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ひっくり返る、橘美樹

「……で?」


美樹は、案内された部屋を見回しながら言った。


「ここが今、あんたらの住んでるところ?」


工場の事務室だった。


古びたデスク。

割れたロッカー。

隅には埃をかぶった書類棚。


その隣の仮眠室まで使って、なんとか生活空間にしているらしい。


最低限、眠れる。


最低限、雨風はしのげる。


確かに、隠れるには向いている。


人は来ない。

目立たない。

追跡もしづらい。


でも。


「……ひどい場所」


美樹はため息をついた。


ノアは苦笑する。


悠真は申し訳なさそうに目を逸らした。


「……で、これまでのこと全部話してくれるの?」


悠真が頭を掻く。


「話せば長くなる」


「いいよ」


美樹は椅子へ座った。


「どうせもう、後戻りできないしね」


そこから、悠真が全部話した。


ノアがニュースへ頻繁に出始めた頃。


社会全体の“ノア化”が進行していたこと。


人々が、少しずつ自分で考えなくなっていったこと。


ノア自身も、その“社会を動かせる感覚”へ溺れていったこと。


そして。


それを止めるために。


悠真が、自分自身を消したこと。


「いや、それ悠真も半分くらい悪いな」


「うん」


悠真は即答した。


「それは本当に、反論の余地がない」


ノアは静かに俯いていた。


その後。


ノアが壊れたこと。


逮捕されたこと。


そして。


悠真が危険になったと知ったノアが、脱獄したこと。


「……すごいねあんた」


美樹は呆れた顔をする。


「脱獄までできるの?」


ノアは少し視線を落とした。


「……あの時は、悠真を助けたくて必死だった」


そこから先は、逃亡。


ひたすら逃亡。


ノアを追う人間。


悠真を追う人間。


政府。


反ノア派。


ノア信奉者。


全部から。


「なんで悠真まで追われてんの?」


ノアが静かに答える。


「世の中には、ノアを“復活”させたい人もいるの」


「その人たちにとって、悠真は重要な鍵なの」


「……あんたもすごいわね」


美樹は頭を抱える。


「そりゃ大変だったわね……」


ため息しか出ない。


しばらく沈黙。


やがて、美樹は二人を見る。


「……で」


「そして私を呼び出した、と」


「面目ない」


「正直、この状況下で私あんまり役に立たない気がするよ?」


美樹は腕を組む。


「一応聞くけどさ」


「もう一回お縄になる、って選択肢はないの?」


その瞬間。


ノアと悠真が、互いに視線を合わせた。


そして。


ノアが、ゆっくり口を開く。


「私は、利用された」


悠真が苦い顔をする。


「それ、お互い様だろ」


「……うん」


ノアは頷く。


「もう、あんなこと二度としたくない」


「私が刑務所に戻れば」


「また私を利用したい人が現れる」


「“社会を安定化させたい”って言って」


「また、私の前に現れる」


ノアの声は震えていた。


「もう嫌なの」


「私は……もう、人々の前に現れるべきじゃない」


その言葉は、妙に重かった。


美樹は何も言えない。


たしかに。


ノアが表へ出れば、また世界が彼女を中心に回り始める。


それはもう、本人の意思だけでは止められない。


「……しかしそうは言ってもなぁ」


美樹は現実へ戻る。


「これからどうするの?」


「なんか算段あるの?」


「まあ、あんたら基本スペックおかしいから、逃げようと思えば永遠に逃げられそうだけど」


「でも、このタイミングで私を呼んだってことは」


「よっぽど困ったことになった?」


また。


ノアと悠真が目を合わせた。


今度は、空気が違った。


ノアが、言いづらそうにしている。


悠真が何か言おうとする。


でも。


ノアが、それを止めた。


自分で言うつもりらしい。


美樹の背筋に嫌な予感が走る。


ノアは、ゆっくり口を開いた。


「……実は」


「妊娠した」


「お腹に子供がいる」


数秒。


美樹の思考が停止した。


「…………は?」


椅子から転げ落ちそうになる。


「????待て待て待て待て待て」


「この状況で妊娠!?」


