83話 【ゼニス歴1079年 グレアム視点・ラドゥル視点】
三村を確保してから、五日が経った。
その五日間、大きな戦闘はなかった。
双方とも、損害を立て直す時間が必要だった。
儂は、その間に増援を要請した。
バルドール帝国本国から、さらに五千の兵が到着した。
連合軍の総数は、二万を超えた。
対する新生アステリズム神聖国軍の総数は、斥候の報告によれば、五千程度。
数の上では、四倍の差がある。
「これだけの数の差があれば」
本陣で、ラドゥルが言った。
「向こうに、もう打つ手はないはずだろう」
「そう思いたい」
儂は、地図を見ながら答えた。
数の差は、確かにある。
だが——これまでの五日間で、儂はその数字を、簡単には信じられなくなっていた。
四倍の数を相手に、向こうは、一度も大きく崩れていない。
その日の午後、ラドゥルが、捕獲した文書の束を持って本陣に入ってきた。
「グレアム。これを見ろ」
「何だ」
「ジョウ村の敵陣跡から見つかった文書だ。配給計画の記録だ」
儂は、文書を受け取った。
文字は、新生アステリズム神聖国の教育で広まった、簡素な書体だった。
その内容を、儂は読んだ。
配給量、兵力配置、予備兵力の集結地点。
すべて、日付ごとに、細かく記録されている。
「これは——」
「最後のページを見ろ」
ラドゥルが言った。
儂は、最後のページを見た。
そこには、地図のようなものが描かれていた。
平原全体を示す簡略な地図。その中に、いくつもの矢印が、書き込まれている。
矢印の一つは、連合軍本陣の位置を、まっすぐに指していた。
その矢印の根元に、小さな注記があった。
「『最終局面、第七部隊を以て中央突破』」
儂は、その文字を読んだ。
「第七部隊、というのは」
「分からん。ただ——」
ラドゥルは、別のページを示した。
「この文書の中で、第七部隊だけが、装備の項目に『新型銃、全員配備』と書かれている。
他の部隊は、半数程度なのに、だ」
「全員、銃を持った特殊部隊、ということか」
「ああ。おそらくそうなのだろうな」
儂は、文書を、もう一度見た。
最終局面、第七部隊、中央突破。
その文字が、頭の中に焼き付いた。
「これは、いつ書かれたものだ」
「日付はない。ただ、紙の劣化具合から見て——比較的、最近のものだろう」
「ただ、最近、ということは」
「ああ。戦争が始まる前から、この計画は、既に用意されていた、ということだろうな」
儂は、文書を、地図台の上に置いた。
「最初から——こうなることを、想定していた、ということか」
「その可能性がある」
儂は、しばらく、その文書を見ていた。
神聖国は、最初から最悪の事態を想定し、その時のための計画を用意していた、という訳だ。
補給を断たれた時。
村を確保された時。
そして——指揮系統が乱れた時。
「グレアム」
「ああ」
「フィデルが前線に来ることで、大いに指揮が乱れる。それも——軍師は、想定していたのか」
「……いや、それは想定外だろうな。ただ」
儂は少し言葉を選んだ。
「想定外、というよりか——むしろ、そうあってほしくない、との願いからだろう」
儂は、その言葉に、何も返せなかった。
窓の外、夜が来ていた。
敵陣の篝火が、前夜よりも、明らかに増えていた。
「カルディアからの情報は」
「フィデルが、自ら前線へ向かう準備をしている、とのことだ」
「本当に来たか」
儂は、地図から顔を上げた。
「なぜ、今になって」
「分からん。ただ——」
ラドゥルは、報告書を見た。
「フィデルの出陣に、現場は強く反対している、という情報はあるようだ」
「それはそうだろうな」
「フィデル自身が痺れを切らしているという事だ」
「なるほどな。もう冷静ではいられないという事か」
「ああ。初めからこれならよかったのだがな」
「ふむ。それで、軍師も大いに反対している、ということだろう」
「軍師の側にも、この状況下においても何か計画があるのではないか、と考えるのが自然だな」
儂は、しばらく考えた。
軍師は、これまで一度も、無謀な戦いをしていない。
村を確保されても、必要以上に抵抗せず、損害を抑えながら、確実にこちらに大きな打撃を与えてきた。
その人物が、フィデルの前線視察に反対する。
それは——フィデルの動きが、軍師の計画を狂わせる、ということだ。
「フィデルが前線に来れば、どうなる」
「簡単だ」
ラドゥルは、地図を見た。
「指揮権が二分化され、現場に混乱が生じる。
これまでの戦いを見る限り、軍師は、常に最小限の犠牲で、最大の効果を狙っているだろう。
フィデルが前線に来ることで、その指揮系統が崩れるのであれば——」
「より大きな何かをしようとする、ということか」
「まあ、混乱が拡大し、何もできなくなる、という可能性のほうが大きいな。残念ながら、それが判断できるタマではなかろう」
