第十五話
翌朝。
俺はいつもより二十分早く制服に着替え、一人で玄関へ向かった。
「兄さん、先に行くんですか?」
二階から紬の声が聞こえる。
「ああ。ちょっと用事がある」
「分かりました」
理由を尋ねないのが、ありがたいような寂しいような。今聞かれても、上手く説明できない。
靴を履いていると、台所から母さんが顔を出した。
「あら、紬を置いていくなんて珍しい。朝からデート?」
「違う。謝罪」
「デートより難しいやつじゃない」
「だから早く行くんだよ」
「女の子?」
俺は答えずに扉を開けた。
「図星ね。頑張ってらっしゃい」
「そういうのじゃないから!」
朝の住宅街へ声が響いた。近所迷惑である。早くも謝罪相手を増やすところだった。
外へ出ると、冷たい空気がまとわり付いてくる。心なしか、歩調が速くなった。
学校へ着くと、まだ正門を通る生徒は少ない。急いで教室へ向かう。
扉を開けると、雪白さんがいた。
いつもと同じように、一番後ろの席に座って本を読んでいる。
俺は自分の席へは向かわず、そのまま教室の後ろまで歩いた。
雪白さんが本から顔を上げる。
「何?」
冷たい声だった。
当然だ。
「……昨日のこと、謝りたい」
「そう」
「話を聞いてほしい」
「ここで?」
今はほとんど人がいない。しかし、何人かがこちらの様子を窺っていた。
廊下からは、登校してきた生徒たちの声が近づいている。
「……できれば、他の場所で」
「昨日はクラス全員の前で言ったのに?」
返す言葉もない。
「……本当に、ごめん」
雪白さんは俺を見たあと、本を閉じた。
「生徒談話室なら、まだ誰もいないでしょう」
「いいの?」
「話を聞くだけよ」
雪白さんは本を持って立ち上がった。
二人で教室を出る。
途中、登校してきたクラスメイト何人かとすれ違った。俺と雪白さんが一緒に歩いているのを驚いたように見ていたが、今は気にしている場合ではない。
廊下の一番奥。朝の生徒談話室は、放課後よりも静かだった。
二日来なかっただけなのに、ずいぶん懐かしく感じる。
俺はいつものテーブルへ向かう。
雪白さんは、いつも座っている窓側の椅子へ腰を下ろした。俺は向かいに立ったまま、頭を下げた。
「昨日は、本当にごめん」
雪白さんは何も言わなかった。
「雪白さんが『来ないと困る』って言ってくれたのに、五人いないと申請できないからだって、勝手に決めつけた」
昨日言ったことを、一つずつ思い出す。
「最初に部へ入った理由まで持ち出した。俺を追い出すために入ったんだから、いなくても困らないだろって。雪白さんを傷つけるために使った」
口に出すと、改めて最低だった。
「山府で生まれて、ずっとここで暮らしているなら、俺みたいに居場所のことで悩んだりしないと思ってた。それも、俺が勝手に決めつけた」
雪白さんは黙って聞いている。
俺はもう一度、頭を下げた。
「ごめん」
「腹が立ったわ」
「うん」
「最低だと思った」
「はい」
「今も、少し思っている」
「……」
雪白さんはそこで初めて、少しだけ表情を緩めた。
「でも、朝から謝りに来るとは思わなかった」
「……遅くなると、また謝れなくなりそうだったから」
昨日も昼休みに謝るつもりだった。
結局、大竹さんたちが来て、雪白さんは教室を出ていった。そのあとも声をかけられないまま、一日が終わった。
今日はもう、謝る機会を逃したくなかった。
「一つ、聞いてもいいか?」
「何?」
「昨日、俺が来ないと困るって言ったのは、人数のためじゃなかったんだよな……」
雪白さんの目が、少しだけ鋭くなる。
「疑っているの?」
「ち、違う違う。今度は、勝手に決めつけたくないから聞いてる」
雪白さんは黙った。
閉じた本の表紙を、指先でなぞっている。
「……一昨日も昨日も、四人で談話室に集まったわ」
「うん」
