余章『ユキナの場合』
「お兄、ちゃん?」
それは確かに兄だった。数年前、旅に出ると言って家を飛び出したっきり音沙汰のなかった兄。昔は、自分と一緒によく遊んでくれ、自分に危険があったら真っ先に駆けつけて助けてくれた兄。
しかし、今、目の前にいる兄はそのときとは明らかに別人だった。
両親の返り血を顔に浴びて、呆然としながら少女は彼を見上げていた。
表情のない顔。基本的に家庭内で大事に育てられた彼女は外の事情には疎かった。けれど、両親がこっそり話しているのを聞いて、なんとなく兄がおかしなことに巻き込まれていることには感づいていた。
でも、それでも、まさかこんなことになるとは思わなかった。
「ねぇ……お兄ちゃん?」
少女が震える声で話しかける。しかし男は表情を変えずに自らの両親を斬りつけた剣をしまった。そして、まるで少女のことなど眼中にないように行動を開始する。
「な、何をするの?」
男はまるでそこにあることが分かっていたかのように手馴れた手つきで引き出しを開けると、そこからマッチを取り出した。
少女の顔から血の気が引いていく。そんなことをされたら――
どうなる?
「やめてぇ!」
それは無常な叫びだった。しかし、男は迷うことなくマッチを擦ると、それを床に投げ捨てた。1本、また1本と火をつけていく。1つ1つの火は微弱だが、それでもこれだけ多量のマッチが投げ捨てられれば、家1件を燃やすのは容易だった。
燃え盛る家の中、少女は頭を抱えて動けなくなった。目の前の現実を理解しようとしても頭が追いつかない。この先、どうすればよいのかが分からない。じっとしていてはいけないだろうことはぼんやりと分かっている。けれど、動けない……。
その身体が不意に宙に舞った。彼女がなんでそうなったかを理解したのは、窓から外に放られる瞬間に、男が相変わらずの無表情で自分をじっと見つめていたときだった。
「お兄ちゃんっ!」
男が自分を外に放り投げたのだ。理由は分からない。助けてくれたのか、それとも別の理由があるのか。
地面に転がって、少女は燃え盛る家を呆然と見つめながら拳をぎゅっと握り締めた。
「おい」
不意に声が聞こえた。声の主は家の傍に止めてあった父親のバイクの座席に座り込んでいた。昔、兄と共にそれで遊んでいて怪我をしたことがあったことを思い出した。思えば、あのときからかもしれなかった。兄が必要以上に自分に気をかけてくれるようになったのは。
「ぼーっとしてる余裕はねぇぞ。とにかくここから逃げねぇと、まずい」
男は燃え盛る家から出てくると、再び、じっと少女を見つめた。そして、剣に手をかけ、そのままぴたりと動かなくなった。
「何だかしらねぇが、ありゃ多分“葛藤”だろ? あれが、お前の兄貴かどうかを判断するのは後回しだ。今は、あいつの意思をかって逃げるぞ」
「……っ!」
少女はぎりっと歯を噛みならすとバイクに飛び乗った。声の主の姿など、彼女の目には入らない。ただ無表情の兄だけに視線を向け、そして悔しそうに背けた。
「行けっ! ユキナ!」
バイクが発進する。強い衝撃が身体に走ったが、振り落とされないように何とかハンドルを掴む。そして、それと同時に男が剣を引き抜いた。しかし、足は動かない。まるで意思と身体が切り離されているかのように、上半身だけが小さく暴れた。
そのおかしな状況はバイクの音が小さくなるころまで続いた。やがて、男は剣をしまうと燃えて崩れ落ちた我が家に視線を向け、それから少女が去っていた方向を見据えた。
これまで無表情だった男の顔が少し緩んだことに、もう遠くに走り去った少女は気づかなかった。
――ユキナが、ひとりぼっちになった。




