生まれた感情
「マスター」
「えっ?」
わが耳を疑い、目を見開いて顔を上げたエバの前には、ウィルが立っていた。
「ウィル、お前……何でここに?」
状況がまるで分からないエバに、ウィルは無表情で答えた。 銀色の瞳が揺れ、その息は少し荒れていた。
「マスターが、呼んだからです」
「マスター?」
マスターシェージの男が怪訝な様子で首を傾げ、ウィルを見た。
「アナタは彼のもとから去ったと情報が入っていましたが、これはどういうことですか?」
「私がここに居るということが、すべての答えです」
ウィルの瞳が銀色から黒色に変化し、じっとマスターシェージの男を見据えた。
「…………」
マスターシェージの男は口を閉じた。
現場に居なかったマスターシェージが呼び掛けに反応し姿を現したということは、その人間をマスターだと認識しているということ。
ウィルは無表情で立ちながらも、何かあれば一戦交える雰囲気さえ感じさせた。 マスターシェージの男は、エバに向けていた銃口を下ろした。
「分かりました。 何か情報に手違いがあったのでしょう。 マスターシェージに関しては、必ず正規の使い方を守ってください。 私たちはすぐに動きます。 では」
マスターシェージの男は残念そうでも無く、ただ淡々とそう言うと、風のように姿を消した。
再び静けさが戻った夜の公園のベンチに座ったまま、エバは立ち上がることも出来ずにウィルを見上げていた。 そしてかすれた声で尋ねた。
「本物か?」
ウィルの眉がわずかに動いたが、反応はただそれだけで、無表情に
「はい」
と答えた。
「リセットされたんじゃなかったのか? 俺のことも、忘れたんだろ?」
「リセットは、確かにされました」
「じゃあなんで……」
エバの質問攻めは
「分かりません」
というウィルの無機質な答えで締め括られた。
エバはそれ以上問い掛けなかった。 何かを納得していた。 今目の前に居るウィルが本物だと分かったような気がしたからだ。
そしてエバは、どこかすっきりした心でやっと立ち上がった。 ウィルは彼を見つめ、淡々と言った。
「では、私はこれで」
「ちょっと待て」
「はい」
エバは見上げるウィルから視線を外し、照れくさそうに頬を掻いた。
「その……今の仕事は、楽しいか?」
「仕事ですから。 そのような感情はありません」
「皆、良くしてくれるのか?」
「それなりに」
ウィルは抑揚の無い声で答え続けていた。
「仕事の途中だったのか?」
エバの躊躇した問いに、
「はい」
と答えた。 それきり会話が途切れ、ウィルが
「それでは」
と言い掛けると、エバはまた慌てて引き止めた。 ウィルの黒い瞳がじっとエバを見つめている。
「ウィル…………戻ってこねえか?」
エバはこの言葉を発することに、ひどく体力を消耗した。
今まで付き合ってきた女たちの誰にも、ここまで真っ直ぐ向き合うことはなかった。 だが、エバはウィルを手放したくないと強く思っていた。 今目の前に居るウィルをこのまま行かせたら、もう二度と会えない不安にかられていた。 その重圧の性でその姿を見られないエバに、ウィルは言った。
「それは、命令ですか?」
『そうか、マスターシェージはマスターを選べないんだ』
そう思い出したエバは、
『ええい! あとは野となれ山となれだ!』
と心の中で活を入れると、真っ直ぐにウィルを見つめた。
「ああ。 これは命令だ! お前は、俺のモノになれ!」
その言葉を聞いた瞬間、ウィルの頬を何かが伝い落ちた。
「おっ……お前っ?」
エバは慌てた。
「そ、そんなに俺と居るのが嫌なのかよ?」
動揺するエバがウィルの頬に見たのは、一筋の涙だった。 ウィルはそう言われて初めて気付いたように、ゆっくりと自分の頬に指先を這わせた。
「そ、そんなに嫌われてたのかよ、俺って?」
悔しい顔で頭をかきむしるエバは、痛む胸に眉をしかめながら、やはりウィルはレンドの所に帰そうかと思いを巡らせた。
ウィルは指先に付いた透明な雫を静かに見つめながら、変わらない口調で言った。
「いえ、これは……この感情は…………【ウレシイ】……?」
「えっ?」
エバは驚いてウィルを見つめた。 だが当のウィルは不思議そうに、雲から覗いた月の光を反射して輝く濡れた指先を見つめるばかりだった。