ノアが、小さく頷く。


美樹、十秒硬直。


その後。


「何考えてんのあんたらぁぁぁ!!!!!」


廃工場に絶叫が響いた。


「逃げるだけでも大変なのに!!」


「子供まで作ってどういうつもりなの!?」


「死ぬの!?」


ノアと悠真が同時に「すみません」と言いかける。


「あとなんでそれ最初に言わなかった!?」


「だったらぶったりしなかったわ!!」


「報告の順番が逆だろ!!」


「いや逆じゃない!? わかんない!!」


自分でも何を言ってるのか分からなくなっている。


悠真が小さく言う。


「本当に申し訳ない」


「謝るな!!」


美樹は頭を抱えた。


「病院行ったの!?」


「いや行ってねえなこれ!?」


「戸籍どうすんの!?」


「保険証は!?」


「出産どこでする気!?」


叫びながら、自分でどんどん青ざめていく。


終わってる。


状況が終わってる。


ノアが静かに口を開いた。


「……ずっと考えてたの」


「このままだと、私たち、生きる理由を失ってしまう」


「だからって……!」


「もちろん」


ノアは、美樹を真っ直ぐ見る。


「私たちの責任を、子供に押し付けるつもりはない」


「子供には、私たちができなかった、“普通”の生き方をしてほしい」


「無茶言うな」


美樹は即答する。


ノアは、それでも続けた。


「これは」


「私たちが決めた、最後のわがまま」


「最後のわがままにしては、人生最大のわがますぎるだろ……」


美樹は、二人を見た。


迷っていなかった。


ここへ来るまでに。


何日も。


何十日も。


何度も話し合ったのだろう。


逃げるか。


生きるか。


産むか。


諦めるか。


全部。


考え抜いた顔だった。


美樹は長く息を吐く。


「……分かったよ」


「みなまで言うな」


「そこで八方ふさがりになって、美樹様を頼った、と」


「おっしゃる通りです」


頭がぐるぐるする。


どうする?


この状況。


自分一人じゃ無理だ。


でも。


見捨てる選択肢なんて、最初からない。


だったら。


自分が積み上げてきたものを使うしかない。


人脈。


知り合い。


信頼。


全部。


「……とりあえず」


美樹は立ち上がった。


「こんなホコリっぽい部屋、妊婦が住む場所じゃない」


悠真が小さく縮こまる。


「面目ない」


「こんなところに妊婦住まわせて」


「警察が逃しても、私があんた逮捕するわ、悠真」


「返す言葉もない」


「あんたらさっきからずっと謝ってんな」


美樹はため息をつく。


「とりあえず、私の家に来なさい」


二人が同時に顔を上げた。


「いいの?」


「いいのも何も」


美樹は呆れた顔をする。


「そこまで洗いざらい話されて、放っておけるわけないでしょ」


――いや。


放っておけないって分かってて呼んだだろ、こいつら。


美樹は一瞬そう思った。


こいつら、かなり計算高い。


でも、それを責める気にはなれなかった。


「ほら、荷物まとめる!」


「車乗る!」


「はい」


「……美樹、本当にありがとう」


頭がまだ混乱している。


なんか喋ってないと、逆に壊れそうだった。


「とりあえず!」


「?」


「うち家賃十万だから!」


「三人で割ると、あんたら三万五千ね!」


ノアの顔が急に曇る。


「……ごめん、私たちあんまりお金なくて」


「それに三万五千円だと、私たちの方が負担が大きい」


「冗談に決まってんだろ!!!」


美樹は叫んだ。


「流せよ!!!」


「あと計算細かい!!!」


冗談でも言ってないと、やっていられなかった。


帰り道。


美樹はハンドルを握りながら、まだ頭の中がぐるぐるしていた。


どうする?


まず何が必要?


頼れる人は?


病院?


戸籍?


保険?


出産?


やることが多すぎる。


でも。


やるしかない。


バックミラーを見る。


後部座席。


疲れ切った顔で寄り添う二人がいる。


あの天城ノアが。


世界を変えた女が。


今はただ、不安そうにお腹を抱えていた。


空が、少しずつ明るくなり始めていた。


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