信定と佐久間
信定が書院で書付を並べていたとき、障子の向こうから軽く戸を叩く音がした。
「弾正忠様、佐久間ですが。」
その声だけで、信定は片眉をわずかに動かした。
「……また妙な物を抱えて来たのではあるまいな。」
「妙な物かどうかは、召し上がってからご判断を。」
障子が開き、佐久間が籠を抱えて中へ入る。
香ばしい湯気がふわりと漏れた瞬間、信定の眉が僅かに揺れた。
「その匂い……また饅頭か。」
「“また”とはご挨拶ですね。武衛様の御機嫌伺いは済みましたので、今度は弾正忠様へお裾分けでございます。」
信定は筆を置き、静かに息を吐いた。
「和議が成ったばかりの時に、饅頭とは……。いや、むしろこういう時こそ必要か。」
佐久間は笑みを浮かべ、籠の蓋を外した。
丸々と膨らんだ蒸し饅頭が並び、ほんのりと甘い香りが部屋に広がる。
「甘味は、人の心を丸くいたしますからな。政治でも同じでございますよ。」
「そう簡単に丸まるか。」
信定がぼそりと言うと、佐久間は肩を竦めた。
「丸まらぬ石ほど、饅頭が効くのです。」
「わしを石扱いするな。」
「弾正忠様の芯の強さを申し上げたまでで。」
「その言い回しが石なのだ。」
二人のやり取りは淡々としているが、どこか心地よい軽さがあった。
和睦交渉の緊張がようやくほどけ、空気がゆるむような静けさだった。
信定は饅頭を一つ取り上げると、半ば呆れたように眺める。
「……丹羽の話では、麹で甘みを出したとか。」
「ええ。砂糖なしでも、こうして甘くなる。和議と同じで、工夫と落としどころがあれば形になるものです。」
「和議と饅頭を同列に語るな。」
「いえ、どちらも“苦いものを甘くする”という点で似ております。」
信定は思わず口元を緩めた。
「……確かに、今回の和議は苦かった。」
饅頭を口に含んだ瞬間、甘味がふわりと広がる。
信定の表情がわずかに和らいだ。
「……たいしたものだな。砂糖なしで、ここまで甘いとは。」
「大和守様の交渉も同じで。砂糖を渡さずに甘味を引き出す……見事なものでしたな。」
信定は苦笑して首を振った。
「いや、あれは辛うじて“甘味に見せた”だけだ。実際には辛さも残る。」
「辛い時こそ、甘い物の出番。ですから、弾正忠様にも必要なのです。」
佐久間は柔らかく言った。
その声音に、信定は目を伏せる。
「……民にも、こういった甘味を食わせてやれる日が来るのか。」
「来ますとも。少なくとも弾正忠様が秩序を整えておられる限りは。」
信定が顔を上げ、佐久間を見る。
その眼差しは静かだが、その奥には迷いと決意が交じる光が見えた。
「秩序か……。和議が済んでも、尾張の中はまだ乱れが残っている。」
「乱れのない国など、歴史の中にほとんどございませんよ。むしろ……」
佐久間は饅頭を一つ取り、軽く振って見せた。
「乱れの中に甘味があれば、皆、ほんのわずかでも前を向けます。」
「饅頭で尾張を治めるつもりか。」
「弾正忠様が政を治め、私が饅頭を治めましょう。」
信定はついに声を出して笑った。
笑い声が書院に満ち、重苦しい気配が溶けていく。
「……まったく、お前は混ぜ返すのがうまい。」
「混ぜるのは麹だけではございません。」
「余計なことを言うな。」
しかしその言葉には叱責の響きはなく、
戦や策謀とは別の、静かな人の温かさが宿っていた。
信定は饅頭をもう一つ取り、作務机の端に置いた。
「皆にも分けよう。少しくらい、甘いものがあってもよい。」
「ええ、そうしてくだされば。清洲の空気も柔らぎましょう。」
佐久間はぺこりと頭を下げ、軽口を残す。
「それは大義名分がございますな。“清洲を救うため”と。」
「饅頭に大義名分が要るか。」
二人の笑いが重なり、和議後の清洲にようやく春の気配が灯った。




