第七話
土曜日の朝。いよいよ野外活動の日がやって来た。
空は晴れていたが、四月半ばとは思えないほど空気が冷たい。やはりどうしても東京と比べてしまう自分に、そろそろ嫌気が差してきた。
俺と紬は集合時間の五分前に学校の正門に着いた。大竹さんと雪白さんは既に来ている。
雪白さんは身軽な格好だが、大竹さんは何やら大きな風呂敷を持ってきていた。……手品でもやるのだろうか。面倒そうだから突っ込まないでおこう。
室井君を探すと、門の反対側で屈伸をしていた。顔を見ると、寒さで頬が真っ赤になっている。
「……室井君、何時に来たの?」
「七時です」
「集合は八時十五分だよ」
「遅刻を避けました」
「一時間十五分は避けすぎじゃない?」
「その間、準備運動をしていました」
用意周到すぎる。野外活動へ行く前に、俺なら活動を終えているぞ。
「おはようございます、紬さん、お兄様!」
大竹さんは、今から観光客を百人率いるかのように張り切っていた。うん。今日も通常運転で何より。
「本日は、山御杜の素晴らしさを余すところなく――」
「一人五分よ」
「分かっております!」
雪白さんに止められた。まだ出発していないのに、既に案内が始まりかけている。
「全員いるな」
駐車場の車から伊藤先生が現れた。普段の言葉遣いからは考えられない、大変可愛らしい車に乗っている。
先生は伸びをした後、腕時計を確認し、俺達全員を見回した。その視線が、紬の抱えている厚いファイルで止まる。
「相田妹。それは何だ」
「本社の資料です。でも読むのは、こちらの一枚だけです」
紬が、ファイルから紙を一枚取り出す。
「じゃあ、残りは置いていけ」
「質問された場合に必要です」
紬は結構強情だ。こういう時は絶対に譲らない。
伊藤先生は小さくため息をつくと、大竹さんを見た。
「大竹のその風呂敷はなんだ?」
「後でのお楽しみですわ!」
大竹さんは実に楽しそうに言った。……やはり手品か。地味に楽しみだ。
昼までに戻るという計画だが、急に実行不可能に思えてきた。
午前八時二十分。
「時間だ。出発するぞ」
伊藤先生の声で、俺達は正門を出た。最初の目的地は山御杜本社。
先頭に立った室井君が、迷いのない足取りで歩き始める。重そうだからと、大竹さんの風呂敷を持ってあげていた。優しい。
それにしても室井君が速い。ズンズン進む。十秒もしないうちに、俺達との間が開いた。
「おーい室井君!」
呼ぶと、室井君が振り返った。
「どうされましたか?」
「歩くのが速い」
「通常の歩行ですが」
「その通常に誰もついていけてない」
室井君は、後ろにいる俺達を確認した。
「申し訳ありません」
歩幅を狭め、再び歩き出す。……今度は遅い。
七時から準備運動を続けていた男に、普通の歩行速度は残っていないらしい。
「室井。最後尾へ回れ」
「承知しました」
伊藤先生の指示に従い、室井君が列の後ろへ移動する。代わって先頭へ出たのは、大竹さんだった。
「それでは皆様、まず右手をご覧くださいませ!」
「大竹。お前の担当は末社だろ」
「移動中は、どこの担当でもありませんわ!」
こいつ、早くも計画の隙を突いてきた。そんなにも紹介したいものがあるのか。
「案内は着いてからでいい。普通に歩け」
「ですが、山府の街は一歩ごとに見どころが――」
「声を落とせ。まだ朝だ」
「承知いたしましたわ!」
返事が大きい。近所迷惑だよ。
先生は制御を諦めたのか、俺達は大竹さんの案内を聞きながら本社へ向かった。
古い建物が並ぶ通りでは、店先のシャッターを開ける音が続いている。道沿いの桜はまだ咲いていなかったが、枝先の蕾が少し膨らんでいた。朝は冷えているものの、日差しの当たる場所まで来ると少し暖かい。
鳥居前町らしき商店街の入り口に来た。『山の小江戸、雪の小京都。一生に一度はお山参り』と書かれたどでかいアーチ状の看板が、商店街の入り口に架かっている。こうして見ると、観光地に住んでいるという実感が湧いた。
隣を歩く紬が、小さな声で何か呟いている。
「山府地方における山信仰の起源は……」
「紬」
「何でしょう?」
「どこから説明するつもりだ?」
「起源からです」
「本社の説明だよね?」
「本社を説明するには、山御杜を知る必要があります」
