余章『さくらの場合』
「ごめんなさい」
それが生まれてきてから最もたくさん彼女が発した言葉であった。
「ごめんなさい」
今日も言う。昨日も言った。多分、明日も言う。数えるのも疲れた。謝ろうが、謝らなかろうが、殴られるのは決まっていた。それでも彼女は謝った。悪いことをした覚えはない。その謝罪は、罪悪感からではなく、完全に恐怖からくるものだった。
つまり、彼女は虐待を受けていた。
母は彼女が幼いときに死んだ。残された彼女と父親は、どうしようもなく相容れなかった。父親は事あるごとに彼女を殴った。それはたとえば、雨が降った、寝起きが悪かった、といったくだらないことだった。
早いうちから彼女は悟っていた。自分の父親は狂っている、と。しかし、それでも自分の肉親には違いない。いつかはきっと優しく笑ってくれる。そう信じて、彼女は今日も謝り続ける。
「ごめんなさい」
――しかし、神は無情だった。
その日、父親は特に虫の居所が悪かった。朝から布団にくるまって震えていた彼女は、額に汗をかき嫌な予感を覚えずにはいられなかった。
そして、それは的中する。父親はいきなり彼女を捕まえると、思い切り壁に投げつけた。そのせいで口が切れたのか、血の味がする。父親はどうやら酒を飲んでいるらしかった。
「ごめんなさい」
少女の口から機械的にそう漏れると同時に父親は歪んだ笑いを浮かべた。父親は苛立ちを隠さずに彼女の頬を殴った。続けざまに腹を蹴った。まるで、自分の優位を確かめるように彼女を傷つけていく。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ご、めんなさい」
「ご、めん、なさい」
「ご、め、んな、さい」
「ご、め、ん、な……さ、い」
殴られる度、蹴られる度に彼女は謝った。それが父親の怒りをさらに買う結果になった。父親は「うるせぇんだよ!」とはき捨てると、台所に向かっていった。
ひとまず終わった、と彼女が思ったのも束の間、父親はいやらしい笑顔を浮かべながらその手に包丁を持って戻ってきた。
そして、それは起こった。父親がいきなりその包丁を突きつけてきたのだ。
(ごめんなさい――)
頭ではそう思いながら、彼女は初めて父親に反発した。もしかするとそれは“人間”としての本能だったのかもしれない。彼女は床を転がって父親をかわした。酔っ払っていた父親はよろめいて倒れ、包丁が手から離れる。そのまま四つんばいになった父親を見て、彼女の頭は一瞬にして冷めた。
まるで別の自分が存在して、それが外から今の自分を見ているように錯覚した。
彼女は父親が落とした包丁を拾い上げる。父親はまだ起き上がらない。冷め切った頭はこれを実行してしまえば、ずっと願ってやまなかった、いつかは自分に優しく笑いかけてくれるという些細な願いが消えうせてしまうだろうなどと自嘲的に笑っている。
彼女は、父親の背中に包丁を突き刺した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そこから彼女の記憶は真っ暗になった。
数分前のことさえ思い出せなくなった彼女は、ふと気づくとある綺麗な花が咲き誇る木の下に腰掛けていた。
自分の名前も、どうしてここにいるのかも、“何がきっかけ”で記憶を失ったのかも、全て分からない彼女はある願い事をする。
それはもはやただの偶然であったかもしれないが、彼女が記憶を失って初めて願ったことは皮肉にも記憶喪失となる前の願いと非常によく似ていた。
いつか、自分に優しく笑いかけてくれる人が現れますように……と。
――1人の少女が、ひとりぼっちになった。




