蒼き死神
月明かりも照らさぬ深淵のような夜の向こうに、カナン軍が野営する陣幕が篝火の明かりに囲われ浮かび上がる。
野営地からは雑然とした談笑の声が漏れ聞こえており、ビアンカの予想した通りカナン軍は戦勝の余韻に浸って、ささやかな酒宴を催しているようだ。
とはいえ指揮官が詰めていると思われる幕舎の周りには警備兵がずらりと並び、容易に近付けない状況なのは明らかである。
ーー常人ならば、であるが。
ビアンカは敵の様子を具に観察した。
野営地を照らす為に聳える篝火の数は周囲を囲うように八本ある。その火を消せば辺り一帯は暗闇に包まれるだろう。そして警護を務める兵士たちも酒を片手に適当にこなしているのが伺える。
条件が揃う事を確信し、ビアンカは射手を集めた。
「私の合図で一斉に火を消してください。その後は退避をお願いします」
それだけ指示するとビアンカは両目を閉じて集中力を高めていく。誰の介入も許さない刃ように研ぎ澄まされていくその姿に射手たちは息を呑んだ。
やがて、ビアンカの右目蓋だけがスッと開いた。サファイアのように青く美しい碧眼が鋭く野営地を捉える。
ビアンカの挙げられた手が振り下ろされた瞬間、十名の射手たちは番えていた矢を一斉に手放した。一直線に向かっていく十本の矢は一矢も外すことなく篝火を射抜くと、土台ごと倒す事に成功し全ての火が消え失せる。
精鋭揃いの第一部隊ならではの芸当であった。
「何事だッ!?」
警護兵長と思しき男が怒声を放つが、それに答えうる術を持つ者は一人もおらず、兵士たちは狼狽えるばかり。
「落ち着くのだ! 奇襲だとしてもこの暗闇では敵とて身動きがとれぬ。慌てることなく明かりを灯せ!」
動揺する兵を叱咤し、この状況下で冷静な判断を下せるこの男は確かに有能であった。だが、有能である事を曝け出したばかりに死神の一人目の標的として選ばれてしまったのだ。
「なんだ……? あれは?」
警護兵長は暗闇に浮かび上がる青い揺らめきをその目に捉えた。それは残像を伸ばしながら疾風の如く速さで自らに接近する。
そして……。
風を切る音と重たい塊が地面に落ちる音がしたのはほぼ同時であった。それと同時に指示をとばしていた警護兵長の声は一切聞こえなくなる。
警護兵長がもたらした鎮静と、暗闇故に何が起きたかわからない状況にカナン軍に大きな動揺は見られない。
しかし警護兵長の隣に立つ若い兵士だけが何が起きたのかを悟ってしまった。
「うわあぁぁぁぁぁあ!!!!」
兵長の死を伝えることもできず、ただ絶叫を張り上げたその兵士は首に灼熱を感じると同時に命の灯火を消した。追随して方々から断末魔の悲鳴が轟く。
たちまち大混乱に陥ったカナン軍をビアンカは酷く冷徹に見据えていた。何も見えていない相手を次々殺していくのは最早虐殺に近いが、ビアンカの絶え間なく燃える憎悪がその行為に歯止めを与えなかった。
悪魔には痛みを。悪魔には死の制裁を。カナンには地獄の苦しみを!
カナンの兵士たちを黄泉へと誘うビアンカの刃は留まるところを知らず縦横無尽に駆け回る。やがて蒼き閃光が揺らめいている事に気が付いた一人の兵士が恐怖に慄き叫んだ。
「死神だ…………コイツ、碧眼の死神だぁぁぁあ!!」
カナン王国にとって悪名高い異名が叫ばれるとさながら蜘蛛の子を散らすようにカナン兵たちは逃げ惑った。
ビアンカは一気に敵の首脳を叩くべく幕舎へと迫る。ここで敵将を討ち取れば戦況は一気にヴェリア王国側に傾くだろう。
しかし幕舎へ駆け入ったビアンカはその碧眼を見開くこととなる。
バカな……。と思うのも当然の事。中ではなんと二十人程の弓兵が幕舎の出入り口、つまりはビアンカの方へ向けて弓矢を引き絞り構えていたのだ。
一瞬の時間の中でビアンカの思考が目まぐるしく回る。
間違いなく敵の視界は利いていない。にも関わらず完璧な照準が向けられているのは、予め周到な用意がされていてビアンカがやって来ることを予見していたとしか考えられない。
釣り野伏せの戦術といい、この敵将は余りにも危険だ!
「放て!」
精悍な号令と同時に飛来する矢をビアンカは横っ飛びで回避しようとした。しかし、襲い来る全ての矢を躱し切ることは叶わず、右肩と左大腿部を貫かれてしまったのだ。
激痛の中、ビアンカの頭の中を占めたのは任務失敗の無念と、せめて捕まってはならないということ。
カナン軍は悪魔だ。悪魔に捕まるくらいなら死んだ方がマシ!
「明かりを灯せ! 碧眼の死神を逃がすな!」
まずい……。明るさが戻れば逃れる事は困難。打開策を必死に探すビアンカは視線の先に映った光景に、これしかないと覚悟を決めた。
痛む足に鞭打ちビアンカが向かったのは、陣の後方を天然の要害として選んだのであろう断崖の渓谷。
ビアンカは思った。奴等は私を捉えれば拷問し、ヴェリア王国の情報を引き出そうとするだろう。口を割る事などありえないが、そんな辱めを受けるくらいならば。
渓谷を前にして、然しものビアンカも尻込みした。飛べば間違いなく死ぬだろう。もう…………会えなくなる。今際の際に思い出したのはいつも優しく気に掛けてくれて、ビアンカに生き方を教えてくれた人だった。
隊長……申し訳ありません。お食事の約束、果たせそうにありません。でもどうか、隊長は生きてください。今まで……本当に。
背後から迫る足音にビアンカの決意が固まった。
ビアンカは痛む足に力を込め、深淵の闇へとその身を投げた。