この前も聞いた。紬の腕には、例のファイルが抱えられている。
家に置いてくるという選択肢は、最初から存在しなかったらしい。
やがて、建物の向こうに大きな鳥居が見えてきた。
近づくにつれ、その奥に続く参道が姿を現す。市街地の中にあるはずなのに、目の前は森だった。まるで東京の明治神宮のようだ。そこだけ俗世から隔絶されたように、静かに木々が広がっている。土曜日の朝ということもあり、既に多くの参拝客が行き交っていた。
「こちらが、山御杜の本社ですわ!」
大竹さんが両手を広げる。
「紬の担当よ」
雪白さんに言われ、両手を戻した。……えらい。
「お前たち、場所を空けろ。通行の邪魔にならないところでやるぞ」
伊藤先生に従い、俺たちは参道の端へ移動した。
紬がファイルから一枚の紙を取り出す。
雪白さんは腕時計を確認した。紬を見た後、合図を出す。
「始めて」
紬が一度、大きく息を吸う。
「山御杜は山信仰の総本社で、正社二十一社三十九宮、摂社四十二社、末社二十二社、所管社四百六社によって構成されています。三重県の伊勢神宮が百二十五社の構成だと考えると、その規模の大きさがわかると思います。伊勢神宮の正宮にあたる正社は、参考資料掲載順に本社、式社、内社、末社、古社、中社、上社、奥社、南社、西社、下社、後社、横社、前社、北社、東社、新社、外社、玉社、水社、里社で、その内の本社、式社、内社、末社、古社が山府五社として人気があります。年間参拝客数は山府五社で約千九百六十万人、山御杜全体で約二千七百万人にもなり――」
まるで寿限無のようだ。紬は早口で一気にまくし立てる。
「山御杜の御杜とは社号のことで、神宮や大社に並ぶ由緒正しい呼び方です。日本で唯一、この山御杜だけが使用しており、古来から如何に特別な社だったのかが――」
いつの間にか、我々の周囲には人だかりができていた。
「その起源については複数の説がありますが、古代に山府地方を治めていた豪族、山氏の氏神を祀った祭壇が始まりと考えられています。御祭神はアラハバキという神様で、東北一円にその――」
説明は続く。
「西暦二〇〇〇年、式社の境内にある小山から、西暦一〇〇年頃のものと推定される鉄剣と棺が出土しました。発掘調査の結果、この小山は弥生時代後期の墳丘墓であることが判明して――」
まだ本社は出てこない。
「鉄剣には、漢字とは異なる十八種類の文字が刻まれていました。現在も解読には至っていませんが、この十八という数は、山御杜に祀られる神々の数と一致しています。このことから、文字ではなく、神を表す記号だった可能性も指摘されています。以上が、山御杜を理解するための前提です。では続いて、本社の施設構成へと――」
「五分」
雪白さんが告げた。
「本社の説明はこれからだったのですが……」
紬は不満そうに紙を持ち直す。
「終わりよ」
紬が雪白さんを見る。
「まだ本社を説明していません」
「五分使ったでしょう」
すると、俺達を囲んでいた人だかりの中から、初老の女性が手を挙げた。
「すみません、山御杜の宮は正社とどう違うのでしょうか?」
「はい。宮というのは――」
紬が答えようとしたところで、先生と雪白さんが止めに入った。
先生は質問してきた観光客に平謝りしている。「あらあ、そうなのねえ、ごめんなさいねえ」と観光客は立ち去った。これ以上解説がないと分かると、周囲の人だかりも解散する。
「長い」
先生が一言、ぴしゃりと言った。
「ですが、本社は山御杜の一部です。山御杜を説明せずに本社だけを説明すると――」
「その説明も長い」
バッサリ切られた。
「今見えているものを説明しろ。一分だけやる」
「一分」
「嫌なら終わりだ」
紬は紙へ視線を落とした。
あれだけ調べた内容を一分に縮める作業が、今始まったらしい。
「本社は、山御杜の中心となる社です。山御杜の祭祀と運営を担う本庁が置かれ、境内には国宝館、美術館、神苑などがあります。先ほど説明した鉄剣は、国宝館に収蔵されています」
「最初からそれを言え」
「前提がありません」
「なくても分かった」
紬は納得していない顔で、説明用紙をファイルへ戻した。
「次へ行くぞ」
伊藤先生が歩き出す。
雪白さんは腕時計を見た。
「予定より十分遅れているわ」
