってんだよ。これは冷静な分析の賜物だ」
みかげが言い、みなみは唇をかみ締めた。さくらは血の気のひいた顔をだいちに向ける。彼はその顔を見て、つぶやくように言った。
「行くしかないでしょうね」
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「手前は行かないのか」
2人が去ったというのに、その場を動かないみなみを見て、みかげは地面に寝転がった姿勢で訊ねた。
「うるさい」
「あ?」
みかげは首だけを起こして、みなみの様子を見る。ぺたりと座り込んだまま、涙を浮かべてこちらを睨みつけている。
「手前……。もしかして腰抜けてんのか」
「黙れ。それ以上しゃべると、斬る」
「はっ」
みかげは静かに目を閉じ、音を聞く。
みかげの耳を幾分か楽しませた風の音が、急にぴたりとやんだ。
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見たくない光景が見えた。
血だらけの彼を見て、彼女は理性を失いかけた。
しかし、そうならなかったのは彼女を見たからだ。短剣を握り締め、2人のいる場所へ向かっている。
彼女は彼女が何をしようとしているのかを理解し、ここまで走ってきたことで既に限界に達していた足を叱責して速度を上げた。
フブキに向かっていくユキナの手を押さえつけたのは、さくらだった。
さくらは彼女の手からすばやく短剣を奪い去ると、ユキナがやろうとしたことを代わりに行う。
彼女は、それを行う前にユキナにウィンクをしてみせた。ユキナは何も言わずに泣きそうな顔でさくらを見つめていた。
そして、さくらは一歩を踏み出す。
自分が守りたい人、愛する人のために、それを――
瞬間、彼女の頭に目の前に映っているものとは違う光景が浮かびあがった。
幼い日の自分と、倒れていく男。
(ああ、そうだ。あたしは――)
全てを思い出した彼女は、それでも躊躇いなくそれを突き出す。
彼女は、フブキの背中に短剣を突き刺した。
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短剣がフブキの背中に刺さると同時にひなたの腕から力が抜け、さらにフブキの手からも力が抜け落ちた。彼の手から離れた剣は、ひなたの身体とともに地面に落ちる。血で濡れた地面は、べちゃ、という嫌な音を立てて、ひなたを受け止めた。
「この機を逃すと、降格どころではすまないな」
ひなたに駆け寄るさくらを置いて、だいちはフブキの前に立ちはだかった。ひなたに首を締められたせいで、肺の中の酸素が足りなくなったのか、必死に呼吸をして酸素を確保しようとしているフブキの両膝に、だいちは迷いなく銃弾を打ち込む。背中と両膝から血を流してはいるものの、彼はまるで痛覚を失ったかのように怪我をした部分には目も向けない。見ると、ひなたに見せた苦痛の表情は既に消え去り、いつもの無表情に戻っていた。
痛覚がなかろうと、膝を撃たれて容易に立ち歩けるものではない。彼が本物の“化け物”であったならば事情は違ったかもしれないが、フブキが立ち上がることはなかった。
「良かった。君はまだ人間のようですね」
だいちは背後でへたり込んでいる少女のことを思い、心の底から安堵したように息をはいて、手錠を取り出した。
「黒月ことフブキ……確保」
冷たい音がした。フブキは手錠がはめられると案外あっさりとだいちに従った。暴れられるかと思っていただいちは、それにも安堵のため息をつくことになる。
後ろを振り返れば、不安そうな瞳を向けるユキナと睨みをきかせるハム吉がいて、だいちは苦笑交じりに口を開いた。
「ここは私を信じていただきたい。ひなたとともに例の病院へ向かうとしよう」
剣が刺さったままの姿で倒れ、大量の血を流して顔色を失っているひなた。
虫の息となったひなたを抱きしめ、嗚咽を漏らしながら動けなくなったさくら。
隣で溢れ出る涙を拭おうともしないさくらにさえ一切の興味を示さない無表情のフブキ。
手錠をかけられ、背中には妹の短剣が刺さったフブキを見つめて涙をこらえるユキナ。
そんなユキナを慰めるでもなく、彼女の肩に立ち決して傍から離れるつもりのないハム吉。
偉そうに凄みをきかせるハム吉に、真面目な顔で「信じろ」と言い切っただいち。
ひなたとフブキの元へ向かっただいちを追うことのできなかったみなみ。
未だに腰が抜けて動けないみなみを放っておいて、1人その場を立ち去るみかげ。
そして、彼は見る。
血だらけで倒れ、彼女に抱きかかえられているあの男の姿を。
「生きてんのか、あれ」
その言葉は誰にも届かず、消えていった。
そしてまた、彼も見る。
かつて相棒だった男が去って行く後ろ姿を。
その姿は他の誰にも悟られず、消えていった。
この日、1つの歴史が幕を閉じた。
――史上最大の悪人として知られたフブキの身柄が確保されたのである。




