真実の愛?笑わせないでくださる??
ヨーレン伯爵家主催の舞踏会は、今夜も盛況だった。
煌めくシャンデリアの下、色とりどりのドレスが花のように咲き誇り、楽団の奏でる優雅な旋律が広間を満たしている。
そんな夜の空気を、一つの声が切り裂いた。
「ソレイユ。君との婚約は、今日をもって破棄する! ——僕はね、真実の愛を見つけたんだ」
エディ・ヨーレン伯爵子息は、自分の婚約者に向かってそう言い放った。
広間の空気が、瞬時に凍りつく。
笑い声が止み、グラスを傾ける手が止まり、ざわめきすら息を潜めた。数十対の視線が、一人の令嬢へと集まっていく。
ソレイユ。質素とは言わないが、派手さとも無縁な淡い色のドレスを纏った令嬢だ。輝くような美しさではないかもしれないが、凛とした佇まいは人目を引くものがある。今その瞳は、感情の読めない静けさをたたえていた。
エディの隣には、リリエット伯爵令嬢が立っていた。社交界の華と呼ばれるにふさわしい、鮮やかな赤のドレス。扇を手に不敵な笑みを浮かべている——まるでこの状況を、ずっと待ち望んでいたかのように。
「真実の愛、ですか」
ソレイユの声は、ひどく落ち着いていた。
動揺も、狼狽も、涙も、そこにはない。ただ静かに、言葉を返す。
エディは気分よさそうにニコニコしながら、続けた。
「ああ、そうだ。君との婚約は、家同士が決めたこと。正直、僕は全く君に魅力を感じないし、愛することもできない」
言葉だけでは足りないとでも思ったのか、エディの視線がソレイユの体をゆっくりと舐め回す。嘲笑がその口元に浮かんだ。
確かに、リリエットの華やかさと比べれば、ソレイユは地味だ。エディにはそれが、自分の優位を証明する証拠に見えているようだった。
「でも、リリエットは違う。僕は、リリエットを心から愛している。だから、すまないが僕と君の婚約関係は解消——」
その瞬間だった。
ソレイユが、笑い出した。
くすくすと漏れるような笑いが、やがて高らかな笑い声になる。扇で口元を隠すわけでもなく、堂々と、遠慮なく。広間に響くその笑い声に、エディの顔がみるみるうちに不機嫌に歪んだ。
「何がおかしい?」
「面白いと思っただけですわ」
ソレイユはすっと笑いを収めて、涼しい顔で言った。
「心から愛している、などとよくもまあ、そんな虚言を堂々と」
リリエットの笑みが、怒りで歪んだ。
「虚言ですって? わたくしがエディ様に溺愛されていることに、嫉妬しないでくださる?」
「嫉妬など全くしておりませんわ」
ソレイユは扇を開き、ゆるりと揺らしながら続けた。
「複数人の女性と関係を持つような方に愛されたいなど、私なら思いませんもの」
「何を根拠にそんなことを言っているんだ!」
エディが叫ぶ。
ソレイユは何も答えなかった。ただ、ほんの少しだけ入口の方へ視線を向けて——微かに微笑んだ。
その瞬間。
貴族たちの人垣を、静かにかき分けて歩いてくる人影があった。
背丈が高く、凛々しい顔立ちの男。仕立てのよい服を纏い、場違いなほど落ち着いた足取りで三人の前に歩み出る。
男と目が合った瞬間、エディの顔が引き攣った。
「お、お前が……なぜ、こ、ここに……?」
男は、静かな笑みを浮かべたまま、広間に集まった貴族たちへと向き直った。
「皆様、お初にお目にかかります。王都特区のとある宿の支配人をしております、シドルと申します。本日は、常連のお客様であるエディ様に関しての告発を、この場でさせていただきたいと思っております」
広間が静まり返る。
エディは引き攣った顔のまま、声を上擦らせた。
「な、何を言っている……!? だ、第一、この舞踏会の主催者である僕がそのようなことは許さない! 直ちに帰れっ!」
近くに控えていた使用人に素早く目配せする。
だが、その使用人が動くより早く、会場の奥から人影が現れた。
エディの両親として一歩引いた位置で舞踏会を見守っていたのだろう、ヨーレン伯爵家当主と、その妻である伯爵夫人。
初老の当主は、静かな威圧感を纏いながら言った。
「告発を行うことを、当主である私が許可する。もし、ソレイユ嬢が言うように——複数人の女性との関係を持っていることが事実ならば、その時は分かっているだろうな?」
鋭い眼差しが、エディを射抜く。彼の額に、じわりと汗が滲んだ。
「ありがとうございます。では、早速」
シドルは淡々と、しかし広間全体に届く声で語り始めた。
「まず、現在エディ様は七人の女性と関係を持っています」
一拍の間。
