72話 ゼニス歴1079年 ニール視点
新生アステリズム神聖国視察の最後の夜。
やはりカルディアの街は静かだった。
旧アステリズム神聖国時代なら、夜は危険だった。
盗賊。
暴力。
酒乱。
飢えた人間。
だが今は違う。
巡回兵が歩き、街灯が灯り。
夜間学校から帰る子供達の笑い声が聞こえる。
「……平和だな」
ガブが呟いた。
宿の二階。
俺達は窓から街を見下ろしていた。
「平和すぎる」
グレアム様は険しい顔をしている。
そこへ。
「失礼するわ」
テオが入ってきた。
相変わらず突然だった。
「またお前かよ」
「フィデルが呼んでいるわ」
「今から?」
「今夜で最後なんでしょう?」
そう言って背を向ける。
俺達は顔を見合わせた。
案内された先は、中央管理局のさらに奥。
重厚な扉。
衛兵。
だが中は意外にも質素だった。
机。
本棚。
地図。
大量の書類。
仮眠用のベッド。
そして、フィデルが一人で椅子に座っていた。
「ようこそ」
穏やかな声。
昼間と変わらない。
だが近くで見ると、疲労が見えた。
目の下の隈。
机に積まれた未処理書類。
イルルが小声で言う。
「……寝てないのですか?」
「このところ、少し忙しくてね。仮眠は取ってますよ、一応」
フィデルは普通に答えた。
「化け物かよ」
ガブが本気で引いていた。
「国家運営は忙しいので」
さらっと言う。
テオは当然のように机横へ立った。
その距離感が自然すぎる。
「それで、俺達に何の用だ」
フィデルは少し考える。
それからこう話し始めた。
「確認です」
「何を」
「あなた達が、どこまで理解したのか」
静かな声だった。
部屋の空気が少し変わる。
「なら先に聞いていいか?」
「ええ、どうぞ」
俺は真正面から言った。
「お前は何をしたい?」
フィデルは迷わなかった。
「私は世界を変えたいのですよ」
「具体的には」
「知識を解放したい」
即答。
「生まれで未来が決まる世界を終わらせたい」
「飢えを減らしたい」
「病を減らしたい」
「学べる人間を増やしたい」
その言葉に嘘はなかった。
だからこそ、俺は眉をひそめる。
「……理想論だな」
「はい」
フィデルはあっさり認めた。
「理想論ですね」
その答えに、俺は少し詰まった。
「ですが」
フィデルは静かに続ける。
「理想がなければ人は前へ進めません」
「現実だけ見ていても世界は変わらないわ」
テオが少し嬉しそうに付け加える。
その顔を見て、イルルは悟ったような顔をする。
「テオ、あなた…」
小さく呼ぶ。
だがテオは見ない。
視線はフィデルだけを追っていた。
「お前」
俺は低く言う。
「テオに何をした?」
その瞬間。
部屋が静まった。
フィデルは少し驚いた顔をする。
「何も」
「嘘をつくな」
「本当です」
フィデルは静かだった。
「私は彼女を愛しています」
イルルが顔を上げる。
あまりにも唐突で、率直だった。
「ですから、洗脳はしていない」
「……」
「彼女は、自分の意思でここにいます」
俺はテオを見る。
「本当か?」
テオは即答する。
フィデルの言葉を受け、テオの顔は明らかに高揚していた。
「本当よ」
「ワタシは、フィデルを愛している。ワタシは自分の意思でここにいる」
その目は真っ直ぐだった。
だが、どこか危うい。
「フィデルは、ワタシの知識を理解してくれた。ワタシを必要としてくれた。」
テオが言う。
「エルバート王国の貴族達みたいに、『女の戯言』として笑わなかった。
貴方のように利用だけして他の女にいく様な『浮気者』でもなかった。
フィデルはワタシが見ていた未来を、本気で実現しようとしてくれる」
その声には熱があった。
イルルは苦しそうだった。
「それは愛じゃ……」
「イルル」
テオは初めて彼女を見る。
「ここでは、子供が学べるの」
「みんな飢えないの」
「病気なんかで簡単に死なないの」
「それって間違ってる?」
イルルは言葉を失う。
間違っていない。
だから苦しい。
「だからって、管理しすぎだろう」
俺は続ける。
「人間を効率で見すぎているのではないか?」
「当然でしょう?」
テオは即答した。
「国家ってそういうものよ。
感情だけで国は回らない。
数字を見ないと、人は死ぬのよ。簡単に、ね」
その時。
フィデルが静かに口を開いた。
「ニールさん」
「……なんだ」
「あなたは優しい」
突然だった。
「だから一人ずつに向き合って、そして一人ずつ救っているのでしょう。」
「俺は俺の出来る事だけをやる。それ以上の事は出来ない。」
「そうでしょうね。ですが私は違います」
フィデルの目が揺れる。
「国家とは、一万人を救うためなら百人を切り捨てる判断をしなければならない。
そして私はそれが出来る。」
部屋が静まる。
「疫病隔離」
「配給制限」
「反乱鎮圧」
「全部、必要です」
その声は重かった。
理想論だけではない。
現実も知っている声。
「だから私は救世主じゃありません」
フィデルは苦く笑う。
「ただの国家運営者です」
その瞬間。
俺は理解してしまう。
この男。
本当に全部理解した上でやっている。
善意も。
犠牲も。
管理も。
独裁も。
全部。
理解した上で進んでいる。
だから危険だ。
「フィデル」
テオが静かに言った。
「北部移民計画の修正案よ」
「ああ、ありがとう」
フィデルはテオの腰に手を回す。
自然だった。あまりにも自然。
テオがそれを満足気に受け入れ、フィデルに紙を渡す。
フィデルが読む。
二人で短く意見交換する。
その二人の空気が妙に完成されていた。
ニールは気付く。
これは洗脳ではない。
もっと厄介だ。
「……依存か」
思わず漏れた。
テオが少しだけ笑う。
「ふふふ。あなたにはわからないわ」
含みをもった笑みだった。
熱のこもった目でフィデルとテオは見つめ合う。
俺達は部屋を出る為に部屋の出口に向かう。
その視界の端に、テオがフィデルを仮眠用ベッドに押し倒しているのが見えた気がした。




