79話 【ゼニス歴1079年 ニール視点】
南部食糧備蓄の配分誤差が表面化したのは、それから六日後だった。
ユーリが持ってきた報告書には、数字が並んでいた。
「南部三区の配給量が予定より十二パーセント不足しています。
現地担当者が北部備蓄からの補填を要請しましたが、承認に四日かかりました」
「四日…」
「はい。以前なら即日だったそうです」
俺は報告書を見た。
数字は正直だ。
四日という遅延は、判断する頭がないという事を意味している。
現場は動ける。
だが全体を見て優先順位をつける人間がいない。
だから稟議が上へ上へと上がっていく。
フィデルのところまで届いた時には、もう四日経っている。
「前線への影響は」
「まだ出ていません。ただ——」
ユーリは少し間を置いた。
「北部駐屯の部隊から、食糧到着が一日遅れたという報告がバルドール帝国側に入っています」
「バルドール帝国側に?」
「国境近くの部隊ですので、バルドール帝国の斥候が動きを見ています」
俺は報告書を置いた。
「グレアム様は」
「既に把握しています。帝国側、ラドゥル様へも伝達済みです」
「そうか」
ユーリが出ていった。
俺は窓の外を見た。
リオネッサの昼。市場の声。荷車の音。
一日遅れ。
小さな数字だ。
だがこれが二日になり、三日になれば、前線の兵士は腹を空かせて戦うことになる。
腹が空いた兵士は判断が鈍る。
判断が鈍れば、指揮が乱れる。
テオの設計通りに進んでいる。
俺は立ち上がった。
今日は往診が三件ある。
それが終わったら薬草の追加在庫を確認する。
包帯の備蓄量も見ておく必要がある。
仕事をした。
夕方、治療院へ戻った時、イルルが入口で待っていた。
「ニール」
「何だ」
「ガブから話聞いた」
ガブは今、リオネッサの警備を兼ねながらバルドール帝国軍との連絡役もしている。
情報が早い。
「新生アステリズム神聖国の前線、補給が乱れてるって」
「そうらしいな」
イルルは暗い顔をして腕を交差させる。
「戦争、始まるの?」
「近いな」
「そっか」
イルルは少し黙った。
それから言った。
「怪我人、出るね」
「ああ」
「うちで受け入れられる人数、計算してみた」
「何人だ」
「今の規模なら三十人くらいが限界。
でも簡易病棟を増設すれば五十人いける」
俺は少し感心する。
「もう計算していたのか」
「だってどう考えても来るじゃん」
イルルは当然のように言った。
「増設の資材はグレアム様に頼めばいいでしょ?人手はミアとカインに声かけた。ガブは警備があるから無理だけど、合間なら手伝えるって」
「……お前は仕事が早いな」
「ニールに怒られたくないからね」
ユーリと同じことを言った。
俺は小さく笑った。
「わかった。グレアム様への話は俺がする」
「お願いね」
イルルは中へ戻っていった。
俺は入口に立ったまま、少し考えた。
イルルはいつからこんなに頼もしくなったのか。
気づいたらそうなっていた。
リオネッサへ来た頃のイルルは、治療の腕はあっても段取りは苦手だった。
今は治療院の運営を半分以上回している。
人は変わる。
環境が変えるのか。本人が変わるのか。
どちらでもいいか、とニールは思った。
頼もしい『仲間』で、頼もしい『家族』だ。
グレアム様への報告に行ったのは翌朝だった。
別荘応接室ではなく、今日は執務室だった。
グレアム様は地図の前に立っていた。ラドゥル様もいた。
「来たか」
「失礼します」
俺は室内を見た。
地図に新しい印が増えていた。赤い印。前線の配置図だ。
「座らなくていい。手短に話す」
グレアム様が言った。
「帝国が動くと言っている」
ラドゥル様が腕を組んだまま言った。
「前線への補給遅延が確認された。これ以上待つ理由がない」
「グレアム様は」
俺はグレアム様を見た。
「儂、というかレオムルも同意見だ」
グレアム様は地図を指差した。
「北部から三箇所、同時に圧力をかける。目的は突破ではない」
「では」
「補給路を塞ぐ」
俺は黙った。
「前線を直接叩かない。
補給路だけを押さえる。
そうすれば前線は自然に干上がる」
戦わずに勝つ。
