その程度で、私の代役が務まるとでも??
行事の前日のことを、ラーナはよく覚えている。
「——また念入りだな」
公爵であるエドモンはそう言いながら、書類の束を脇に置いた。ラーナは手帳から顔を上げる。
「明日はお茶会ですから。ヴァン伯爵はご体調がすぐれないとお聞きしたので、長話は避けた方が良いかと。アシュフォード侯爵夫人はご長男のことを話題にされると喜ばれます。先日、騎士団長に昇格されたそうで」
エドモンはラーナの手帳を覗き込んだ。細かい文字でびっしり埋められた頁。来賓の名前、近況、エドモンとの関係、避けるべき話題と使える話題。毎年この三日間のために、ラーナが積み上げてきたもの。
「……君は、なぜそこまでやるんだ」
ラーナは少し間を置いてから答えた。
「エドモン様のご負担が、少しでも減ってほしいと思って」
エドモンは何も言わなかった。それが毎年の光景だったから——だがその言葉が、なぜか今夜はいつもより少しだけ長く、胸の奥に残った。
公爵家当主とその婚約者は、『三日間連続の社交行事』を王都で定期的に開くことが慣例となっている。初日は昼の茶会、二日目は晩餐会、三日目は夜会という構成で、公爵家にとっては政治的なつながりを確認する重要な場だ。ラーナは婚約してから毎年この三日間をエドモンの隣でサポートしていた。
その日の夜、ラーナは急に高熱を出した。
翌朝、寝台の中で目を覚ました時、頭が重く上半身を起こすことさえままならなかった。
侍女のマーガレットが青い顔で言う。
「クレア様より、お見舞いの花が届いてございます」
ガーベラの花束と、妹からの一通の手紙。丁寧な筆跡で、こう書かれていた。
『お姉様、どうかゆっくりお休みになってくださいませ。行事のことはご心配なく——わたくしにお任せいただければ、エドモン様のお側でしっかりお支えいたします』
ラーナは一度、目を閉じた。
妹クレアは、幼い頃から愛らしく、両親にも周囲にも甘やかされて育った。欲しいものは必ず手に入れてきた子だ。おもちゃも、ドレスも、周囲からの注目も。そしていつの頃からか、姉のラーナの婚約者であるエドモンにも、露骨に色目を使うようになった。
見舞いの体をとっているが、中身はそうではない。『自分が代役を務める』という宣言だ。しかも、ラーナが断れない状況で届けてきた。
「マーガレット」
「はい」
「これからの三日間の動きを、毎晩できる限り教えてほしい。行事直後で忙しいとは思うけれど、叩き起してでも良いからすぐに報告して。誰がどこで何を言ったか、細かいことも全部」
「……承知いたしました」
* * *
一日目。昼の茶会。
クレアは自信満々で会場に現れた。淡い桃色のドレス、完璧な微笑み、エドモンの隣という位置。見た目だけなら文句のつけようがなかった。
問題は、それ以外だった。
「こちらの方のお名前は……?」
一人目の来賓への挨拶で、クレアはエドモンに小声で尋ねた。妙な顔をする相手の貴族に、エドモンが自分でフォローに回る。それが午後に入ると二度、三度と繰り返された。
アシュフォード侯爵夫人が近づいてきた時、エドモンは会話の糸口が一瞬わからなくなった。いつもならこのタイミングで、ラーナがさりげなく『ご長男のご昇格、おめでとうございます』と口を開いていた。
その声がない。
(いつも、ラーナが自然に繋いでくれていたのか)
エドモンは侯爵夫人との会話を自分で弾ませながら、これまで『当たり前』だったものの輪郭を、少しずつ意識し始めた。
その一方で、クレアはエドモンから離れ、別のことにせっせと励んでいた。
来賓の夫人と話しながら、さりげなく言う。
「ラーナお姉様は本当に繊細で……少し気苦労が重なるとすぐ体調を崩されてしまうのですわ。エドモン様もさぞかしご心配でいらっしゃることでしょうに」