儂は、地図のカルディアの印を見た。
フィデルが、なぜ今、前線に向かうのか。
民の士気を上げるため——それは表向きの理由だろう。
だが、本当の理由は——
「ラドゥル」
「ああ」
「フィデルという男は、これまで、自分の判断で、カリスマ性で、人々を魅了してきた。」
儂は、タルワ村での補給線の話を思い出した。
フィデルの直接命令で、補給のない部隊が前へ出され、結果として後退を強いられた、という話だ。
「軍師は、それを分かっている。だから、反対している」
「では」
「フィデルは、それでも来る、ということだ」
儂は、窓の外を見た。
平原に、夜が来ていた。
敵陣の篝火が、いつもより多く灯っているのが見えた。
翌朝、報告が入った。
フィデルが、前線に到着した、という情報だった。
同時に、敵陣の動きが、これまでとは変わったという報告も入った。
軍師の旗が、前線の中央から、後方へ移動していた。
「後退している、ということですか」
ラドゥルが言った。
「いや」
儂は、報告書を見た。
「旗が動いた後、前線の各部隊の動きが、これまでより遅くなっている。
号令が、すぐに通っていない」
「指揮が、乱れている、ということか」
「ああ」
儂は、地図を見た。
軍師が後方へ下がり、フィデルが前線に立った。
それによって、現場への指揮が、これまでのように機能していない。
「これは、好機だ」
ラドゥルが言った。
「指揮が乱れているなら、今こそ——」
「待て」
儂は、地図を見つめた。
窮鼠は、猫を噛む。
その言葉が、また頭の中に浮かんだ。
指揮が乱れている。数は四倍の差がある。これは確かに、好機に見える。
だが——
今までの五日間、軍師は一度も、無防備な姿を見せたことがなかった。
その軍師が、今、後方へ下がっている。
「ラドゥル。軍師が後方へ下がった、ということは——」
「何を考えている」
「前線の指揮を、捨てた、ということだ」
儂は、地図を見た。
「捨てた、ということは——前線とは別に、何かを動かしている、ということだ」
「別の部隊、ということですか」
「分からん。だが——」
儂は、地図の敵陣の後方を見た。
そこには、まだ印が打たれていない。斥候の報告が、届いていない場所だった。
「斥候を、敵陣の後方に出してくれ。可能な限り深く」
「分かった」
ラドゥルが、本陣を出ていった。
儂は、地図の前に、一人で残った。
四倍の数の差。
乱れた指揮。
好機に見える状況。
だが——儂の中で、何かが警鐘を鳴らしていた。
五年前のエルバート王国は、最後まで、儂達が描いた通りに崩れた。
今回は——
儂は、地図の敵陣後方の、何も印のない場所を、長い間見ていた。
風が、本陣の旗を、強く揺らしていた。
その夜、ラドゥルは、本陣の隅で、カインが到着してから整理した部隊配置図を、もう一度見直していた。
「カイン」
「何でしょう、ラドゥル様」
「お前は、ジョウ村で、軍師の旗を見たと言っていたな」
「はい」
「もし——軍師が、後方に三千の兵を集めているとしたら。
その兵を、どこに向けて使う」
カインは、地図を見た。
ジョウ村、タルワ村、ツテ村。連合軍が確保した三つの村。
そして、その後方に広がる、連合軍の本陣。
「ここでしょうな」
「理由は」
「これまでの戦い方を見ると——軍師は、こちらの戦力そのものを削ることより、指揮系統を狂わせることを優先しています。
本陣を直接叩けば、数の差は意味を持たなくなります」
「だが、本陣まで到達するには、こちらの正面部隊を突破しなければならない」
「はい」
「それでも、来ると思うか」
カインは、しばらく考えた。
「捕虜から聞いた話では——軍師は、『生き残るために戦う』と言っていたそうです。
だが、フィデルの前線への着陣で、その前提が崩れたなら」
カインは、地図の本陣の印を見た。
「最後だけは——違う戦い方をするかもしれません。
実際に、私の国でも圧倒的不利な状況下で、それを覆すべく特攻して散ったというその話が英雄譚のように語り継がれております。
当然、軍師もそれを考えているでしょう。
なんせ、彼女は『素人』ですから」
ラドゥルは、その言葉を、しばらく黙って受け止めていた。
「分かった。本陣の防御を、今夜のうちに固める」
「はい」
二人は、夜のうちに、本陣周辺の配置を、もう一度見直した。
風が、強くなっていた。
平原のどこかで、馬のいななきが聞こえた。
遠い音だった。
その音が消えた後、平原は、また静かになった。
明日には、何かが動く。
誰もが、そう感じていた。
ただ、それが、どれほどの大きさになるのかは——まだ、誰にも分からなかった。
本陣の灯りが、一つずつ消えていった。
誰も、よく眠れなかった。
夜が明ければ、平原の様子が変わる。
それだけは、誰もが、なんとなく、感じていた。