まだ一社目でこれである。先生は先が思いやられる様子で盛大にため息をついた。
次の目的地は式社。
案内役は、今しがた遅れを宣告した雪白さんだった。
雪白さんは、遅れを取り戻すつもりらしい。
本社を出ると迷うことなく式社へ向かった。室井君よりは遅いが、俺達よりは速い。
「雪白さん。少し速い」
「十分遅れているのよ」
「俺たちを置いていったら、もっと遅れるよ」
雪白さんが足を緩めた。
後ろからついてきた室井君は、歩く速度を保ったまま歩幅だけを狭くしている。器用なのか不器用なのか、判断に困る歩き方だった。
「式社は、もう間もなくですわ!」
大竹さんが前方を指す。
「知ってるわ。私の担当よ」
「道をお教えしただけです!」
「地元なんだから大丈夫に決まっているでしょう」
「ですが、六花さんは以前、この辺りで――」
「華恋」
雪白さんが振り返った。
「余計なことを言わないで」
「まだ何も申しておりませんわ」
何かあるらしい。
紬が小型ノートを取り出した。
「しまいなさい」
「まだ何も書いていません」
「これから書くつもりでしょう」
雪白さんは俺たちを置いていかない程度の速さで、式社へ向かった。
式社は山だった。市街地のど真ん中に、小高い山がある。本社ほど広くはないが、こちらにも大きな鳥居と社殿があり、参拝客が絶えず出入りしていた。
「山登りはしないって言ってたじゃん」
俺は思わず不満を言った。「これくらいの丘は山とは言いませんわ」と大竹さんが窘めてくる。いやいや、これ完全に山だから。
周りを高い山々に囲まれている山府の住人にとって、小山は丘という認識らしい。恐るべし、山の常識。
俺と紬はゼーハー言いながら石段を上がる。頂上まで何段あるんだ……。山府出身の三人はヒョイヒョイ上がっていく。先生はエスカレーターを使っていた。ずるい。
「ここでいいわね」
頂上に着くと、雪白さんは全員が揃ったことを確認し、鞄から一枚の紙を取り出した。
紬の資料と違い、余白がある。
「では、始めます」
自分で腕時計を確認し、説明を始めた。
「式社は、式宮、大宮と呼ばれるお宮のある山府五社の一社です。本社に次いで参拝され、境内には末社の八坂神社があります」
雪白さんは紙へほとんど目を落とさない。
社殿の位置、神楽殿、斎館、会館について、順番に指し示しながら説明していく。話が横道へ逸れることも、数字が増殖することもない。
「以上です」
雪白さんが腕時計を見る。
三分十二秒だった。
「もう終わりですの?」
大竹さんが驚いている。
「必要なことは説明したわ」
「まだ二分近く残っております!」
「五分以内よ。五分使い切る決まりではないでしょう」
その発想はなかった。
紬も少し驚いた顔で、雪白さんの説明用紙を見ている。
「質問は?」
雪白さんが尋ねる。
「していいのですか?」
「紬以外なら」
「どうして私だけ駄目なんですか!」
「質問が長くなるからよ」
かなり警戒されていた。
「それでしたら、わたくしから補足いたしますわ!」
大竹さんが手を挙げる。
「必要ない」
「冬に参拝するときは、石段の日陰にお気をつけくださいませ。雪が凍っていて滑りやすくなります」
「それは案内板にも書いてあるわ」
「六花さんも、中等部一年のときに転びましたものね!」
雪白さんの動きが止まった。
同時に紬のペンが動く。
「紬。今、何を書いたのかしら?」
「六花さんが、ここで転んだことです」
「消しなさい」
「現地で得た情報です」
「私の失敗を記録しないで」
「他にも六花さんは幼稚園の頃、遠足中にこの境内の枝に服を引っ掛けて身動きが取れなくなり、迷子になって大泣きしておりましたわ!」
「なんでそんなこと覚えているのよ!」
ついに雪白さんが大声を出した。顔が真っ赤だ。そうかあ。迷子になって大泣きしたんだあ。
生温かい目で見ていると、雪白さんに睨まれた。……怖い。
紬は少し考え、書いた部分へアンダーラインを引いた。
「なんで強調したのよ」
「大切な記憶ですので」
「やめなさい! 消しなさい!」
「記録を完全に消すのは、よくありません」
「何のための記録なのよ」
雪白さんの説明は三分で終わったが、その後の処理に五分かかった。
「行くぞ」
伊藤先生が打ち切った。