事実ではなかった。ラーナは普段、滅多に体調を崩さない。だがクレアはその発言を、角度を変えながら複数の来賓の前で繰り返した。『弱くて頼りない令嬢』という印象を、ラーナという名前に丁寧に塗り付けていく。一度や二度ではない。茶会の間じゅう、機会を見つけては繰り返した。
夜、エドモンはラーナの屋敷に手紙を出した。『体の具合はどうか』という心配を綴ったものだ。
返事は翌朝届いた。『おかげさまで少し楽になりました。明日の晩餐ではフォークナー卿とダントン伯の席が隣にならないようご注意をお願いいたします。お二人は先日仲違いをされたようで、今はまだ冷却期間が必要でしょう』——そこにはびっしりと、当日の注意事項が書かれていた。
エドモンはその手紙を、しばらく眺めた。
(熱があるのに、ここまで……)
* * *
二日目。晩餐会。
エドモンはラーナの手紙を手元に持ち込み、もともと決めていた席次をその通りに調整した。フォークナー卿とダントン伯は離れた席になり、険悪な空気は起きなかった。
ダンフォード侯爵には、エドモン自身が声をかけた。
「ご令息のこと、お聞きしています。今夜はよくお越しくださいました。お疲れが出ませんように、どうぞご自愛ください」
俯いていた侯爵が顔を上げ、目を細めた。
手紙に書いてあったのだ。『ダンフォード侯爵は先月ご令息を亡くされています。一言だけでも声をかけていただければ、きっとお心が軽くなると思います』と。
(これも、ラーナが教えてくれていた)
ラーナを信頼して、自分で動く。それが今のエドモンにできることだった。
それとは別に、もう一つの動きがあった。
晩餐の前、クレアはマーガレットに声をかけた。
「お姉様がエドモン様にお渡しするようにとおっしゃっていた手帳があると思うのですけれど。来賓の方々についてまとめたもの、ご存知ではなくて?」
マーガレットは静かに答えた。
「そのようなお言葉はいただいておりません」
「……あら、そうなの。お熱で混乱されていたのかもしれませんわね、かわいそうに」
クレアはそれだけ言って立ち去った。
エドモンは、クレアが裏で何をしているのかを確認し始めていた。クレアは、故意に虚偽の発言を繰り返している。
『ラーナ様の体調がいつも悪い、とクレア様からお聞きしましたが、大丈夫ですか?』
『最近は精神を病まれているようで』
『寝台から起き上がれないほど……』
複数の来賓たちが、ラーナを心配し、口を揃えてエドモンに尋ねてきたからだ。
無論、すべて嘘の情報だ。ラーナが体調を崩すことなどほとんどない。
クレアがマーガレットを呼び出していたことも、二日目の夜エドモンの耳に入った。
(——ラーナの評判を下げようとする行為、許せるわけがない)
エドモンは静かに、全てを記録し始めた。
* * *
三日目。夜会。
クレアの表情には不機嫌さがにじみ出ていた。虚言に気づいた大部分の来賓たちから冷たくあしらわれ始め、姉の手帳も奪えなかったからだ。
彼女はついに、最後の賭けに出ることにした。陰での工作から、表向きの既成事実づくりへ。
クレアは離れた場所にいるエドモンをチラリと見ながら、複数の来賓に向けて親しげに振る舞い続けた。会話の端々に、こんな言葉を混ぜながら。
「三日間、エドモン様とご一緒できて光栄でしたわ。……夜も」
「公爵様のお側にいると、本当に心強くて……何もかも頼りにしてしまいますわ。いろいろと……」
「お姉様がご不在の間、わたくしなりに精一杯お支えしてまいりました。そのおかげか、エドモン様はわたくしに……」
まるで関係を持っているかのような意味を含ませた、計算された言葉の数々。だが、ほとんどの来賓たちは、クレアを冷ややかな目で見ていた。
来賓の一人が言った。
「……ラーナ嬢は、いつお戻りになるのでしょうか?」
クレアが微笑みながら答える。
「……お姉様はこういった場がご負担なのか、エドモン様のお隣に立つ機会がもともとそんなには多くない方でして。ですから今夜も——」
ラーナが社交行事を負担に感じて逃げているかのように周囲に印象づける発言。
