— 鎖を選んだ者の回想 —
森の空気は、帝都のそれとは違っていた。
湿り気を含んだ土の匂い、朝露の滴る草の手触り。
そこに生きる者たちの視線には、鋭さと、それ以上に温もりがあった。
——それが、皮肉だった。
俺の任務は、彼らの中に“溶け込む”ことだったからだ。
「……おにーさん、また魚たくさん釣ったの? すごいっ!」
ファナの瞳がきらきらしていた。
銀灰の髪が陽に照らされてきらめいていた。
……可愛い子供だった。
お調子者で、傷だらけで、怖がりで……それでも、まっすぐで、あったかかった。
最初は警戒されたが、弓の腕と「よそ者なのに遠慮しない態度」が意外にウケた。
最初の印象を崩さないまま、「役目」をこなすことは得意だった。
情報を集める。地形を把握する。信頼される。
それが、俺に与えられた「鎖」。
けれど、ある日を境に、何かが変わっていった。
ファナが森で足を滑らせて、動けなくなっていた。
血が出て、泣いていて、名前を呼ばれて。
俺は何の迷いもなく、彼女を抱き上げて、手当てしていた。
「ほら、泣き虫はしっぽが逃げ出すぞ?」
冗談のひとつも出てくるようになっていた。
任務とは、何だったのか。
これは、演技だったのか。
そう思い始めたとき、任務が“苦しく”なっていった。
帝国の命令は、冷徹だった。
「森の構造と防衛を記録せよ」
「不安分子の情報を優先せよ」
「最終段階に備え、指揮系統に影響力を持て」
簡単だった。俺はそれに向いていた。
だけど、簡単じゃなかったのは「ここに居てはいけない」と思いながらも、
心が、ほんの少し、居場所と錯覚し始めたことだった。
俺は――
ファナが笑うたび、誰かが「ありがとう」と言ってくれるたび、
ほんの少しずつ、“スパイ”である自分が嫌になっていった。
それでも、俺は告げなかった。
正体を明かすこともなく。
帝国に反旗を翻すこともなく。
最終通達が届いたとき、「例の森を制圧する」と聞いたとき、
俺は逃げることも、止めることも選ばなかった。
あの夜。
帝国の軍が進軍する音が聞こえる中で、ファナが村はずれで俺を見つけた。
——「レオンおにーさん!」
その声を、聞いた。
でも、振り返れなかった。
彼女の目を見たら、俺は――何かを選びなおしてしまいそうだったから。
任務を終えた俺には、今さら戻る場所などなかった。
自分の行動を正当化することでしか、生きていけなかった。
でも。
逃げるように立ち去ったその夜、俺は一度だけ、木の陰で膝をついて泣いた。
それから数ヶ月。
帝国に戻った俺は、昇進した。指揮権を得た。
だが、どんな勲章よりも、あの森で“捨てたもの”のほうが重かった。
ファナが生きていると知ったのは、ほんの最近だった。
それでも、会って何が言える?
「すまなかった」か?
「守りたかった」か?
そんな言葉で済むはずがない。
それでも。
もし、もう一度目の前に現れたとき、彼女が俺に問うのなら。
——「なんで、あのとき……?」
そのときは、きっと答えよう。
俺の“弱さ”と“罪”のすべてを。
そのときだけは、英雄でもスパイでもなく、
ただのレオン・ヴァルガスとして――。
……それが、最後に許される“贖い”だと、思いたい。




