交渉
大和守は深く息をつくと、わずかに肩を回した。
数日に及ぶ折衝の疲れが骨に染みている。だが、まだ終わりではない。むしろ本番はこれからだ。
今川方の使者は、先ほどから一歩も引かぬ構えを崩さない。
彼らは、勝ち戦の証文を求めている――いや、実利を取りに来ている。
武功の喧伝ではなく、支配の線引きだ。
「さて……そろそろ御所望の“形”を示していただける頃合いでは?」
使者は柔らかく笑ったが、その目には刃が潜んでいた。
大和守は、その刃を真正面から受け止める。
(……あくまで勝者の体を装うか。遠江・三河を一つに束ねる腹は見え透いておるわ。)
正統な秩序は、遠江守護は斯波、三河守護は吉良――そしてその守護代も代々変わるべきものではない。
だが今川は、戦を口実に「彼らが治めるべき」と新たな序列を作りたいのだ。
「では――こちらの譲歩を示そう。」
大和守が静かに口を開くと、使者の眉がわずかに揺れた。
「三河守護代は、飯尾とするがよい。」
「ほう……」
一瞬、使者の目に満足の光が宿る。
飯尾は親今川。これを据えれば今川の影響は格段に強まる。
だが、大和守は続けた。
「ただし、遠江の大河内、巨海の降伏を認めよ。
彼らは斯波家に尽くした者たち。
これを容易く討つは、遠江の地を荒らすのみにて益なし。」
「それに……滅ぼすならば我らも引けぬぞ。」
使者の目がすぐに細まり、再び曇りが戻る。
「……降伏のまま残せ、と?」
「うむ。」
大和守は淡々と答えた。
その声音には、まるで揺らぎがない。
(親今川の飯尾を据えさせ、親斯波の大河内らを抱え込ませる……。
統治は一筋縄では行かぬぞ。だが今川は、勝ち戦の証が欲しい。)
使者は黙り込み、指で膝を叩く。
その小さな音が、部屋に響いた。
やがて、低く、吐くような声が漏れた。
「……容易い話ではありませんな。」
「承知しておる。」
大和守は静かに言った。
「だが、そちらが欲する“実”はこちらの懐から差し出した。
ならば、これ以上は欲張りよ。」
重い沈黙。
しかしその奥で、双方の算盤が激しく弾かれているのが見えた。
やがて、使者は口の端を上げた。
「……大和守殿の算段、まこと見事。
しかし、返答にはいささか時間を頂戴したい。」
「構わぬ。」
使者が下がった後、大和守は初めて肩の力を抜き、低く嘆息した。
(――飯尾を据えることで、今川は勝ちを喧伝できる。
大河内らを残せば、三河、遠江は二つの力が相争う火種を抱え込む……。
これならば、尾張も息ができる。
武衛様は……この塩梅をどう見るか。)
薄暗い障子越しに、冬の弱い光が差し込む。
それは、勝利とも敗北ともつかぬ淡い色だった。