それは会場のどこかで、確かに聞こえていた。
「……クレア」
静かな声がした。振り返ると、そこにはラーナが立っていた。まだ少し顔色が悪いが、真剣な表情をしている。
「先ほどの言葉を聞いていたわ。私が社交の場を負担に思って、エドモン様の隣を避けていると言っていたようね」
クレアの表情が一瞬揺れた。だがすぐに微笑みを取り戻す。
「まあ、違いましたか? それに——エドモン様もきっと、もっと華やかな女性が隣にいらした方がお喜びでしょうし。この三日間、わたくしたちはすっかり——」
その瞬間、エドモンがラーナの手を引いた。
迷いなく、素早く。クレアの言葉を遮るように。まだ熱の残るラーナの体がふらりと揺れた瞬間、エドモンはそのまま支えて、両腕でしっかりと抱き寄せた。
エドモンの温もりが、ラーナの肌にしっかりと伝わってくる。
「クレア嬢」
エドモンの声が、会場の空気を変えた。これまでの三日間とは全く異なる、冷えた声だった。
「今、何を言おうとしていた」
クレアが固まる。続きを言えない。
「僕の婚約者はラーナだけだ。三日間一緒にいたからといって、それ以上のものは何もない。君とのあいだには」
来賓たちが息を呑んだ。今日クレアが積み上げようとしていた嘘の既成事実が、エドモンの一言で完全に否定された。
エドモンはクレアをまっすぐ見た。その瞳には、静かな怒りが宿っている。
「一日目の茶会でヴァン伯爵夫人に何を話したか、覚えているか」
クレアが蒼白になった。
「ラーナは繊細で、気苦労が重なるとすぐ体調を崩すと——そう言っていたな。それを複数の来賓の前で、表現を変えながら繰り返していた」
「そ、それは……お姉様を心配して申し上げただけで、悪意があったわけでは——」
「二日目の晩餐前、侍女のマーガレットを呼び出した。恐らく、ラーナの手帳を奪おうとしたんだろう。違うか?」
「あれは……お姉様が高熱で混乱されているとおもって、わたくしなりに判断——」
「そして今夜」
エドモンの声が、一段低くなった。
「僕との特別な関係を匂わせる虚言を吐き、既成事実として周囲に吹き込もうとした」
クレアの弁明が、ついに止まった。
「全部、証人がいる。君の蛮行はすべて記録に残した。言い逃れできると思うな」
来賓たちが見ている。三日間のクレアの振る舞いを直接目にしていた者も、今夜初めて聞いた者も、全員が静かにその言葉を聞いていた。誰も口を開かなかった。それがかえって、重かった。
クレアの顔に、大きな焦燥が滲んだ。これまでの計算高い微笑みが剥がれ、その下から別の顔が出てくる。
「そんな……違う、違いますわ! わたくしはただエドモン様のためを思って——そうよ、お姉様のためでもあって! お姉様が頼りないから、わたくしが助けてあげようとしただけで……!」
声が上ずっている。言葉が空回りしている。自分でも気づいているのだろう——言えば言うほど、みっともないと。それでも止まれなかった。
「エドモン様だって、この三日間、わたくしのことを悪くは思っていなかったはずですわ! 一緒にいて、分かったはずです、お姉様よりわたくしの方が——」
「クレア嬢」
エドモンが静かに遮った。感情の見えない、冷徹な声だった。怒鳴るより、ずっと冷たい。
「三日間、君の隣にいて一つだけはっきりわかったことがある」
クレアが息を呑む。
「君は三日間、一度も僕のために動いていなかった。来賓への配慮も、場の空気を読むことも、席次の調整も——何一つ。君がやっていたのは、ただ僕の隣にいる自分を演じることだけだ」
「……っ、それは——」
「ラーナは病床で、君の知らない場所で、僕のために動き続けていた。その大きな差が、この三日間で出た」
クレアの唇が震えた。何か言い返そうとして、言葉が出てこない。来賓たちの視線が、ひとつひとつ刺さる。同情でもなく、軽蔑でもなく——ただ、冷えた目で見ている。