「その七人の女性のうち三人が下級貴族の令嬢。残り四人は、売春宿の高級娼婦です。証拠は、私の宿の従業員十五名による証言です。『一人目の女性がエディ様の部屋から退室した後に、また別の女性を呼び寄せていた』などと証言しております。七人の女性の名前は、全て確認済みです」
ざわめきが、広間全体を波のように伝わった。令嬢たちが扇の陰で囁き合い、年配の貴族が顔をしかめる。エディは蒼白になりながらも、まだ何かを言おうと口を開きかけた。
シドルは続けた。
「また、エディ様のおっしゃった言葉も記録しております。これまでエディ様の部屋の隣になられたお客様十二名が、『隣室の客の声や音がうるさい。壁を貫通して丸聞こえだ』と苦情を申し出られました。お客様曰く、『僕が愛しているのは君だけだ』『薔薇のように美しい君のためなら、僕はなんだってできる』『僕の甘い囁きに感じているのかい?』などとエディ様はおっしゃっていたそうです」
シドルは静かに言葉を締めた。
「高級宿ですが、部屋の壁は非常に薄いのです……」
エディは顔を耳まで真っ赤に染め、体を震わせ、その場に座り込んだ。両手で耳を塞いで、まるで子どもが駄々をこねるように。
「まだありますが……続けてもよろしいでしょうか?」
「も、もう——もう十分だ! やめろ! やめてくれっっ!!」
エディは目を充血させながら声を張り上げた。
リリエットも、震えていた。いつの間にか、床に扇が落ちている。
彼女は、さっきまでの余裕など欠片もなく、顔を歪ませて叫んだ。
「あり得ない! わたくしだけを愛しているんじゃないの?! ひどい、ひどいわ……っ! わたくしがあなたのためにどれだけのことをしたと思っているの——社交界でどれだけ根回しをして、どれだけの女を遠ざけてあげたか……! それがこの仕打ちなの?!」
リリエットははっと口を噤んだ。
しかし遅かった。広間の視線が、今度は彼女へと集まっている。リリエットは青ざめたまま、何も言えずに唇を震わせた。
床に崩れたエディは、シドルを睨み上げた。
「おい……き、貴様は……なんなんだっ!! 平民の分際で、貴族である僕に恥をかかせやがって……っ! 覚悟し——」
言葉が、止まった。
見上げた先のシドルの表情が、あまりにも冷たかったからだ。
笑みは消え、感情の温度がすべて削ぎ落とされたような、静かな、恐ろしい顔。
「アリス、という名の女性を覚えていますか?」
エディの顔が、絶望に染まった。
「彼女は……私の妹です」
シドルの声は、静かなまま変わらなかった。だからこそ、その言葉の一つひとつが重かった。
「妹は二年前、貴方に捨てられました。私の実家である男爵家が、経済的困窮から爵位を返上したからと聞きました。妹は、初恋の貴方から裏切られたショックから精神を病んでしまった。今も、家族以外の他人と話すことすらできない」
広間が、しんと静まり返っている。
「だから私は、復讐をすることにしたんです。必死に働き、支配人にまで成り上がり、証拠を集め——そして今日、貴方の本性を暴くことができた」
シドルの言葉は、そこで終わった。
沈黙が、落ちた。
エディはしばらく床を見つめていたが、やがて顔を上げ、声を震わせながら叫んだ。
「そ、そんな……そんなことを……ふ、ふざけるなっ! だいたい、大勢の女と遊んで、何が悪い!! 女なんて皆、僕の欲求満たしのための——」
パァンッ!
乾いた音が、広間に響いた。
エディの頬を打ったのは、彼の実母である伯爵夫人だった。打たれた勢いで床に崩れるエディ。頬を押さえ、涙を浮かべた目で母を見上げる。
「っは、母上……!?」
伯爵夫人の声は、凍えるほど冷たかった。
「人には皆、心がある。性別など関係ない。愛する人に裏切られるその苦しみと辛さを、お前は一度でも考えたことがあるのか? 女性を一途に愛することができないお前に、ヨーレン伯爵家を継ぐ資格などない!」
その言葉で、エディ・ヨーレンの今後の人生は決まった。
大修羅場の舞踏会は、こうして幕を閉じた。
エディはヨーレン伯爵家から勘当された。それだけでは済まなかった。
当主の命により、十年間の強制労働と僻地への永久追放が言い渡され、後継の座は生真面目な次男へと譲られた。
リリエットは、あの舞踏会以降、社交界に一切顔を出さなくなった。理由など、誰に聞かずともわかることだった。
そして、一時的な協力関係だったソレイユとシドルは、あの後も時々会っている。
病んでしまったアリスの心を回復させるために、何ができるかを一緒に考えながら。
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