第三十九章:— 小さな嘘、大きな背中 —
朝霧が地を這うように広がる中、ファナはうっすらと目を開けた。
空はまだ灰色がかっており、木々の葉からは冷たい露が滴っている。
昨夜の焚き火の灰が風に吹かれて、小さく舞った。
「…………」
体が重かった。
まるで心の奥に何か鉛のようなものが沈んでいて、呼吸までもが浅くなる。
夢を、見た。
炎に包まれたラゼンの森、泣き叫ぶ仲間たち。
そしてその向こうで、黙って背を向ける男の姿。
レオン。
昨日の夜、本当に見たのだ。
帝国の鎧を身につけ、兵たちの中に立っていた“あの人”を。
「……っ」
思わず額を押さえると、横からレリアの声がした。
「ファナちゃん、起きたの? ……顔色、あまりよくないわよ」
「……だ、大丈夫……うん。ちょっと寝苦しかっただけ……」
レリアは言葉を止めたまま、じっと見つめてくる。
その視線を避けるようにして、ファナは寝袋から這い出た。
「ほら、準備しなきゃ。今日はもう、歩くんでしょ?」
そこに、いつの間にか戻ってきたカイルの声が重なる。
「……無理すんな」
「無理なんかしてないよ!」
反射的に声が大きくなった自分に、ファナははっとする。
二人とも驚いた顔をし、それから少しだけ表情を緩めた。
「……じゃあ、せめて朝飯だけは食え。動くなら、それからだ」
カイルが投げてよこした干し肉と、レリアが差し出したあたたかいスープ。
ファナはそれを、無理やり飲み込むように口にした。
心はざわざわしていたけれど、二人の優しさが、ほんの少しだけ、芯に触れた気がした。
支度を終え、三人は静かに森を抜けていく。
まだ朝日が木々の合間を差し込む前で、影が長く伸びている。
ファナは普段よりも歩幅が狭く、後ろをついていく形になっていた。
何か話さなくちゃ。
でも何を話せばいいのか分からない。
(……あんなふうに、背中を向ける人じゃなかったのに)
(優しかったのに……)
記憶の中のレオンと、昨日見たレオンが重ならない。
自分が信じていた人が、実はずっと嘘をついていたという事実。
それを、どこかで「違う理由があるはず」と思いたくなる心。
そのすべてが、胸の中で混ざり合って、苦しい。
「ファナ、疲れたら言ってくれよ」
カイルの声が、いつもよりも少し柔らかかった。
「……うん、ありがと。大丈夫。まだ、歩ける」
少しだけ本音に近づいた“嘘”を重ねながら、彼女は歩を進めた。
昼を過ぎ、山あいの小さな村に着いた頃には、日差しも少し暖かくなっていた。
ここは旅人がときおり立ち寄るだけの集落で、賑わいはないが、静かに人の営みが感じられる場所だった。
カイルが水と干し肉を調達しに行き、レリアは薬草を探しに村の外れへ。
ファナは、ぽつんと広場の端のベンチに座っていた。
視線の先では、小さな子どもが木の枝で地面に絵を描いている。
「……なに描いてるの?」
思わず声をかけた自分に、驚いたように男の子が振り向く。
「……おうち。前にいた、おうち」
「そっか……。わたしも、そういうの、描いたことある」
子どもはちょっとだけ笑って、枝を差し出してきた。
「じゃあ、いっしょに描こ」
ファナは、その申し出を断れなかった。
二人で並んで地面に絵を描く。
「これは、木。すごく大きくて、仲間みたいだった木」
「これ、ひろば? ひとがいっぱい?」
「うん、いっぱい。たのしかった……」
ふと、涙が零れそうになった。でも、ファナは笑っていた。
「でも……もう、ここにはないの」
子どもが、しばらく黙ってから言った。
「でもさ、描いてたら思い出すんでしょ? ぜったい忘れないってことだよね」
その言葉が、胸に深く染みた。
「……うん。そうだね。忘れたくないことは、描いてもいいんだ」
ファナは自分の手首に巻かれた、紺色のブレスレットを見た。
「……ありがと。教えてくれて」
夕方、三人は再び旅路へと戻った。
空は橙に染まり、遠くで鳥の群れが森の向こうへ帰っていく。
「……レオンおにーさんのこと、今はまだ考えがまとまらないの」
ぽつりと、ファナが言った。
レリアがそっと頷く。
「それでいいのよ。すぐに答えを出せることじゃないわ」
「お前が立ち止まりたくなったら、そこで立ち止まれ。俺らは勝手に進まねぇ」
カイルのぶっきらぼうな言い方に、ファナは少しだけ微笑んだ。
「……うん。ありがと。ちょっとずつ、前に進む」
彼女の足取りは、まだ少しぎこちない。
けれどその背中には、確かな意志が灯っていた。
かつて見上げた“英雄の背”とは違う。
けれど今は、隣に歩く人たちの背中を、信じられる。
それだけで、ほんの少しだけ――重さが軽くなった気がした。