グレアム様らしい発想だった。
「民への被害は」
「最小限に抑える。略奪は禁止。投降した兵士は保護する。
それはラドゥルとも合意している」
ラドゥル様が頷いた。
「バルドール帝国もそのつもりだ。長引かせる気はない」
俺は少し間を置いた。
「いつ動きますか」
「三日後」
グレアムが答えた。
「それまでに医療の準備を整えてくれ」
「わかりました」
「怪我人は必ず出る。できる限り頼む」
「やります。ですが、簡易病棟の増設に向けた資材をご用意頂きたく」
「構わん。リオネッサ伯の名で好きなだけ買い集め、後に請求せよ。勿論…」
「はい?」
「レオムルに、な」
グレアム様は舌を出しながら言う。
「…わかりました」
俺は少し呆れながら立ち上がる。
隠居ジジイに振り回されるレオムル様に少し同情する。
扉へ向かいながら、グレアム様が言った。
「ニールよ」
「はい」
「お前はこの戦争が終わったら、何をする?」
俺は即答する。
「治療院に戻ります」
「それだけか」
「それだけです」
グレアム様は小さく笑った。
「お前らしいな」
「そうですか?」
「ああ」
俺は執務室を出た。
廊下を歩きながら、三日後という言葉を頭の中で繰り返した。
三日で薬草の追加在庫。
包帯。消毒液。
簡易病棟の増設。
人員の配置。
やることは多い。
だが俺には、もう一つだけ頭に残っていることがあった。
テオは今、どこにいるのか。
戦争が始まる前に、安全な場所へたどり着いているのか。
答えは出なかった。
出るはずもなかった。
俺はリオネッサへ向かって歩いた。
風が冷たかった。
空は晴れていた。
三日後、この空の下で戦争が始まる。
俺は足を速めた。
治療院に戻ったら、イルルに三日後と伝えなければならない。
それが今、一番大事なことだった。
三日は短かった。
治療院の増設は間に合った。
簡易病棟が二部屋増えた。
薬草の在庫は想定の一・五倍まで積み上げた。
包帯、消毒液、縫合用の糸。全部確認した。
全てイルルが仕切ってくれた。
俺は材料の調達と薬の調合をした。
ミアが走り回った。カインが黙って重い資材を運んだ。
三日で形になった。
そして四日目の朝、バルドール帝国・リオネッサ軍が動いた。
リオネッサからは直接見えない。
だが夕方になると、遠くの空が少し赤くなった。
戦火ではない。
夕焼けだった。
だが俺には、その赤さがいつもより深く見えた。
最初の怪我人が来たのは、翌日の昼だった。
バルドール帝国軍の兵士が三人。
新生アステリズム神聖国側の兵士が二人。
どちらも運ばれてきた。
「こっちが先!」
イルルが素早く重傷度を見分けた。
「外傷二人、矢傷一人!感染症疑い一人!もう一人は軽傷!」
「わかった」
俺は動いた。
矢傷から始めた。
矢は既に抜かれていたが、傷口が汚れていた。
消毒を施す。
痛み止めの薬草を煎じたものを飲ませる。
隣でイルルが外傷の処置をしていた。
二人とも無言だった。
言葉は要らない。
何年もこうして並んで働いてきた。
三時間で五人の処置が終わった。
夕方にまた来た。
今度は七人。
翌朝にまた来た。
十二人。
治療院が埋まり始めた。
戦況の報告はガブが持ってきた。
四日目の夜だった。
「先生」
ガブは治療院の裏口から入ってきた。
顔に疲労が滲んでいる。
「どうだ」
「予想通りだ」
ガブは低く言った。
「補給路三箇所、全部押さえた。前線への食糧が完全に止まっている」
「前線の反応は」
ガブは少し間を置いた。
「混乱している。フィデルが直接指示を出しているみたいだ——」
「指示が現場に届く前に状況が変わっている、という感じだな」
フィデルが直接介入するほど、現場の判断が止まる。
テオが言っていた通りだった。
「死者は」
「双方合わせて、今のところ二十人以下。グレアム様が正面衝突を避けているから」
「そうか」
「ただ」
ガブは眉をひそめた。
「新生アステリズム神聖国の前線、一部が突出しているようだ」
「突出?」
「補給が来ないのに前へ出ようとしている部隊がいる。
おそらくフィデルの直接命令で」
俺は少し考えた。