「華恋はいつもどおり大きな声だった。紬は大量の資料を持ってきたし、室井君は話し合いのたびに姿勢を正していた」
いつもの光景が浮かんだ。
そこに俺だけがいない。
「話し合いはできたわ。四人でも、困ることはなかった」
雪白さんは本から手を離した。
「でも、あなたがいない談話室は、静かすぎた」
……一瞬、意味が分からなかった。
「大竹さんがいたのに?」
「音量の話をしているのではないわ」
雪白さんは窓の外へ顔を向けた。
「私は、誰も来ない静かな談話室が好きだった。放課後や昼休み、教室にいたくないときは、いつもここで本を読んでいたの」
「……だから俺たちを追い出そうとした」
「ええ。毎日押しかけてきて、大声で話して、勝手に仮本部と呼んで。本当に迷惑だったわ」
「そこまで言う?」
「事実でしょう」
何も否定できない。
「でも、一昨日も、昨日だって、華恋も、紬も、室井君もいた。それなのに、あなたがいないだけで、いつもより静かに感じた」
雪白さんは、こちらを見た。
「それが落ち着かなかったの」
昨日の言葉が、ようやく本当の意味で届いた。
五人いなければ申請できないからではない。
俺がいないと困る。
雪白さんは、最初からそう言っていた。
「俺は、雪白さんには最初から居場所があると思ってた」
「どうして?」
「山府で生まれて、昔からの知り合いもいて、この学校にも三年間通ってるから」
「昔から住んでいることと、どこにいても居心地が良いことは別でしょう」
雪白さんは、呆れたように言った。
「中等部から知っている人なら大勢いるわ。でも、教室ではいつも一人で本を読んでいる」
「本が好きだからじゃないの?」
「それもあるわ。でも、他の人たちの話に入るのが面倒なときもある。教室にいると疲れるから、談話室へ逃げていたの」
雪白さんは、赤裸々に自分のことを話してくれる。俺は、毎朝一番後ろの席で黙々と本を読む雪白さんを思い出した。
ずっと山府にいるのだから、周囲に馴染んでいるのだと思っていた。話しかけられなくても困っていない。最初から一人でいたい人なのだと。
それも、俺が勝手に決めつけていただけだった。
「一人でいるのは嫌いではないわ」
雪白さんは続ける。
「でも今は、談話室に誰も来ない方が落ち着かない。あなたたちのせいよ」
部へ戻れとは言わない。談話室から出ていけとも言わない。
けれど、その言葉が嬉しくて、すぐには返事ができなかった。
続きの言葉を探していると、始業を知らせるチャイムが鳴った。
「あっ」
話している間に、随分時間が経っていたらしい。
「教室に戻らないと」
俺が談話室を出ようとすると、雪白さんが制服の袖をつまんだ。
驚いて見ると、すぐに手を放す。
「待って」
「でも、授業が始まるぞ」
「分かっているわ」
雪白さんは席を立たなかった。
「……あなたのことも、教えてよ」
突然のことで固まっていると、雪白さんは静かに続けた。
「あなたのこと、私はまだ何も知らない。東京のことも、まだ何も知らないわ」
「……今から話すの?」
「今だから知りたいのよ」
「一時限目を休むことになるけど」
「あとで怒られればいいでしょう」
「……仰せのままに」
雪白さんは、椅子へ深く座り直した。
「昨日、私には分からないと言ったわ」
「ごめん」
「それは、もう聞いた。そうじゃない。分からないから、あなたのことを聞くの」
雪白さんは、空いている向かいの椅子を指した。
「東京で、どんなふうに暮らしていたの?」
俺は、向かいの椅子へ腰かけた。
「どこから話せばいい?」
「最初から」
「十五年分あるぞ」
「一時間しかないわ。要点だけにして」
「紬の説明を止めるときみたいに言うなよ」
「長ければ止めるわ」
俺は少し考え、前の家の話から始めた。
家の窓から見えていた風景。
紬と部屋を共有していて苦労したこと。
玄関の前で、母さんと紬と三人で写真を撮ったこと。
