1話
「お願いだから、これ以上レオノールド様を惑わせないでくれないかしら?」
放課後の第一魔法実習棟、その裏手に広がる庭園の影で、ミモザ・ヴァルハイドは冷ややかな声を聞いていた。
目の前に立っているのは、ミモザの「唯一の親友」であるはずのクロエ・ダンバースである。公爵家の令嬢である彼女は、深紅の髪を優雅に揺らし、蔑むような瞳でミモザを見下ろしていた。
ミモザは手元に抱えた分厚い魔導書を少しだけ強く握りしめた。
「惑わせるだなんて……クロエ、何の話? 私とレオノールド様は、来週の魔導調合の昇格試験に向けた共同研究のペアに選ばれているだけよ」
「言い訳は結構よ、ミモザ。あなたが彼にどのような下心を持って接近しているか、私にはお見通しなの」
クロエは可憐な唇を歪め、一歩踏み出してきた。
「レオノールド様はグランヴェルグ公爵家の御司。学園でも頂点に立つお方よ。それに対してあなたは、しがない中流貴族の娘。本来なら視界に入ることすら許されない存在なの。自分がどれほど不釣り合いか、理解しているかしら?」
「私はただ、与えられた課題を正当に完了させたいだけよ。レオノールド様も理論構築のパートナーとして私を選んでくださったわ」
「なら、今すぐ辞退しなさい。体調不良とでも言ってペアを解消すれば済む話でしょう? さもなければ……あなたが大切にしている奨学生の推薦枠、どうなるか分かっているわね?」
あからさまな脅迫だった。
ミモザは息を呑んだ。この王立魔法学院において、奨学生制度は平民や下級・中流貴族が優秀な成果を収めるための命綱だ。実家からの援助が限られているミモザにとって、奨学生推薦を失うことは学園からの退学を意味する。
「どうしたの? 返事は?」
クロエが優越感に満ちた笑みを浮かべた、その時だった。
「――そこまでにしてもらおうか」
低く重厚な声が、庭園の静けさを切り裂いた。
樹木の影から現れたのは、銀髪を夕日に輝かせた青年――レオノールド・フォン・グランヴェルグ本人だった。冷徹なまでに整った容姿と、底知れぬ魔力を秘めた群青の瞳が、クロエを鋭く射抜く。
「レ、レオノールド様……!? なぜここに……」
クロエの顔から一瞬で余裕が消え去り、焦色の笑みが張り付いた。
「私のペア相手であるミモザを探していただけだ。ダンバース嬢、我がパートナーに対して不当な脅迫を行っていたようだが……聞き捨てならないな」
「ち、違いますわ! 私はただ、ミモザがレオノールド様にご迷惑をおかけしていないか心配で……!」
「迷惑など受けていない。むしろ彼女の精密な魔力制御理論がなければ、今回の試作品は完成しない。失礼する」
レオノールドはクロエの言葉を冷たく遮ると、ミモザの手首をそっと取り、その場を歩き出した。
残されたクロエは、屈辱と怒りで顔を真っ赤に染め、去っていく二人の背中を睨みつけていた。
◇
一方、同じ刻限。男子訓練場の手前にある回廊で、レオノールドもまた嫌な対峙を経験していた。
放課後の作業に向かおうとしていたレオノールドの前に立ちはだかったのは、彼の幼馴染であり伯爵家の嫡男であるジュリアンだった。
「おいレオ! またあのヴァルハイドとかいう女と一緒に過ごすつもりか!?」
ジュリアンは大声で叫び、レオノールドの立ち塞がりを行った。
レオノールドは足を止め、深く溜め息をついた。
「声が大きいぞ、ジュリアン。それにミモザ……ヴァルハイド嬢のことを蔑むような言い方はやめろと言ったはずだ」
「何を言っているんだ! あんな地味で取り柄のない女に引っかかるなんて、お前らしくもない! お前はグランヴェルグ公爵家の次期当主だろ!? もっと相応しい高貴な女性を選ぶべきだ!」
「パートナーを選んだのは学園の自動選別陣だ。彼女の魔導理論の正確さは学年トップだ。俺の過剰な攻撃魔力を抑え込み、実用レベルに安定させられるのは彼女しかいない。合理的な判断だ」
「合理的? 冗談じゃない! あいつはお前を利用して成り上がろうとしているだけだ! 幼馴染の俺だからこそ分かる、お前は騙されているんだよ!」
ジュリアンは興奮気味にレオノールドの肩を掴もうとしたが、レオノールドは素早くそれをかわした。
「ジュリアン。俺のプライベートにも、研究のパートナー選びにも、お前が踏み込む権利はない」
「俺はお前の親友だから言ってるんだろ! あんな女と関わっていると、お前の評価まで下がるぞ!」
「話は終わりだ。ミモザが待っている」
レオノールドはジュリアンを冷ややかに見据えたあと、背を向けて歩き去った。
一人残されたジュリアンは、苦々しい表情で拳を強く握りしめた。
「クソッ……! なんであんな女の味方ばかりするんだ! レオは俺の親友で、俺の引き立て役……いや、俺が一番理解している存在なんだ。あんな女に奪われてたまるか……!」
ジュリアンの瞳に、暗い執着の光が宿る。
「……だったら、仕組むしかないな。あいつが二度とレオの前に現れなくなるような『事件』をな」
◇
中央図書館の奥深く、静寂が支配する閲覧室で、ミモザとレオノールドは向かい合って座っていた。
机の上には古びた羊皮紙や無数の魔導書が積み上げられている。先ほどの出来事の余波で、二人の間には気まずい沈黙が流れていた。
「……ミモザ」
「は、はい! 何でしょうか、グランヴェルグ様!」
「二人きりの時は、レオでいいと言ったはずだ」
「で、ですが、ここは学園ですし……」
「誰も見ていない」
レオノールドはすっと手を伸ばし、ミモザの手元にあるノートの端を指差した。
「ここ、三番目の呪文紡ぎの接続部分だが……少し魔力の循環を緩やかにした方がいい。お前の癖で、後半の収束速度が早すぎる」
「あ……本当だ。すみません、無意識に……」
「謝る必要はない。お前の制御の精度は素晴らしい。ただ、俺の魔力と同期させる場合、そのコンマ数秒のズレが大きな摩擦を生む。お前の完璧な計算に、俺の過剰な魔力がついていけていないだけだ」
「そんな! レオの魔力が過剰だなんて……私の構築が未熟なせいです!」
「いいや、お前は完璧だ」
レオノールドはハッキリと言い切った。まっすぐな群青の瞳に見つめられ、ミモザは胸がキュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
顔が熱くなるのを隠すように、ミモザは慌てて俯いた。
「……ありがとう、レオ」
「……ああ」
レオノールドは少しだけ気まずそうに視線を逸らしたが、その耳たぶがかすかに赤くなっているのを、ミモザは見逃さなかった。
(本当は、私だって……レオの隣に胸を張って立ちたい。でも、クロエやジュリアン様の言う通り、私じゃ足引っ張りなのかもしれへん……)
互いに深く惹かれ合いながらも、周囲の悪意と立場に阻まれ、あと一歩を踏み出せない二人。
しかし、二人が抱く純粋な想いを引き裂こうとする悪意の罠は、すでにすぐそこまで迫っていた。