「腹が減った兵士を前へ出す、か」
「正気じゃないよな」
「追い詰められてるんだろう」
ガブは顔をしかめた。
「カルディアの民は大丈夫ですかね」
「民は関係ない。グレアムはそこを崩さない」
「ならいいんだけどよ」
ガブが出ていった。
俺は薬草の棚を見た。
在庫が減り始めていた。
追加の調達が必要だ。
明日の朝、ユーリに頼もう。
七日目の朝、グレアム様から使いが来た。
面会を求めるとのことだった。
治療院を出る前に、イルルに声をかけた。
「少し出る」
「どのくらい」
「二時間もあれば戻る」
「わかった」
イルルは患者の包帯を替えながら答えた。
振り返りもしない。
「ニール」
「何だ」
「もう戦争は嫌」
「ああ。そうだな」
「早く終わってほしいよ」
俺は少し間を置いた。
「ああ」
治療院を出た。
リオネッサの朝は静かだった。
市場は動いている。荷車が通る。
子供が走っている。
戦争をしているとは思えない日常だった。
だが治療院には怪我人がいる。
どちらも本当のことだった。
グレアム様の執務室には、ラドゥル様とユーリもいた。
「来たか」
「失礼します」
グレアム様はまた地図の前に立っていた。
地図の印が変わっていた。
赤い線が、以前より南へ伸びている。
「お前にも共有しておく」
グレアム様は地図を指差した。
「北部補給路、完全封鎖。南部二路も押さえた。
前線への補給は七日間止まっている」
「前線の状況は」
「フィデルの突出命令を受けた部隊が一部動いたが、補給なしでは三日が限界だった。
今は後退している」
ラドゥル様が続けた。
「士気が落ちている。腹が減った兵士は戦えない。降伏する部隊が出始めた」
「降伏した兵士は」
「全員保護している。当初の想定通りだ」
俺は頷いた。
「フィデルは」
グレアムは少し間を置いた。
「カルディアに戻った、との情報だ」
「カルディアに」
「ああ。前線の崩壊を受けて、中央へ戻ったのだろう」
ラドゥル様が腕を組んだ。
「追う必要がある、な」
「追わないぞ」
グレアム様が即座に言った。
「なぜだ」
「向こうから出てくる」
グレアム様は静かに言った。
「フィデルという男は、逃げない。それだけはわかる」
ラドゥル様はしばらく黙った。
「……根拠は」
「民がいるからだ」
グレアム様は地図から目を上げた。
「あの男は本当に民を救おうとしていた。それは本物だ。
だから民を置いて逃げることはできない」
部屋が静まった。
ユーリが小声で言った。
「では、カルディアへ向かいますか」
「ああ」
グレアム様は答えた。
「明後日、カルディアへ入る。
戦闘は最小限に。
民への被害は出さない」
「わかりました」
俺は立ち上がった。
「ニール」
グレアム様が言った。
「同行してくれ」
「医療支援ですか」
「それもある。だがそれだけじゃない」
グレアムは俺を見た。
「お前もあの街を知っている。民の顔を知っている。俺達が入る時、それが必要だ」
俺は少し考えた。
「わかりました」
「イルルは」
「治療院を頼みます」
「そうしてくれ」
面会が終わった。
廊下へ出た時、ユーリが隣に来た。
「ニールさん」
「何だ」
「カルディアには、フィデルだけじゃなく——」
ユーリは少し間を置いた。
「マルグリット様も、既に入っているとの情報があります」
俺は足を止めた。
「マルグリットが?」
「はい。エルバート王国崩壊後、バルドール帝国に保護されていましたが——グレアム様が同行を求めたとのことです」
俺は黙った。
マルグリット。
エルバート王国 元・王妃。
転生者の記憶を読むスキルを持つ女。
そしてフィデルの——姉。
「そうか」
俺は歩き出した。
「ニールさん、何か知っているんですか」
「さあ」
「また『さあ』ですか」
「そういう顔なんだ、俺は」
ユーリは小さく息をついた。
ニールはリオネッサへ向かって歩いた。
明後日、カルディアへ入る。
フィデルが降伏する。
そしてマルグリットがいる。
全部が終わる。
そう簡単に終わるのだろうか。
風が吹いた。
冷たい風だった。
だが、どこか、春の気配が混じっていた。