撮り直した写真もあったのに、俺だけ目を閉じた一枚が残っていること。
「どうして、そちらを残したの?」
「知らない。母さんが面白がったんじゃないかな」
「見てみたいわ」
「今度な」
言ってから、自分で驚いた。
今度。
東京の写真を、雪白さんに見せる今度がある。
雪白さんは何も言わず、続きを待っていた。
毎朝歩いた通学路。
こっちよりハトやカラスがたくさんいること。
近所の銅像が季節ごとに衣装を変えるので、それを写真に撮るのが好きだったこと。
途中で友人と合流し、どうでもいい話をしながら学校へ向かったこと。
放課後によく寄った駅前の店。
「何を食べていたの?」
「その日による。飲み物だけで長居することもあった」
「迷惑な客ね」
「中学生の小遣いには限界があるんだよ」
「いつも同じ席だったの?」
「空いていれば。窓際の端」
「談話室と同じね」
言われて、初めて気づいた。
学校での話もした。
こっちの学校より校庭が狭いから、休み時間はみんな大抵教室にいたこと。
教室で皆で漫画を持ち寄って読んでいたこと。
学校から見える夜景がとても綺麗だったこと。
卒業してからも連絡を取っている友人がいること。
引っ越す前に、また会おうと言ったこと。
けれど、次にいつ会えるのかは決まっていないこと。
雪白さんは、「分かる」とは言わなかった。
分からないところを、一つずつ尋ねた。
どんな道だったのか。
どんな店だったのか。
誰と、どんな話をしていたのか。
どんなことが好きだったのか。
どんなことを考えていたのか。
俺も、覚えていることを一つずつ話した。
自分のこと、東京のことを、山府の誰かにこんなに話したのは初めてだった。
「あなたのこと、少しだけ分かった気がするわ」
一通り話し終えると、雪白さんが言った。
「少しだけ?」
「十五年分を一時間で分かるわけがないでしょう」
「要点だけにしろって言ったのは雪白さんだろ」
「まだ、話していないことがあるのでしょう?」
「そりゃあるけど」
「なら、続きはまた聞くわ」
雪白さんは、当たり前のように言った。
一時限目の終了を知らせるチャイムが鳴る。
「本当に一時間使ったな」
「ええ」
「戻るか」
「そうね」
二人で談話室を出た。
教室へ戻ると、休み時間の話し声が一斉に止まった。
昨日も同じようなことがあった気がする。
ただし今度は、俺だけでなく雪白さんも一緒だった。
「相田と雪白さん、どこ行ってたんだ?」
近くにいた男子が尋ねる。
「生徒談話室よ」
雪白さんが正直に答えた。おい。
教室がざわつく。
「二人で?」
「ええ」
ざわめきが一段大きくなった。
「雪白さん。全部正直に答えなくてもいいと思う」
「嘘をつく必要があるの?」
「ないけど、言い方とタイミングというものがある」
朝から二人で談話室にいた――という情報だけが、教室中へ恐ろしい速さで広がっていく。
次の授業を担当する教師が入ってきた。
俺と雪白さんを見ると、出席簿へ目を落とす。
「相田、雪白。朝のホームルームからいないことになってるぞ。遅刻か?」
「生徒談話室にいました」
また雪白さんが正直に答えた。やめろ。
「二人で?」
「はい」
教室が再びざわつく。
教師は額へ手を当てた。
「校内にいたのに、授業を休んだのか?」
「話が長くなりました」
「放課後、二人とも職員室へ来なさい」
「はい」
雪白さんは平然と答え、自分の席へ戻っていく。
……俺も言い訳は諦め、席へ向かった。
周囲から、これまで一度も向けられたことのない種類の視線を感じる。
入学してから、俺はクラスでほとんど誰とも話していなかった。
今日からは違う。
雪白六花と朝から二人で消え、一時限目を休んだ男として、全員に覚えられた。
ボッチからは脱出できた……かもしれない。だが進んだ方向が、どう考えてもおかしい。