「お姉様なんか……お姉様なんか、地味で、目立たなくて、どこが良いんですか……! わたくしの方が、絶対に……!」
その声は、すでに懇願に近かった。
エドモンは何も答えなかった。傍にいた男性執事に目配せすると、視線をラーナに移した。そして腕の中にいる彼女だけを見つめて、静かに言った。
「ラーナ。君がずっと、僕のためにやってくれていたこと。今夜、改めてちゃんとわかった」
ラーナが目を瞬かせる。
「——ありがとう」
衆人環視の中で、エドモンはそう言うと、ラーナを姫抱きした。
「ラーナの体調がまだ優れないようなので、部屋に送り届けます。ご来賓の皆様は、しばし歓談などしてお待ちください」
会場から歓声が上がる。
唇を噛みしめながら棒立ちしていたクレアは、執事に連れられ退場していた。最後まで見苦しく叫んでいたが、誰も彼女のことなど見向きもしない。来賓たちはすでにエドモンとラーナの方へ温かな視線を移していた。
* * *
廊下に出たエドモンに抱きかかえられながら、ラーナはあわてて言った。
「エドモン様、もう降ろしてください。人が——」
「いない」
確かにそこには、誰もいなかった。静かな夜の廊下で、ラーナはエドモンの腕の中にいた。
しばらく、エドモンはそのままでいた。降ろそうとしない。
「……エドモン様?」
「もう少し」
それだけ言って、エドモンはラーナの額にそっと自分の額を重ねた。
近い。こんなに近い。ラーナの心臓が、うるさいくらいに鳴り始めた。
「まだ熱があるだろう。無理をするな」
「……それはエドモン様の体温が高いせいかもしれません」
「なら、僕のせいか」
「……否定はできません」
エドモンが小さく笑った。それから、静かに言った。
「いつも、ありがとう。伝えられていなかった分、これから全部伝える」
「……全部、ですか」
「ああ。まず一つ」
エドモンがゆっくりと顔を近づけた。
ラーナが息を呑む間もなく——唇に、そっと温かいものが触れた。
一瞬のことだった。だが確かに、触れた。
エドモンが顔を離す。ラーナの頬が、病の熱とは別の理由でじわりと赤くなっていく。
「僕には、君しかいない」
「……え」
「この三日間で、嫌というほどわかった。僕の隣に立つのは君じゃなきゃいけない。君の代わりはどこにもいないんだ」
ラーナは何も言えなかった。言葉が、うまく出てこなかった。
「いつも当たり前だと思っていた。それが間違いだった。だからちゃんと言う」
エドモンがラーナの手を、両手で包んだ。
「ラーナ。僕の隣にいてほしい——これからも、ずっと」
目が、じんと熱くなった。泣くつもりはなかった。だがこらえるのに少し時間がかかった。
「……私も」
「聞こえない」
「……私も、ずっとエドモン様のお隣にいたいです。ずっと前から、そう思っていました」
「そうか」
エドモンがかすかに笑った。普段の、社交の場で見せる微笑みではない。もっと素朴な、どこか安心したような笑い方だった。それがかえって、ラーナの胸に刺さった。
繋いだ手が、もう一度ぎゅっと握られた。
「ならば、もう離さない」
夜空に星が見える。その光が、いつもより少し近く感じた。
* * *
翌日、ラーナとクレアの実家である侯爵家と公爵家の間で正式な話し合いが持たれた。
公の場で公爵家当主との関係を捏造しようとしたこと。それらが貴族社会において何を意味するかは、分かりきっていた。
加えて、エドモンが三日間かけて集めた証言の数々が提示された。一人や二人ではない。複数の来賓が、クレアがラーナに関する虚偽の発言を繰り返したと証言した。
侯爵家当主は深く頭を下げた。かわいがってきた娘の行いの全容を、その場で初めて知り、深く後悔した。
クレアは辺境の修道院に送られ、そこで一生を過ごすことになった。それは彼女自身への罰であると同時に、侯爵家が公爵家への謝罪を示すための決断でもあった。
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