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【完結】完璧な侯爵令嬢の私が、年下の婚約者のために若作りする惨めさについて  作者: 恋せよ恋


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第11話 元婚約者の出戻り

 大雨の学園祭から数日後。ゴードン伯爵邸の重厚な応接間は、おぞましいほどの沈黙と、どんよりとした生活苦の臭気に満たされていた。


 上座に座るゴードン伯爵が、額に青筋を浮かべて見下ろす先には、床に直に膝をつき、泥に汚れた旅装のまま額を擦りつけている一人の男がいた。


「父上……っ、申し訳ありませんでした! どうか、どうかこの通りです! マリアと、この子を……我が家に置いてください!」


 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに濡らし、見窄らしい声を上げているのは、ヘンリーだった。


 かつてロイド侯爵令嬢アナベルの婚約者であり、ゴードン伯爵家の完璧な、そして優秀な次期後継者として社交界でも将来を嘱望されていた男の面影は、今の彼にはどこにもない。頬はげっそりと削げ落ち、髪は油を失ってボサボサに荒れ果てている。かつて上質な仕立ての衣服に包まれていた身体は、安物の麻の服の中で一回りも二回りも小さく縮んでいるように見えた。


 そのヘンリーの背後に、恐怖に身を震わせながら、生まれたばかりの赤ん坊を抱きしめて蹲っている女がいた。ゴードン家の元下級侍女、マリアだ。

 平民出身の彼女もまた、かつての素朴な可愛らしさは完全に失われ、度重なる過酷な労働と困窮のせいで痛々しいほどにやつれ果てていた。腕に抱えられた赤ん坊が、細く細い鳴き声を上げるたびに、マリアは我が子を庇うようにさらにその身を小さく縮める。


「よくも……よくもぬけぬけと戻ってきたな、この大馬鹿者が……!」


 伯爵の地を幾重にも這うような怒声が応接間に響き渡る。


「完璧な婚約者がありながら、平民の下女と出奔し、我が家の面目を丸潰れにしておいて、生活が困窮したからと泣きついてくるだと!? 恥を知れ!」


「すべて、すべて私の不徳の致すところです! しかし、もう限界なのです! 市井の生活が、これほどまでに、厳しいものだとは思いもしなかった……っ!」


 床に幾度も頭を打ち付けながら、ヘンリーは喉を震わせて心からの悲鳴を上げた。


 元々、ヘンリーは真面目で極めて優秀な嫡男だった。ゴードン伯爵家を背負うため、幼い頃から厳格な後継者教育を受け、一分の隙もない完璧な貴族として育てられた。婚約者であるアナベルに対しても、何一つ不満はなかったのだ。理知的で、美しく、侯爵令嬢としての品格を完璧に備えた彼女は、次期伯爵夫人としてこれ以上ない最高のパートナーだと理解していた。


 けれど、その完璧すぎる環境は、知らず知らずのうちにヘンリーの心を静かに磨耗させていた。息の詰まるような貴族社会の義務と重圧。その中で、ただ一人、彼をひとりの無防備な男として癒してくれたのが、下級侍女のマリアだった。彼女には、貴族の令嬢たちのような計算も、張り詰めたプライドもなかった。ヘンリーが少し疲れた顔をしていれば、飾らない太陽のような笑顔を向け、彼が贈ったささやかなお菓子に、子供のように素直に目を輝かせて喜んだ。その無邪気な反応が、後継者教育で行き詰まっていたヘンリーの心を、優しく救っていたのだ。


 最初は、ただの身分違いの火遊びのつもりだった。しかし、マリアの妊娠が発覚したことで、事態は激変する。真面目すぎたヘンリーは、父親である伯爵にマリアの存在を正直に相談し、彼女のお腹に自分の子が宿っていることを報告した。身分は違えど、自分の愛した女と我が子を、嫡男として責任を持って守りたかったのだ。


 だが、返ってきたのは伯爵からの冷酷な一言だった。


「今すぐその下女を解雇する。女には薬を飲ませて子供を堕ろせ。ロイド侯爵家との婚約に傷がつけば、我が家は終わりだ」


 冷徹に堕胎を指示されたヘンリーは、激しい絶望に叩き落とされた。自分が信じてきた貴族の正しさとは、これほどまでに残酷なものなのか。愛するマリアと、まだ見ぬ我が子の命を救うためには、すべてを捨てるしかない。そう思い詰めた愚直な嫡男は、地位も名誉も、そしてアナベルとの未来までもすべて投げ打ち、マリアの手を取って夜逃げ同然に出奔したのだ。


 ロマンチックな恋愛小説なら、そこから平民としての幸せな第二の人生が始まるはずだった。しかし、現実は甘くなかった。


 貴族育ちのヘンリーには、平民に紛れての市井の生活はあまりにも過酷すぎた。文字が読め、計算ができても、身分証のない素性の知れない男を、まともな商会が雇ってくれるはずもない。ヘンリーが手に入れたのは、毎日泥に塗れ、身体中を痛めつけてようやく数枚の銅貨を得られるだけの、過酷な日雇いの肉体労働だった。


 家賃も払えず、屋根の破れた安アパートで、冷たい風に震える日々。マリアは平民の女性として、ただ純粋にヘンリーを慕い、彼を支えようと必死に尽くした。貴族を捨ててまで自分を選んでくれた彼に、従うことしかできない弱い立場であるがゆえに、文句一つ言わずに慣れない内職に励んだ。けれど、そんなマリアの健気ささえも、生活の困窮はすり潰していく。ついに生まれた赤ん坊は、栄養不足で小さく、満足に病院に見せる金もない。毎日、明日食べるパンの心配をし、我が子が飢えと病で死んでいく恐怖に怯える生活に、ヘンリーの精神は完全に疲れ果て、へし折れてしまったのだ。


「もう……もう嫌なんだ……っ! あんな、泥水をすするような生活は御免だ! 私は、ゴードン伯爵家の嫡男ヘンリーなのだ……っ!」


 プライドも何もかもをかなぐり捨てて泣き叫ぶヘンリーの姿を、伯爵は冷徹な目で見つめていた。


「フン……。平民の暮らしに耐えかねて、泥沼に塗れて這い戻ってきたか。だがヘンリー、お前が捨てた『ゴードン伯爵家嫡男』の座には、すでに弟のミッシェルが座っている。お前に残された席など、この屋敷にはないのだよ」


「そんな……! 父上、どうか、どうかお許しを……!」


 すがりつくヘンリーと、絶望に顔を白くするマリア。かつて愛のためにすべてを捨てた二人の、あまりにも惨めで現実的な帰還によって、ゴードン伯爵家に新たな波乱の幕が上がろうとしていた。


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