余章『フブキの場合』
「なんだ、これ?」
自分の身体が動かないことに気づいたときには、もう遅かった。周りには手術衣を着た連中がおり、自分は手術台らしきところに乗せられている。
「おい、なんだよ、これ!」
自分の声が出ていないことに気づいたのは、そのときだった。必死にもがいてみたが身体はぴくりとも動かない。麻酔でも撃たれているのだろうか。
「では、始める」
そう言った男を彼は睨みつけた。正確には、睨みつけたつもりだった。顔の筋肉は動かず、ぼーっとした顔で彼は男を見たに過ぎなかった。
この場の代表者と思しき清潔感に包まれた男を見て、彼はその顔をどこかで見たような、そんな懐かしい感覚にとらわれた。
「どこかで、会った?」
彼はぼんやりした頭でそう考えたが、どうしても思い出すことができなかった。もし彼が、この男とこの場ではなく、別のところで会ったならすぐに気づいたかもしれない。そうすれば、もっと“良い出会い”になったかもしれなかった。
「どうでもいいか……」
それが、彼が正常であったときの最後の思考だった。
その後のことは、よく分からない。
彼は、身体の底から浮かび上がる衝動を抑えきれずに、破壊行動を開始した。逃げ喚く人々、泣き叫び人々。それを見ても、彼の心は何も感じなかった。
しかし、無となった彼の心に何かが引っかかる。自分には、とても大切なものがあった気がした。彼がそれを思い出すのは、もう少し先の話で、そのせいでその大切なものを傷つける結果になるのも、もう少し先のことだった。
本来ならば、すぐに思い出せることだっただろう。しかし、それを思い出せなくなったのは、あの男の姿を見つけたからだ。
彼は自分が監禁されていた建物から脱走する途中、手術室で見た男を見つける。手術衣を脱ぎ軽装になった男を見て気づいた。
この男がいったい何者であるかを。
そう思った瞬間、彼の足はとある場所へ向かっていた。対する男も何かに気づいたのか、一目散に駆け出した。
あやふやな記憶を辿り、信じられない速度で走る彼。
確かな記憶を辿り、懸命に車を走らせる男。
同じ目的地に向け2人の男が動き出す。先に到着するのは、どちらになるのか。それは、まもなく判明する。
――フブキが、ひとりぼっちになった。




