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【完結】完璧な侯爵令嬢の私が、年下の婚約者のために若作りする惨めさについて  作者: 恋せよ恋


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第13話 少年の背伸びと、成長の兆し

 あの雨の激しいテラスでアナベル様から告げられた、氷のように冷たく静かな別れの言葉。そして、平民の暮らしに耐えかねて無様に這い戻ってきた実の兄の、あまりにも無惨で醜悪な姿。そのふたつの出来事は、十五歳のミッシェルの胸の奥深くに、消えない焼印となって、生涯消えない屈辱と自戒と共に深く刻み込まれていた。


(僕は、ただの無力な子供だったんだ)


 しんと静まり返った自室の大きな執務机に向かい、深夜まで歴史書や領地経営の分厚い文献を貪るようにめくりながら、ミッシェルはきつく、血が滲むほどに奥歯を噛み締めていた。


 兄のヘンリーは、すべてを投げ打って愛を貫いたはずだった。しかし、市井の過酷な現実に無様に敗北し、かつて自ら冷酷に切り捨てたはずの婚約者へ、惨めに、浅ましく縋り付いた。それを冷徹に見下ろしていたアナベル嬢の、一滴の情も通わせない、けれど世界の誰よりも酷く寂しげな横顔が、今も脳裏に焼き付いて離れようとしないのだ。


 もし、自分がこのまま子供のままでいたら。不器用という卑怯な言い訳の後ろに隠れて、歪なプライドばかりを最優先させ、彼女を傷つける毒ばかりを吐き出し続けていたら。僕は、あの無能な兄と同じように、あるいはそれ以上に最悪な形で、アナベル嬢を永遠に失ってしまう。


(そんなの、絶対に嫌だ。死んでも、彼女を離したくない……!)


 胸の奥底から湧き上がるのは、喉が焼けるほどの強い焦燥感と、彼女を我が身一つで所有したいという強烈な、狂おしいほどの独占欲だった。それは、かつてのような子供じみた嫉妬や強がりでは決してなかった。一人の対等な男として、彼女の美しい隣に立つ資格が欲しいという、魂を焦がすような切実な飢えだった。


「ミッシェル様、もう夜も更けております。本日の講義の予習は、そのあたりで……」


「いや、まだだ。この経済特区の複雑な税制の課題をすべて片付けるまでは寝ない。明日も朝一番から、剣の鍛錬の予定が入っているんだ」


 心配そうに控える老家令に、ミッシェルは顔も上げずに鋭く答えた。その声は、ほんの数ヶ月前までの、どこか甘えの残る少年のものから、確実に低く、落ち着いた大人の響きへと変わりつつあった。


 それからのミッシェルの苛烈な変貌ぶりは、ゴードン伯爵邸の誰もが目を見張るほどだった。学園での退屈な講義が終われば、かつては渋々こなしていた家庭教師との高度な領地経営のディスカッションに病的なまでに没頭し、夜は私設の書庫に籠もって、大人の貴族たちと対等に渡り合い、ねじ伏せるための知識を貪るように吸収した。


 それだけではなかった。


 朝霧が白く立ち込める早朝から、大人用の重く武骨な木剣を、手の皮が何枚も剥けて血が滲み、肉が裂けるまで振り抜き続けた。


「おいおい、ミッシェルは、最近どうしちまったんだ?」


「まるで復讐の鬼にでも取り憑かれたようだな。昔はあんなにツンツンして可愛い顔をしていたのに、近頃じゃ放つ気迫が凄すぎて、声をかけるのも躊躇うぜ」


 すれ違う友人たちの恐れ混じりの囁き声を、ミッシェルは額の汗を無造作に拭いながら冷たく聞き流す。

 狙うのは、十九歳のアルベルトのような洗練された強さと佇まいだ。彼がアナベル嬢の手をスマートにエスコートしていた光景を思い出すたび、全身の血が嫉妬と羨望で熱く激しく燃え上がった。


 がむしゃらに、けれど決して折れることなく、ただひたすらに前だけを見据えて重ねた血の滲むような努力。それは、少年の未熟な身体に、目に見える確かな奇跡となって現れ始めた。


 数ヶ月が経ち、季節が冬へと巡る頃。ミッシェルは、自分の部屋の大きな姿見の前に立ち、ふと目を見開いた。


「あ……」


 そこに映っていたのは、かつてのツンとした愛らしい美少年ではなかった。毎日、驚くほどの量の食事を摂り、過酷な鍛錬を重ねた結果、少年特有の細かった四肢には、しなやかで逞しい戦闘用の筋肉がつき始めていた。何より、背が劇的に伸びていた。以前はアナベルと同じ高さだった視線が、今なら、彼女の綺麗な瞳を上から真っ直ぐに見下ろすことができるところまで、一気に成長を遂げていたのだ。丸みのあった顎のラインは刃物のようにシャープに引き締まり、ゴードン伯爵家特有の、冷徹で美しい彫刻のような骨格が浮き出ている。湖のように澄んだ青い瞳には、知識と経験に裏打ちされた、他者を圧する確固たる意志の光が宿っていた。


 それは、麗しく逞しい成熟した青年への、明確な変貌の瞬間だった。


「ミッシェル様、お召し替えを」


 控えていた侍女が、新しく仕立て直したばかりの上質な上着を恭しく捧げ持つ。腕を通し、鏡の前で襟元を正す。肩幅が格段に広くなったせいで、かつての衣装はもうどれ一つとして身に纏うことはできない。新調された深い濃紺の外套を羽織ったミッシェルの姿は、もはや社交界の誰もが子供とは呼べないほどの、圧倒的な品格と大人の色香を放ち始めていた。


 ミッシェルは、じっと己の手のひらを見つめた。剣を握り、ペンを握り、硬いマメだらけになった武骨な大人の手。


(待っていてください、アナベル嬢)


 胸の奥底で、愛しい人の名前を強く、強く、祈るように唱える。


 あの雨の日に、深く傷つけて、絶望させて、完全に閉ざさせてしまった彼女の心。それをもう一度この手で強引にこじ開けて、今度こそ私のこの腕で、生涯をかけて溺愛し、生涯をかけて守り抜くために。


「よし、行こう」


 引き締まった唇から漏れた声は、深く、男らしく低く響いた。少年の背伸びは完全に終わりを告げ、いま、一人の傲慢で、けれど誰よりも一途な青年貴族が、初恋の令嬢を強引に奪い去るための準備を完璧に整えたのだった。


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