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Recollection1 過ちの行方:11

 一枚の紙をクリアファイルから取り出し、梨恵はその紙に書かれた一字一字を改めて見直していた。

『手術同意書』と書かれたその紙。中絶手術をするのに必要な用紙だ。

 病室のドアを叩く。ドアの向こうから低い声が「はい」と返事する。梨恵はそっとドアを開き、右手に持った同意書を握りしめた。


「話があるんだけど、今、平気?」


 バッグに荷物をつめていた彼は、梨恵をちらりと見て、すぐに荷物に視線を落とした。左目はいつもと変わらない。光喜ではない。


「『誰』に話があるの?」

「……光喜」

「そう」


 今の人格は誰なのだろう、と梨恵は彼を眺める。刺々しさがあるが、光喜のような鋭い雰囲気ではない。十代くらいの思春期の男の子が持つ『構ってほしくない』雰囲気に似ている。

 再び顔を上げた彼の目は、エメラルドの輝きを放つ。人格が入れ替わり、光喜が現れたのだ。


「話って?」

「退院するの?」

「ああ、これ」


 荷物を軽く叩き、光喜はうっすらと笑う。


「転院するんだよ」

「どうして」

「さあ」


 包帯で巻かれた左手を掲げて、彼は首をひねる。笑みを浮かべたままの、すべてわかったような表情は変わらない。


「……これ、書いてくれないかな」


 やにわに梨恵は同意書を差し出した。その拍子でクリアファイルが手から滑り落ちる。

 白い床をすべるクリアファイルを拾い上げ、光喜はそれを梨恵に返しながら、同意書を受け取った。途端に彼の表情が曇る。


「これは?」

「手術の同意書」

「何の手術」

「……中絶」

「産まないのか」

「……たぶん」


 光喜の顔が見れず、梨恵は彼の手元にある荷物だけを睨みつけていた。光喜の声が怒りを帯びていることが、顔を見なくてもわかった。


「しょうがないじゃない! 私はまだ学生で……結婚だってしてないし! あなたは私を裏切ったのに、どうして子どもが産めるの!」


 聞かれてもいない理由をまくし立てる。いいわけをひたすら並べてごまかしているような歯がゆい気持ち。自分自身でさえ、自分がどうしたいのかもわからず、なにか理由をつけて進むべき方向を無理やりひねり出している。本当はどうするべきなのか、答えは出ていないのに。


「怖いの! 怖い。愛せるかどうかわからない。きっと愛せない。産んでもきっと愛せない」

「そりゃそうだろう。賢明な判断だ」


 冷静で、冷たい言葉。梨恵は思わず光喜をその目で捉えた。だが、光喜の目には、いつもの冷ややかさは無かった。

 哀しげで、寂しげで。今までは垣間見ることもままならなかった人間らしい感情が、その目に宿っている気がした。


「俺たちみたいな思いを抱えるくらいなら、産まれない方がましだ。産まれない方が幸せだろう」


 胸がずきりと痛んだ。『生まれてくるな。死んでしまえ』そう願われた子。腹の中にいた記憶を持つユキオが抱えた悲痛な叫び。今、梨恵は同じ思いをきっと腹の子にさせている。


「あなたは……ユキオの気持ちを知っているのね」


 光喜は何も答えない。ベッドに座ったまま、膝に肘をつき、額に手を当て、何かを考え込んでいる。

 ユキオと光喜のつながりが何なのか、梨恵にはわからない。けれど、総志朗や他の人格たちより、光喜とユキオには特別なつながりがあるような気がする。


「殺せ。腹の子を殺せ。その方がいい」


 諦めたような口調で光喜はそう言って、同意書にサインをした。梨恵はそれを受け取り、うなだれたままの光喜を一瞥した後、病室を出て行った。




 病室に残された彼は、準備途中の荷物を思い切り叩いた。そのまま荷物を横になぎ払う。

 中に詰め込まれていた洋服が飛び出し、白い床の上に散らばる。


――どうして? どうしてよ! 死んでよ! 死んでよ!


「やめろ!」


――死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね!


「だったらどうして殺さなかった!」


――消えてしまえ! 産まれてくるな! 死んでしまえ!


「どうしてオレは生きてる!」


「だったら、俺が終わりにしてやる」


 脳裏に木霊する、声。


「お前の苦しめるものは、俺が消してやる。だから、今はゆっくり休め。鋭気を養うんだ」


 彼は目をつぶる。今は休む時。その時はまだ訪れない。再び目を開けた彼は、喉を鳴らして笑う。

 まるで自嘲するように。左目を宝石のごとく輝かせて。







 同意書を眺めて、梨恵は小さくため息をついた。まだどうすべきか迷っている。しかし、今の自分に子どもを産める自信が無い。経済的にも立場的にも、子どもを産めるわけがない。

 おのずと出てくる答えは中絶。医者に渡されたこの同意書を提出するだけで、中絶は決定する。

 そっとお腹に触れる。まだ膨らんでもいない腹。本当に子どもがいるのか、時折疑問に思う。その度に襲ってくるつわり。まるでそれは、お腹の子が存在を訴えているかのよう。

 物思いにふけっていると、玄関の方で物音がしていることに気付いた。

 梨恵はだるそうに立ち上がり、玄関へ向かう。


「どちら様?」

「今、いいか?」


 彼の声だった。

 鍵を開け、ドアを開く。


「梨恵、話がある」


 そこにいたのは、光喜。思わず後ずさる梨恵の腕を取る。


「身勝手なのは、わかってる。お前がその子を愛せない気持ちもわかる。それでも、俺は……」


 ためらうように言葉を区切り、光喜は掴んだ梨恵の腕を見やる。

 病室でも見た光喜のいつもと違う目。冷静沈着で何を考えているのかわからない氷のようなその目には、初めて感情というものを感じる。


「本当に、本当に、存在を求めていたのは総志朗だけじゃない。明も統吾もユキオも、俺も。俺たちの存在を、生きた証を、手に入れたかった」


 腕を掴んだその手に力が入るのがわかった。失う寸前の、消えてしまいそうな何かを必死で掴もうとするその手。梨恵は振り払うことが出来ず、呆然と光喜を見つめる。


「俺はあんたは利用した。裏切ったよ。だが……その子を産んでほしい。産んでほしいんだ」

「な……何を言ってるの?! 私を利用したくせに、総志朗を消すために利用したくせに! なんで今更そんなことを言うの?! やめてよ!」


 口をついた怒りの言葉を、梨恵は我慢できない。さんざん自分を利用した男の言葉を受け入れられない。

 ないまぜになった感情は行き場を失い、体中を駆けめぐる。

 見出せない答え。出そうとした結論がぐるりと反転し無くなっていく。


「梨恵、俺たちを、見捨てないでくれ」








 私が初めて見た、あなたの本心。

 あなたが抱えた気持ち。

 向けられていたのが私ではなかったとしても。

 不器用すぎるあなたの思い。

 不器用すぎるあなたの行動。

 もしかしたら、違う場所へあなたを導けたかもしれない。

 それが、私の後悔。

 

 



次回更新は7〜10日のいずれかの日になります。

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