プロローグ
「私、新しい学校とお付き合いすることにしました。兄さん、応援してください」
夕飯のから揚げをモグモグしながら、俺の双子の妹、紬が宣言した。
「妹よ。さすがの妹大好きナイスガイなお兄ちゃんでも、応援できることとできないことがあるぞ」
無機物との恋愛。俺は妹のぶっ飛んだ思考を処理しきれるのか。……胃が痛くなってきた。
どうして俺の可愛い妹が、こんなことを言うのか。事の始まりは半年ほど前に遡る。
中学三年の夏休み最終日。母から、春に引っ越したいことを告げられた。父と離婚して三年。我々の中学卒業を機に、心機一転、再出発したいらしい。
初めは都内のどこかだろうと高をくくっていたが、話が進むにつれ、どうやら母は東北の山府市というところへ移りたがっていることが判明した。
当然俺は反対した。だって都内なら何でも揃うし、今後の進路にも影響するし、何より、思い出が多いこの街を離れるなら、いつでも帰ってこられる距離にいたかった。
しかし母は無情にも、こう宣言する。
「私の漫画家としての直感が言ってるの! 次のヒット作を出したいなら、舞台に住めと!」
漫画家である母は、身内の俺が言うのもなんだが、かなりの売れっ子だ。連載が終了し、次回作を考えているところだった。そのプロ作家が言うのだ。間違いではないのだろう。
生活費や学費、衣食住にいたるまで、己の生存に必要な一切合切を母に依存している俺には、為す術がない。
「紬も何か言ってくれ。俺だけでは母さんを止められない」
俺は藁にも縋る思いで、妹に助けを求めた。しかしこの妹も、中学生にして文芸誌の新人賞を受賞した、作家の端くれである。「舞台に住め! 金言ですね!」といってノリノリだった。
俺は渋々、十五年間過ごした東京を離れ、東北の山府市に移ることを了承した。
諸行無常。敗因は、多数決。
こうして俺達家族は、春休み中に三人で引っ越してきた。
ここで、母の漫画の舞台になるであろう山府市について紹介しよう。
山府市は、東北最南端の内陸県、会津県にある観光都市。冬は雪深く、深い山々に囲まれた中心市街地には、巨大な寺社仏閣がそこかしこにあり、歴史的な古い街並みとセットで世界文化遺産に登録されている。市の外れに行くと高原が広がり、スキー場やゴルフ場を始めとする高級リゾート地となる……と、ガイドブックに書かれていた。
とはいえ、ガイドブックを読んだからといって、すぐに山府を好きになれるわけではない。
引っ越してからの俺は、何かにつけて東京と山府を比べていた。店が少ない。電車も少ない。あるのは坂と寺社ばかり。そしてとにかく寒い。他にも劣っていることばかりが目に付く。
反対に母は、毎日楽しそうだった。街へ出かけては写真を撮り、古い建物が良かった、雪の残る山が綺麗だったと、お土産を片手に上機嫌で帰ってくる。
俺には東京へ帰りたい気持ちがあり、母には山府に住みたかったという気持ちがある。
しかし紬には、そのどちらもなかったらしい。
「紬は、前の家や街が恋しくないのか?」
「特には」
「十五年も住んでたんだぞ?」
「兄さんや友達、母さんとの思い出はあります。でも、前の家に戻りたいとは思いません」
家族や友達との思い出は大切にしている。しかし、思い出が生まれた場所には関心がない。
東京を離れても寂しくない。山府へ来ても特に嬉しくない。紬は今まで、それを気にしたこともなかったと言っていた。ある日までは……。
数日後、タブレットを見ていた紬が、画面を見ながら俺のところへ来た。
「兄さん。トポフィリアを知っていますか?」
「何それ、新しいお菓子?」
「違います」
速攻で否定された。やめてよ、俺が食いしん坊みたいじゃん。
紬は大真面目にタブレットの画面をこちらに見せてくる。
「人と場所との間に生まれる、情緒的な結び付きです。簡単に言えば、場所への愛着です」
「へえ」
「私には、それがないのかもしれません」
「安心しろ。俺にもない」
「兄さんにはあります。東京へ帰りたいと思っていますから」
どうやら俺は、知らないうちにトポフィリアとやらを手に入れていたらしい。別に嬉しくはない。
「母さんも、山府での生活を楽しんでいます」
「あれは漫画の取材だろ」
「昨日は屋根の写真だけで五十枚撮っていました」
「……楽しみすぎだな」
「私には、東京にも山府にも、そういう気持ちがありません」
紬はしょんぼりしている。どうした? お兄ちゃん、話、聞くぞ?
「それで困ってるのか?」
「いいえ。別に困ってません。ですが、興味があります」
その言葉を聞いた瞬間、俺は嫌な予感がした。
紬が「興味があります」と言ったときは要注意である。
普通の人間なら、気になったことがあっても少し検索して満足する。場合によっては検索することすら忘れる。
しかし紬は違う。一度興味を持つと納得するまで調べようとする。作家の探究心というと聞こえはいいが、家族からすれば、どこまで行くのか分からない暴走列車と大差ない。
あれは中学二年生の時だ。近所の野良猫が毎日どこへ行くのか興味を持った紬は、暇を見付けては猫の後を追った。
この話が、「猫を追って迷子になった」とか、「子猫を拾ってきた」とかなら可愛いエピソードで済むレベルである。
しかし紬は違う。何度でも言う。しかし紬は違うのだ。
猫の個体差を調べ上げ、行動範囲を把握し、それをGISを用いて地図にプロットし、ボス猫を特定し、ボス猫はアルファ犬の役割を果たせるのかという実験を行い、結果をまとめた自由研究は都から表彰され、どこぞの大学教授から将来はぜひ研究室に来てくれと言われた。そしてその時に放った一言が、「小説のネタにしただけなのでもういいです」だ。
あの時の大学教授の顔は、たぶん俺の一生のトラウマだ。そしてGISなんて言葉、お兄ちゃんは初めて知ったよ。
そんな前科があるのだ。妹大好きジェントルマンの俺だが、さすがに警戒せずにはいられなかった。
紬はタブレットを抱え、つぶらな瞳で訴えてくる。
「私も、場所を好きになってみたいです」
そんな目で見られるとお兄ちゃんは弱い。しかし、ここで屈すると後が面倒だ。俺はわざと素っ気なく尋ねた。
「ほう。で、どうするんだ?」
「山府でトポフィリアを得ます」
「どこかに落ちてるといいな」
「落ちてはいません」
それくらいは俺も分かっている。落ちていてほしいという俺の願望だ。
「私、山府でトポりたいです! いえ、トポります!」
……お兄ちゃんの返事、いらなかったね。
こうして紬は、山府でトポる方法を探し始めた。
しかし、トポフィリアについてネットで調べても、意味や具体例は載っていても、獲得方法までは書かれていない。そして大変幸いなことに、引っ越してきたばかりの山府では専門書を手に入れる手段がない。電子書籍すらなかった。え、こんな偶然ってある? お兄ちゃん安心した!
そこで紬は考えた。
トポフィリアが場所への愛なら、恋愛と同じ方法が使えるのではないか。恋と同じなら、毎日通う場所へ恋するのがいい。そうだ、学校と付き合おう!
……そして、冒頭のセリフである。
俺は明日からの学校生活のことを思い、静かに目を閉じた。どうか、平穏な学校生活を送れますように。




