カナンへの憎しみと希望の光
第一部隊が国境を越え、カナン王国の中心部付近まで進軍したのは日が沈み、辺りが薄闇に包まれた頃だった。そこで先に戦っていた味方の惨状を知った第一部隊の面々が狼狽したのは無理からぬこと。
それは百戦錬磨の隊長ラファエルをしても同じで、第一部隊は情報の収集に奔走した。
「これは一体どういうこった? 攻め込んでるはずの俺達がなんでこんな状態に」
第一部隊の騎兵隊長を務めるフランク・ベルツが彼らしくない焦燥の表情を浮かべ呟く。
それもそのはずであり、第一部隊は本来とどめの一撃となるべく後詰めの援軍としてやって来たのだ。ところがどうだ。蓋を開けてみれば敵地深くで死傷者多数の大損害を被っており、陣形の維持すらままならない光景を目の当たりにすれば、如何に不敗の第一部隊といえど動揺しないわけがなかった。
「やられた……。奴等、俺達を罠に嵌めやがった」
苦痛に顔を歪めて呻いたその兵士は、左腕の肘から先を失っていた。悔しさを滲ませる兵士にフランクは更なる説明を求めた。
「敵の兵力は大した事なかったんだ。俺達の攻撃に奴等は必死に抗っているように見えた。ううっ……頃合いよしと全軍で一気に押し寄せたら敵は一目散に敗走した。いや、敗走のフリをしたんだ」
兵士は疼くのであろう患部を右手で押さえながら、懸命に言葉を紡ぎ出す。
「俺達は追撃した。ここでカナンの息の根を止めるべく。だが、追い詰めたと思ったその場所が奴等の狩場だったんだ」
「狩場だと?」
「左右の林から伏兵が襲い掛かってきたんだ。敗走を装った正面の敵も反転攻勢を掛けてきやがった。陣形の伸び切った俺達は分断され散々に打ちのめされた。多分、先鋒を務めた第三部隊はもっと酷い惨状だろう」
兵士の言う通り先鋒であった第三部隊は包囲殲滅され、隊長を含む指揮官の尽くが討ち死にする壊滅的な状態であった。
「東方の島国で確立された戦法……釣り野伏せか」
聞き終えたラファエルがぼそりと呟く。
「釣り野伏せ? 聞き慣れねえ戦術だな」フランクが軍規を忘れ、対等な言葉遣いで聞き返す。
「寡兵が大軍を打ち破る際に用いられる戦術だ。しかし実践するには非常に難度が高く、敗走に見せかけた撤退は容易に潰走にも繋がる。練度の高い兵士と指揮官の状況判断、また強い信頼関係に加え高い士気を維持する必要もある」
「要するに、すげー難しい戦術って事ね。で、どうするンすか? この状況じゃ当初の予定通りにはいかない」
フランクの言う通り、この状況で継戦する事はヴェリア王国には非常にリスクを伴う。
ラファエルは到着して早々に決断を迫られていた。現状満足に戦えるのは第一部隊のみ。現場での責任もラファエルに託された状況である。
ラファエルは熟考する。釣り野伏せを仕掛けるという事はカナン軍が寡兵であることは疑いようがない。ならば第一部隊が前線に立つ間に部隊の再編に努め、再び攻勢に出る事も可能。しかし、未知の戦術に完敗を喫した味方の士気は低い。惨状を目の当たりにした第一部隊にも動揺や恐怖が伝染している。
やはり、ここは撤退が妥当か……。
「隊長」
思考の間に滑り込んだ鏡水の如く落ち着いた響きを伴う声に、ラファエルは顔を上げた。そこにあったのは鮮やかな金髪が美しいビアンカの顔。しかし人形のように無表情でありながら、その瞳に宿る煌々と燃える黒い憎悪の炎にラファエルは戦慄を覚える。
薄紅色の唇が小さく動いた。
「私がやります。腕の良い狙撃手を十人程お貸し下さい」
ビアンカを知らぬ者ならばその微細な変化に気付かなかったかもしれない。しかしラファエルにはビアンカの心に巣食う憤怒の激情が首をもたげているのがはっきりとわかった。
継戦か撤退かの天秤に揺れていたラファエルの思考はビアンカを前にして一気に撤退へと振られた。それは勝算云々ではなく、ビアンカがやろうとしている事を止めたいが故の個人的感情によるところが大きい。
「駄目だ、ビアンカ。君だけを危険に晒すわけにはいかない。それに我々がここから挽回する策はない」
「いいえ。戦勝に浮かれてカナン軍は油断していましょう。そして今宵は月も顔を覗かせぬ暗闇。私が楔となり敵を混乱させれば勝機はあります。そして何より」
ビアンカの青い瞳がギラリと光る。
「カナンの悪魔たちに背を向けて逃亡するなんて不敗の第一部隊の名折れ。悪魔たちに相応しい報いを私が与えます」
気圧される程の威圧感がビアンカの華奢な身体から迸り、ラファエルは思わず生唾を飲み込んだ。まるで殺気の刃が全身に突き立てられているかのようだ。
「そうだ……ビアンカなら暗闇に乗じた奇襲で敵を恐慌状態にさせられる!」
一人がビアンカの背中を押せば伝染するのは早かった。
「今までだってビアンカの奇襲から戦況を覆した事は何度もあった!」
「戦場の女神は俺達の味方だ!」
「ビアンカ!」
「ビアンカ!!」
「ビアンカ!!!」
圧倒的不利な状況下でビアンカの存在は正に希望の光であった。他力本願と蔑まれようが、彼等がそれに縋る事は無理からぬことである。
待て……お前たち待ってくれ。ビアンカを、ビアンカ一人を危険に晒そうというのか。死地へ追いやろうというのか!
ラファエルのビアンカを思う気持ちは、隊長としての責務のせめぎ合いで言葉になることはなかった。
高揚した士気を落とす事、それは即ちラファエル自らが敗北を決定付ける事に等しいからだ。
「おい、お前等! いい加減に」
堪らずフランクが制止しようとするが、それに被せて。
「出ます。狙撃手十名は私に付いて来てください」
ビアンカが出撃の号令を掛けた。
「ビ、ビアンカ……」
ラファエルの呼ぶ声に反応したビアンカは、ほんの僅か口元に微笑を浮かべると慇懃に礼をした。
そしてそれ以上止める間もなく、ビアンカは夜の闇へと消えていってしまった。
ラファエルの胸中に言い知れぬ不安の波紋がどこまても広がっていた。




